第6話 お吟と晴雄

文字数 4,119文字

 お吟たちが再び、部屋に呼び戻されたところで、入れ替わりに高橋らが席を外して部屋を出て行ったため、中には晴雄だけが残されていた。
「あらお帰りですの?」
 芸妓たちは困惑して再び部屋を出て行ったが、お吟は部屋に残った。晴雄は、低い卓袱台(ちゃぶだい)のようなテーブルの上に出されていたスペイン語と英語訳の契約書、それにいくつかのスペイン語や英語の書類を片付け、鞄にしまおうとした。お吟はふと口にした。
「お兄さんたちの読んでるその書はフランス語?」
 晴雄は、フランス語だという想像自体に驚いた。多くの日本人にとって英語もフランス語も、ましてやスペイン語だって見た目で区別なんかできないはずだ。
「なぜ、フランス語だと思ったんだい?」
「いや、英語じゃないのは文字の感じでわかったから。英語の文字には、そんなにょろにょろしたのついていないじゃない?あたし、本当にちょっとだけだけど、英語を習いかじったことがあるのよ。昔、ほら築地に異人さんたちの居留地あって、異人さんたちいっぱいいるじゃない?」
「にょろにょろか、そりゃあいい。」晴雄は心の底から笑った。「なるほどね、確かに。いや、にょろにょろはアクセントの記号でね。これはスペイン語で書かれているんだ。」
 お吟はふーんと言った顔で、興味津々に続けて質問した。
「そっちの書は私もわかる、って言っても意味まで分からないけど、英語よね?」
 お吟は、私だって捨てたもんじゃないというようなすこしばかり得意げな顔をして、質問を続けた。
「そのスペイン語の文字、それはアーチクロって読むの?」
 晴雄は心底驚いた。
「やっぱり読めるじゃないか。いやスペイン語だと、アルティークロ(Artículo )と読むらしい。僕もスペイン語に堪能なわけじゃないんだ。しかし凄いじゃないか。」
「英語のアーチクルと同じ?記事?」
「英語のアーティクル(Article)と同じで、確かに記事という意味があるが、この書類はね、契約書って言ってね、証文みたいなものさ。約束事を書き連ねていくんだ。契約書上でアーティクルって言うのは、条とか章という意味になる。いやあ、芸妓にも教養があるのがいるのは知っていたし、時たま驚かされることはあるが、外国語がわかる半玉がいるとは思わなかったなあ。凄いよ。」
 晴雄に褒められて、お吟はうれしくなって得意げな顔のまま、晴雄にお酌した。
「大したものだ。英語とラテン系の言葉の違いがわかる雛妓(おしゃく)なんて、粋だね。」
 晴雄が猪口(ちょこ)の酒を一気に飲んだので、お吟は続けてお酌した。
「英語は元々、ドイツ語とフランス語から来た言葉だって宣教師の人が言っていたの。だからね、フランス語かなって思ったのよ。」言った後に、お吟は少しだけ顔を曇らせて、口を尖らせた。「英学校とか女学校っていうの、女でも行ける学校があるじゃない?あたしも行きたかったんだあ。」
 晴雄は一瞬、目をそらして下を向いた。
「お兄さんは学士さんなんだってね。学があるんだねえ。あたしは学のある人がうらやましいよ。」
「英語くらいならいつでも教えるよ。」
 晴雄はどう答えていいのかわからなくなったので、適当なあいそを言ったつもりだったが、お吟は目を輝かせて晴雄の顔を覗き込んだ。
「ほんと?」
「もっとも、今出て行った達磨みたいな人、高橋是清って言う人だが、東京大学の予備門の英語の先生だったんだよ。俺も英語はあの人に習ったんだよ。」
「へえ、人は見かけによらない、って言っちゃあ失礼だけど、丸顔でやさしい感じの、普通のお父さんみたいだったけど、学があるんだねえ。」
「ああ、でも、その親父さんに英語を習ってるとき、他の学生が質問したんだ。先生、この場合の文法からすると、そこは先生のおっしゃった意味じゃなくて、斯々然々(かくかくしかじか)じゃないですかって。するとあの親父さんは、『諸君、諸君はこれからこの国を背負って行こうという若者です。そのような人たちがそんな細っかいことにこだわってどうするんですか』って言うんだ。終始、そんな感じな人だったけどね。」
 晴雄の話にお吟は無中になっていて、すっかり晴雄の目を覗き込むように見つめていた。晴雄は慌てて目を逸らした。
「ねえ、英語もなんだけどさ、あたし、お兄さんに仕事のことも教えてもらいたい。」
 お吟の言葉につくづく変わった芸妓だと晴雄は思い、今度は晴雄の方がお吟を覗き込むように尋ねた。
「なんでそんなことに興味を持つ?芸妓らしくないな。」
「いいじゃない。お兄さんたちは何をやろうとしているの?銀の山を掘りに行くの?外国に?」「ああ、秘露(ペルー)って南アメリカにある国なんだが、南アメリカってわかる?」
「アメリカの南よね。」
 笑いながら答えるお吟は、純粋無垢で、まだあどけなさの残る感じだった。
「アメリカがどの辺にあるかわかるかい?秘露(ペルー)は、日本から見たら地球の裏側みたいなもんさ。」
「へえ。でも、どうしてそんなところまで行くの?日本にだって銀山はあるって聞いてるけど。」
「ああ、銀はね、元々日本は沢山採れるんで外国にも有名だったんだよ。だから、国は銀山の開発に力を入れたけど、外国との貿易で国を富むようにするにはまだまだ銀が欲しいんだよ。秘露(ペルー)の銀は、ものすごく純粋なもので、日本のものの何倍もの価値があるんだよ。」
 晴雄がそう答えると、お吟は思い出したように強請(ねだ)った。
「ねえ、さっきの濃紅銀鉱(ルビーシルバー)って言うの?前も見せてもらったことあるけど、もう一度、よく見てみたい。」
「ああ...」
 晴雄は軽くうなずくと、濃紅銀鉱(ルビーシルバー)を鞄から取り出すとお吟に差し出した。
「綺麗...白っぽい石の中から閉じ込められた光が、その隙をついて外に飛び出そうとしているのね。透明だけと、外には出られない、でも中では輝き続けている。芸妓の世界と似ているわ。」
 晴雄はやや困惑した。
「外へ飛び出したいのかい、花柳界の外へ?」
 お吟は、少し虚ろな表情をしたまま、晴雄の質問には答えなかった。
「この石はね、結晶化したものを閉じ込めていると言えば言えないこともないが、実際にはこの鉱石は固いものではなく脆い。簡単に崩れる。この輝きは解き放たれるのを待っているようでもあるが、実際にこの紅色は内部反射と言って、入り込んだ光が中で反射して透き通っているように光ってるんだ。芸妓は輝いて、そしていずれ、誰か偉い立派な金持ちに見初められ、落籍(ひか)れるのを待っている。この銀の石も反射して輝いて、いずれ銀として取り出されるのを待っている。」晴雄は一呼吸おいて続けた。「芸妓は、そうやって見染められて、本妻か妾になるという夢がある。それは花街(かがい)の女にとっての幸せというものではないのかい?」
 それを聞いて、お吟は少し口を尖らせた。
「それって、誰かに自分の人生を委ねるってことよね。」お吟は濃紅銀鉱(ルビーシルバー)の石を突っ慳貪(つっけんどん)に晴雄に返しながら話を続けた。「男の人が羨ましい。自分の夢を追いかけられて。女だけが、なんでそんな男の夢に自分の人生を任せなくちゃならないのかしら。」
 晴雄は笑った。
「君はやっぱり変わった雛妓(おしゃく)だな。そんなことを考えている女が花街(かがい)にいるとは知らなかったよ。芸妓っていうのは、着飾って、芸を磨いて、そうやって誰かから見初(みそ)められるのをみんな待っているものと思い込んでたよ。君は面白いね。」
 それを聞いてお吟は、すこしいたずらな顔で晴雄の顔を覗き込んで、微笑みながら告白した。
「ねえ、お兄さんだったら、あたしを身請けしても良いよ。お兄さん、あたしはお兄さんみたいな人に身請けしてもらいたいよ。ただし、お妾さんはごめんだけどね。」
「僕はね。一応、許嫁みたいな人がいるんだよ。」
 お吟の顔が明らかに曇った。
「会津のね、家は元々山形藩だから、会津に親しくしている家があるんだけど、戊辰戦争でめちゃくちゃになったお家を建て直すために、養子縁組を親同士が考えているようなんだ。僕も会ったことはある。まだ何も正式に約束したわけではないんだけどね。」
 お吟は、明らかに不貞腐(ふてくさ)れた。
「それに今度、もう一度秘露(ペルー)に行くんだ。行けば一年くらいになるかもしれん。」「そんなに」
 お吟はため息をついた。そんな寂しそうな顔を見せられて、晴雄の気持ちが初めて揺らいだ。素直に可愛らしいと思ったのだ。
 晴雄は、派手に女遊びをする方ではない。これまでも学問と鉱山の仕事一筋だった。色恋に興味がなかったというわけでも無いが、多くの士族の家がそうであるように、親が決めた許嫁といずれ所帯を持って家督を継ぐことになるのだろうと漠然と考えていたのだ。
 しかし、自分への感情、それが色恋なのかどうかまでは分からなかったが、少なくとも少しは持っていてくれる好意というものを、ここまで素直に表現する十八歳の雛妓(おしゃく)に、無関心では居れなくなったのだ。
「あたしも行ってみたいなあ。」
「そりゃあ無理だ。」
「男の人たちはいいわよねえ。幕府が倒れて、あたしたち士族の家は大変な目にあったけど、でも、その分鉱山だとか貿易だとか、いろんな商売をやれるようになったわよね。誰でも身分に関係なく、自由にいろんなことができるようになったわよ。でも、女は相変わらず。芸妓だって、だれかいい旦那に見初められて身請けされるのを待っているだけ。昔よりも不自由よ。男の人たちは勝手気ままだけど、女はそうはいかないわ。」
 お吟は、まるで晴雄がそこに居ることを忘れたように、婦人運動家のように自説を唱え始めた。
「でもね、あたしはいずれ商売を始めるわ。ね、商売なら男女は関係ないはずよね。誰だって、同じものなら安い方が良いはず。物を買う相手が男か女かなんて関係ないわよね。そうね、何か物を売るより、あたしたち花柳界の人間だったら、人をもてなす商売が良いわね。料亭も良いけど、それじゃあ花街(かがい)と変わらないわね。何か人々が寛げるような、そんなものを提供できる、そういう商売が良いし、それなら女であることは全然不利にならないはずよね。」
 お吟は独立宣言の演説を終えると、一瞬、ため息をつき、その後、踵を返すように晴雄の方に向いて、突然、一つの提案をした。
「ねえ、出発の日、新橋の停車場まで見送りに行ってもいい?」
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