第9話 アンデスの幻

文字数 7,324文字

 抗夫達が日本から到着して、いよいよ鉱山を目指して出発できる体制が整ったが、昔から鉱山で働くような者たちは荒くれ者と相場が決まっていた。坑夫達は秘露(ペルー)に着いてからも、坑夫達同士や、あるいはへーレンの使用人たちとの間でいざこざばかりを起こし、騒ぎが絶えたことが無かったくらいだった。
 山口慎という是清と旧知の中の男が是非とも自分も秘露(ペルー)に行きたいと言って、坑夫達と同じ船で秘露(ペルー)にやってきたのだが、坑夫連中はその秘露(ペルー)に来る途中の船でも常にいざこざを起こしていた。そこで結果として、山口がこの荒くれ男たちの面倒を終始見るはめとなっていた。
「日本人というのは、皆礼儀正しい者たちだと思っていたんだが。」へーレンが屋須にこぼした。
「へーレンさん、築地にいらしたことがあるなら覚えてらっしゃるでしょう。毎年、花見の季節になれば、酔っ払いがそこかしこで乱闘騒ぎを起こしていたのを。」屋須は珍しく笑いながら、へーレンに思い出させようと日本の乱痴気騒ぎの話をした。「それにしても、確かに、この連中は特段に元気が良いようです。」
 屋須の話に晴雄が納得できる説明を加えた。
「鉱山で働く人間には、元々荒くれ者が多いんです。やくざ者と言って良いです。だいたい、いつも酒飲んで暴れていてやくざ者の巣窟となってしまっているんです。いくら言っても酒と博打を彼らから取り上げることなどできませんでしたよ。」
 へーレンがやっと納得し始めたところ、またもや、酔った坑夫同士が大喧嘩を始めてしまった。山口は何人かの抗夫を投げ飛ばし、やっとこれを治めた。晴雄は酔って暴れたままの男を取り押さえた。しかし、一瞬気を許した時に再び暴れて、これを取り押さえる時に足に怪我してしまった。かなり深く切ったのと、捻挫のような痛みが出てしまったのだ。屋須が心配した。
「田島さん、大丈夫ですか。これでは登山できないのではないですか?」
 晴雄は痛みを堪えてはみたものの、これでは登山など到底、無理に思われた。この話を聞いて是清は激怒して坑夫達を叱りつけた。
「諸君らがそのような乱暴狼藉を働くのであれば、今すぐ日本に帰ってもらいたい。ここで今後、行動を慎むことを誓約できぬものは、この事業には参加させない。」
 是清はこうは言ったものの、山口からこの連中の船中での狼藉ぶりを聞かされていたので不安ばかりが高まっていた。晴雄の怪我を見て是清もあきらめ顔になった。
「田島君は無理だろう。日本人の案内も欲しいし、鉱山を調べてもらいたかった。残念だが致し方あるまい。」 
 二月十二日の朝、是清、屋須、山口と何人かの坑夫達とでカラワクラへ向けてリマのモンセラーテ駅から中央鉄道に乗り出発した。サンフランシスコ領事の河北氏が指摘した、グレイス商会からの借款によって作られたペルー中央鉄道だ。カラワクラ鉱山は四千メートルを超える高い地帯にあるので、時間をかけて行かないと高山病になるという医師の忠告も受けて、近くの町チクラまで丸三日間かけて行くこととした。
 列車は日本の山間と似たようなところも走ったが、多くの山は岩肌が露出しごつごつしていた。さらに列車がアンデスの山に入っていくにつれ、急峻で肝を冷やすような崖やとんでもない高い位置に架けられた橋をいくつも渡っていった。列車は何度もスイッチバックして山を登って行く。その度毎に一気に高度が上がり、空気が薄くなっていくのを実感した。周りの景色もどんどん変わっていく。チクラに近づくと木が少なくなり、高原特有のハンノキなども見られなくなった。
 汽車が中央鉄道の終点、チクラに着いたが見事に何もないところだった。このチクラが三千七百三十四メートルである。カラワクラはここからまだ登っていかなくてはならない。富士山に着いてからさらに上に登っていくようなものである。
 この高地特有の空気の薄さで、是清は高山病になってしまった。仕方がないので体を慣らすためにチクラで二日間泊まった。是清も三十五歳になっていた。年齢的に体力の落ち始めの頃ではあったのだ。
 二月といっても、ここは南半球であり、今は夏なのだ。アンデス登山には良い季節に思えたが、この辺りは雨期に入っていた。チクラでは、午後になると必ずと言って良いくらい雨が降った。標高が高いので夏といっても気温が低く、雨に濡れれば、ただでさえ疲れた体からさらに体力を奪って行く。体力の回復のために二日間必要だった。

 そうは言ってもいつまでも何もないチクラの町には居られないので、高度に体が慣れたところで、一行は再び山を目指して出発した。ここチクラからヤウリという町までは鉄道もない山道だった。もっとも、建設予定の中央鉄道延伸のため切り開かれた道が既に出来上がっていた。そこをつたってヤウリを目指して歩き始めた。この辺りにはもはや草木もなく、荒涼とした地獄のような景色が壁のように広がっていた。
 ヤウリは標高約四千二百メートルである。そこに辿り着くためにまだまだ山を登っていかなくてはならない。是清は国家の為に命を賭する覚悟だと言っていたが、多くの抗夫にとってそこまでの気概があるわけもない。ヤウリに着くなり、現地人とまたいざこざが起きた。いや、起こしたと言うべきだろう。何もない山の中で、喧嘩騒ぎが彼らにとっての唯一の娯楽なのだ。ヤウリに着いて、さらに多くの者が高山病で動けなくなった。仕方がないので、ここからカラワクラの鉱区へは、屋須と小池という技師と何人かの坑夫だけとなった。
 ヤウリに残っていた是清のところをガイヤーが尋ねてきた。
「I’m very pleased to meet you, Mr.Takahashi. (高橋様、お会いできて嬉しいです。)」
 ガイヤーは、日本では高田商会がフレイザー&チャーマーズの代理店をしていること、既に高田氏が日秘鉱業会社の株主となっている事を是清に告げた。是清はもちろん知っていた。また、鉱山の事についてもガイヤーに色々聞いておくべきだと考えた。そこで、ガイヤーに翌日の開山式に参加して欲しい旨を伝え、ガイヤーも了承した。
 翌日、是清たちはカラワクラのサンフランシスコ坑区で開山式を行った。日本のしきたりに従ってお神酒も配られるなどの神道式で行われたが、ガイヤーにはもちろん神道の知識は全く無かったので色々戸惑っていた。
 ガイヤーにもお神酒が振る舞われるとガイヤーはそれを飲み干したが、一気に表情が険しくなった。日本の酒など飲んだことが無かったガイヤーにとっては、口元に妙な甘たるさが残る異様な味に思えたのだ。酒をなんとか飲み交わしながら是清はガイヤーに話しかけた。
「精錬機械についての見積もりを頼みたい。」
 是清は、フレイザー・チャーマーズが秘露(ペルー)の二鉱山で実績があることを知っていた。ガイヤーはすぐに作成してキンタへーレンに送ることを約束した。

 坑夫達はすぐに仕事に取り掛かり、鉱石を掘り出し始めていた。是清は安心した。
「いよいよ、始まったか。」
 是清は作業が始まったことを見届けると、一人先に下山した。リマのホテルに戻ってから三日ほどでガイヤーからの見積もりが届いた。見積もりの金額は妥当であるとすぐに判断し、ガイヤーに精錬機械を注文しようと返事を書いている所にへーレンが飛び込むように訪ねてきた。
「是清さん、一体日本人はどうなってるんだ?」
 何のことかわからず、是清はへーレンに落ち着いて話をするよう諭し、まずは手前にあった椅子に座らせた。
 へーレンが言うには、カラワクラの鉱山宿舎で連日乱闘騒ぎが起こり、中の一人が短刀で現地の秘露(ペルー)人を切りつけたということだった。幸い、怪我は浅かったが、切りつけたその男が今度は短銃で撃たれた。実を言うと、男は短銃で撃たれたのではなく、短刀で切り付けられた報復をしようと秘露(ペルー)人が部屋に入ってきた場合にそれを待ち構えて撃つつもりで拳銃を用意していたのだが、それが暴発したのだった。
「是清さん、こんなに扱いにくく、しかも工賃も高い日本人をさらに金を出して日本から呼ぶなんて馬鹿げている。秘露(ペルー)人ならもっと給金も安く済むし大人しい。日本からこれ以上、坑夫を呼ぶのを止めてもらいたい。」
「何を今さら。既に日本から、追加の抗夫を呼んである。第二弾、第三弾と次から次へとここに向かっておる。」
 へーレンは泣きそうな情けない顔をして、是清の顔を黙って見ていた。是清にしても、これ以上坑夫達にいざこざを起こさせてはならないと考えた。

  一方、カラワクラに残っていた小池達の泊まっていたところは、石だけでできた覆いも無い、非常に寒いところで、気の荒い工夫達は、ここでも常にペルー人といざこざを起こしていた。屋須は、そうしたごたごたの後始末に追われながらも、採掘を始めるための測量を開始していた。小池が測量のためにサンフランシスコ坑区を巡回していると、奇妙なことに気付いた。荷車や、掘削道具が錆びて放置されているものが少なからずあったのである。
「かつて採掘を試みた者が居たのだろう。」
 小池は、山口、屋須と何人かの坑夫達とで顔を見合わせたが、採掘を試みた者が居たこと自体は別段、不思議では無かった。
「四千メートルを超える山で、しかも鉄道が無かった時代に、大勢の抗夫がやってくることも難しかったろう。手掘りを試みた者たちもあったかも知れないが、そんなに多くの事はできなかったのだろう。」
 山口が口にした楽観的な想像は、次に目に飛び込んできた風景によって打ち消されるのであった。
「これは石を積んだ跡ではないか。」
 山の肌と思っていたところに人工物があったのだ。小池は鶴橋でその石の垣を叩いてみた。かすかに残響音が聞こえた。
「この中に、洞があるんだな。」
 坑夫達と石垣を崩そうと鶴橋を何度も打ち付けたが、さすがに簡単に崩せるほどの人工物ではなかった。
「ダイナマイトを仕掛ける。すこし下がってくれ。」
 小池が小屋から作業用の鞄を持ってきて、中からダイナマイトを取り出して、手慣れた手付きで、石垣の数か所にダイナマイトを仕掛けた。一同が下がって様子を見ていると、激しい音と共に石垣の一部が崩れて、その先に穴らしきものが見えた。坑道の様であった。手で崩れた石垣をかき分けてみたところ、想像していたのよりもずっと大きい坑道の入り口があった。
「なんてことだ。」小池は茫然とした。「何かおかしい。」
 小池、山口と屋須の三人にだけ笑い声が聞こえた。山が...銀の山が笑っている。秘露(ペルー)人に馬鹿にされたような、恥ずかしい気持ちが込み上げてきたのだ。
「入ってみっか。」
 坑夫の一人が中に入って調べる事を提案したことで三人は我に返った。一抹の不安、鉱山が既に何者かによって掘られてしまっている物だという不安を何としても打ち消したかった。きちんと調べて、鉱山自体はまだ多くが手つかずだと証明したかった。
 小池は坑道に入るような準備がなく、危険であるため躊躇したが、気が付くともう坑夫は坑道の入り口から奥へと入り込んでいった。仕方がないので小池は黙って待っていたが、坑夫はいつまで経っても帰ってこなかった。事故が起きたのであろうか。やはり十分な準備無しに中に入れるべきではなかったと小池は後悔した。
 何度も坑道の中に呼びかけてみたが応答はなく、夜も十時になったので捜索を打ち切って小屋へ戻ろうとした時、中から音がした。
「いやあ、腹が減ったので、もう終わりにすっかと思って戻ったよ。」
 坑夫が坑道から出てきたので、他の抗夫と一緒に無事を喜び、とにかく小屋へ戻って休ませることとした。この小屋へ戻る道すがら、坑夫は中の様子を話し始めた。
「いや、びっくりしたよ。とにかく、洞はかなりの大きさで、所々、水もたまっていて歩き辛かったんだ。でも、自然の洞窟のような狭さじゃなくて、大勢の抗夫が石を運ぶには十分な広さだった。」
 坑夫を小屋の中に入れて他の抗夫にお茶を入れさせた。
「それと何か食べ物を用意してくれ。」
 他の抗夫は、二度炊きして握り飯にしておいたものをいくつか持ってきた。すぐに湯が沸き、日本から持ってきた急須でお茶を入れ、穴に入った坑夫の湯のみに注いだ。
「さっきも言ったが、とにかくでかい穴だ。中は伽藍洞(がらんどう)の様だった。そして無数の小さな坑道があって、竜頭(りゅうず)のようだ。」
「とにかく、明日夜が明けてから調査をしてみよう。斯かる予想外の事態である以上、中を調査しいくつか採掘して、一刻も早くにその石を分析にかけてみないとならない。」
 山口の提案に小池も頷いた。翌朝から再び、坑夫が坑道に入って行った。できるだけ深い部分からも石を採取して、どの程度掘られたものなのか調べなくてはならない。数人の抗夫が時間をかけて、一トンくらいになる量の石を、主に最深部近く、中央当たりで採取した。
 早速、小池が分析にかかった。結果が出て、小池は愕然とした。どの部分から採取した物ももちろん銀が含まれていなかったわけではないが、いずれも低品位鉱であり、大量に掘り出し精錬しないと銀として売ることなどできない。つまり、この銀山はその主要部は数百年に渡ってほとんど掘りつくされていたのだ。
濃紅銀鉱(ルビ―シルバー)どころじゃない!」小池がその場で声を荒げた。

 小池は翌日、一人でチクラまで下山し、リマ行きの列車に飛び乗った。そしてリマに戻るとすぐに是清に報告した。これを聞いて是清は、顔が紅潮したのが自分でわかるほど激怒した。銀山は既に掘りつくされた廃鉱であることを知り、すぐに晴雄を自分の部屋に呼びつけた。
「どうなってるんだ。君が調査をしたと言ったから、我々は大金集めて事業に乗り出したんだぞ。」
 晴雄は必死に弁解した。
「お忘れですか。私は、現地に行って表層を調べましたが、試掘も認められておらず、調べることにも限界がありました。その事は先生にもお話したはずです。」
「それにしたって、君の報告では、鉱床から推測される含有量はこんな低品位ではなかったはずだ。」
「先生、試掘が出来ない以上、私はへーレンから与えられた鉱石見本を分析してみただけです。また、鉱床全部を測量するのは無理なんです。権威ある鉱山雑誌を頼る以外ありません。それを疑っては学問にはなりません。」
「我々は学問をしているのではない。事業をしているのだ。」
 声を荒げたところで後の祭りであることは是清にも十分わかっていた。是清はすでに次の事を考えていた。晴雄の昨年の調査報告が全て間違いであることが株主に知られたら、この事業は金詰りを起こすだろう。何としてもその前に日本に帰り、応急処置をし、新たな会社を設立した上で資本を増強しなくてはならない。それと、へーレンとの契約も何とかしなくてはならない。

 「へーレンさん、このままでは事業は取りやめとする以外にないと思う。」
 是清が唐突に話した内容にへーレンも驚愕した。そしてへーレンの赤みがかった頬がさらに強い赤に変わった。
「そもそも、小池が何と言っているのか知りませんが、カラワクラが廃鉱であるなどというのは何かの間違いでしょう。」
「それなら再調査をしようではないか。」
 是清の提案にへーレンは気色ばんだ。
「何をおっしゃりますか。それに、小池はなぜ許可もなく下山してきたのでしょうか?本社の許可もなく、勝手に移動するような統率の取れないことは、ドイツでは考えられません。また、あの山は現時点で私の所有となっています。再調査をするというのであればきちんと契約を結び、日秘鉱業会社の所有物としてからにしてもらいましょう。」
「へーレンさん、あなたはそう言って去年の調査でも試掘を認めなかった。もしや、最初から事の次第を知っており、その上で我々を誘い込んだのではないのか?」
 是清がへーレンを詐欺師呼ばわりしたのも同然だったので、へーレンも気色ばんだ。
「そもそも、私は鉱山事業を提案したのではないです。今の言葉は取り消してもらいたいです。農場経営について日本人の力を借りようと井上を日本に派遣したところ、そちらが勝手に鉱山事業にのめり込んだのではないですか。それに釣られて、私だって既に二十五万英ポンド出資しています。誰が好き好んで自分も損する詐欺など働くものですか。」
「よろしい、へーレンさん、再契約をしましょう。」
 是清は契約条件の提案をする前に、秘露(ペルー)の鉱山事情に通じているガイヤーを呼んで、話をしたいと言ってその日はへーレンと別れた。

 是清があの山は廃鉱ではないのかとガイヤーに質問したところ、ガイヤーは事も無げに答えた。
「元々、あのあたりは、数百年、散々採掘された山だというのはかなり広く知られた事で、そんなことは知った上で事業化にチャレンジしようとしているのだと理解しておりました。数年前にたまたま近くで銀鉱床に当たり、少し掘ったところで高品位の銀鉱が見つかったことがありました。貴殿らが見たという濃紅銀鉱(ルビ―シルバー)というのはそれの事でしょう。それであのあたりを調査したことがあったのですが、銀品位が千分の一以下の銀鉱石しか出てきませんでした。この事は当社のニューヨーク本社に知らせていますので、日本の高田商会にも知らせてあるはずです。」
 是清は追求した。
「嘘だ。貴君は昨年、田島君と一緒に調査に同行して山に登っているではないか。」
「いえ、私も最初から変だとは思っておりましたが、人の事業に口出しするのも憚られますので...」
「そもそも、貴君が見積もってきた精錬機械は高品位鉱を前提としたものではありますまいか。少なくとも貴君が持っている情報を我々に提供しなかったのですから、信義則に反した行為であることは間違いありますまい。」
 是清が執拗に追い詰めたため、ガイヤーは旗色が悪くなり、冷や汗を滲ませたが、のらくらと責任回避を続けた。是清はこれ以上は口で何を言っても始まらないと考えた。裁判などで信義則に(もと)るとして追い詰めることも考えたが、ここ秘露(ペルー)の地で裁判を起こして、何等かの有利な判決を導き出すことができるものかどうか自信が無く、また得策にも思えなかった。



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