第21話 黒い龍達の夜

文字数 6,324文字

 三月にロシア軍を破って奉天を占領した日本軍は、五月の終わりには日本海海戦で完全に勝利した。日本国内は戦勝ムードに包まれ、東京中が沸騰した。しかし八月二十九日、ポーツマスで小村寿太郎は苦悩しながら、南樺太の割譲、大韓帝国への日本の指導権を確保する条約に調印した。
 ヘンリーはこの頃何かと騒ぎを起こしていた黒龍会の内田に会いに、烏森からもほど近い、彼らの事務所を訪ねた。
「英国人の記者?悪いが今は相手にしていられないんだがなあ。ここの人間は誰も外人とは話をしたいとは思わんよ。内田?葛生?お前外人のくせによくそんな名前を知っているな。葛生も内田も忙しくてここには来ておらん。またにしてくれないか?ポーツマスの事で?しょうがないなあ、俺で良かったら話してやるよ。長谷川って言うんだ。うちの会の報道関係の相手は大体俺がやってる。でも英語はできんぞ。ああ、お前さんは日本語はうまいな。その点は感心な奴だ。で、何だ?ポーツマスの事か?もちろん、許せんよ。小村のやった事は国辱だ。日本の兵隊が何のために血を流してきたと思ってるんだ、小村の野郎は。断固として政府へ抗議するつもりだ。実質的な日本外交の勝利?現実的妥協?何を言ってるんだよ?やっぱりお前さんは何にもわかってないな。何が現実的だよ。ああ、俺は怒ってるよ。そう、黒龍会は元々愛国者の集まりだが、この名前の由来が何か知っているか?教えてやるよ。黒龍っていうのはな、中国とロシアの国境を流れている黒龍江の事だ。ロシアではアムール川と言ってる川だ。元々そこまでが我が国の生命線なんだよ。根拠?そりゃあロシアの南下政策を食い止めるギリギリのラインがそこだって事だよ。ロシアの南下を止めるために日英同盟はあるのじゃないのか?そんなこともわからないのか?俺たちが勝手な事を言ってるんじゃないって言う事はわかるだろ。もうずっと以前から我が国の防衛について俺達は真剣に考えてきたんだ。だから内田はずっと前に黒竜江の視察にも行ってる。頭山?ああオヤジは黒龍会の後ろ盾になってもらってる。違う!決してオヤジが全てを指示しているわけじゃない。葛生と内田が自らやってることを見守ってくださってるんだ。頭山は多くを語らない?お前会ったことあるのか?これだから外人にはわかんねえんだよ。オヤジは極めて深い考えをもった人間だ。多くを語らなくたって、日本人だったらそんな事は皆に伝わるんだよ。あんなに思索に富んだ人間はいないし、あれだけ深い愛情を持ってこの国を見つめている者もいないんだ。唯一無二の存在だ。そんな存在は後は天皇陛下くらいしかいらっしゃらないだろう。陛下が西洋的な合理主義者だって?馬鹿か、お前は。第一、俺たちだって合理的に考えているよ。単なる一時の感情で国を動かされちゃかなわん。だからこそ、小村のような日和見主義者じゃ駄目なんだよ。もっと、この国の事を学んでくれ。そうすりゃあ、日英同盟もある事だし、もっとこの国と貴様の国とで、世界を発展させることができるさ。お前しかし、日本語うまいな。今度、俺たちの仕事を手伝わないか?何、外国政府に向けて宣伝ビラのようなものを英語で作って各国の大使館で撒こうと思ってんだよ。暴力?人聞きの悪いことを言わんでくれ。国賊に鉄槌を食らわせるだけじゃい。それの何が問題なんだ?小村に会ったのか?ひどい消化不良だったって?グラント将軍との昼食会をキャンセルしたって。グラント将軍こそは本当に日本の事を考えてくれる貴重なアメリカ人だ。お前もグラント将軍に会って話を聞いてくれば良い。秘密会議が有ったそうじゃないか。小村は何も言ってなかったか?ノー・コメント?そりゃあそうだろう。戦争を終わらせるための売国的な秘密会議だからな。何?お前、賠償を取れなかった事が日本外交の勝利だって言うのか?南樺太と南満州鉄道が取れたのが実質的成果じゃと?もう帰れよ。話にならん。日本に余力が無かっただと?馬鹿も休み休み言え。ニッポン軍はまだまだ意気軒高だった。いくらでも戦える状態だったんだ。戦費?資金調達の限界だと?まるで高橋是清のような事を言っておるな。そんなものはどうとでもなったわい。戦争は金でやるもんじゃなかろう。ここじゃよ。魂じゃよ。」

 八月三十一日、シフと共に日本の外債を引き受けたアメリカの鉄道王ハリマンが来日した。日本が血を流して手に入れた南満州鉄道の権益の一部を高橋是清がハリマンに売り渡すのではないかという疑心暗鬼な噂が流れた。ヘンリーは再び話を聞きに黒龍会の事務所を訪ねた。

「またお前か。まあいい。こっちも聞きたい事があったんだ。ハリマンという男はどういう奴なんだ?是清が頼ったシフとかいうユダヤ人と近しい人物だそうじゃないか。アメリカの鉄道王?そうらしいな。世界一周鉄道の建設が野望だというのは本当か?満州にも色気を見せているような輩を頼るというのは怪しからんじゃないか。オヤジもそりゃあ怒っておったな。高橋是清という男が何を考えているのかさっぱりわからん。何?ビジネスとしてあり得るだと?日本単独では経営が難しい?そんな事はあるまい。日本が血を流して獲得した満州の鉄道をなぜアメリカの資本家にくれてやらなくてはならないのだ?高橋是清という男は国賊ではないか。なんじゃと?興奮するなと言われたって、これが怒らずにおられるか。いや、是清の事を教えてほしい。奴が何を考えているのか、今度会ったら探りを入れて、それをこちらに教えてほしい。そのくらいは、今日の会見の駄賃だろう。頼むぞ。」
 黒龍会はすでにいきり立っていた。そして九月五日、大きな事件が起きた。
 ヘンリーは特派員として他の外国人記者と共に、取材のため日比谷に出て行った。日比谷で開かれるはずだった反ポーツマス条約の集会が警察によって禁止されたが、それでも群衆が膨れ上がった。
「講和条約反対!」
「露探(ロシアのスパイ)新聞を叩き潰せ!」
 内田良平達は、黒龍会を率いて、煽るだけ煽っていた。
 日比谷公園を閉鎖して集会の開催を防ごうとしていた警察と群衆と睨み合いが続いていたが、群衆らは口々に「日露屈辱講和条約反対!」を唱え、前に進もうとした。ヘンリー達や日本人の記者達も中々近くに寄れなかった。
 睨み合いは押し合いに変化し、押し足り引いたりしている中で群衆の興奮が頂点近くまで高まってしまった。
「危ないな...」
 ヘンリーの呟きに他の外国人記者は、やや興奮気味に「ああ、しかし良い記事が書けそうだな。」とだけ言ってウィンクした。ヘンリーはやや呆れた顔をして返したが、ともかく彼らと群衆を追う事にした。
 予想通り、群衆の興奮は暴動に発展した。群衆が投石を始めたため、警官も迂闊に近づけなくなった。警察側はコントロールを失った。投石した群衆の中に公園内の大臣官舎に火を放った者がいた。群衆は皇居方面に向かって歩きながら気勢を上げる者も多かったが、新橋、銀座方面にも散っていった。そして群衆は散りながらも別の場所で集会を行おうとしていた者達を巻き込み、さながら東京が大きな渦に巻き込まれていったかのようだった。
 それらの中の一群を追っていくと、銀座と新橋の間にある日吉町の国民新聞社の前に出た。その一群は、口々に「御用新聞を倒せ。」と叫んでいて、今にも投石が始まりそうであった。
 その中に、背は低いが、口髭を蓄えた、眼光の鋭い、野卑た感じのする男がいた。存在感抜群のその男は特に何も語っていなかったが、明らかにそのグループのリーダー格だった。
「あれが内田良平だ。」他の新聞社の記者がヘンリーに耳打ちしてくれた。
 ヘンリーが何度かインタビューをしようと試みたが会えなかった右翼団体のリーダーだが、ヘンリーは意外な気がした。もっと、殺気立った男を想像していたのだ。背の低い男を見くびるのは、ヘンリーが欧州の人間だったからかも知れないが、ヘンリーは自分ではそんな先入観に気付いていなかった。
 そんな状況の中、内田が何やら下卑た風体の、手下と思われる男に耳打ちすると、男が後ろに下がり火の付いた棒のような物を持って戻って来た。
「あぶない、下がれ。」
 記者仲間が叫んだ。内田達の仲間によって国民新聞社の社屋にも火が放たれた。新聞社の人間も内田を確認していたが何も手出しはできなかった。あっという間に国民新聞社は火に包まれた。国民新聞社の記者や事務員達が叫びながら社屋から逃げ出すのが見えた。それはあっと言う間だった。放たれた火が社屋全体を包んだ。曲がりなりにもこの国の言論を支えてきた新聞社がこのような形で攻撃される理不尽は外国人であるヘンリーにも、いや外国人だからこそ余計に残念に感じられるのであった。
「国賊を倒せ!」
 黒龍会に引き回された一群はさらに、政府高官邸、警察署、交番、講和を支持したキリスト教会などに火を放って回っていた。
 暴動が東京の街全体に広がるのを見て、これはまずいことになったと感じた。花街は、烏森は、そして吾妻屋はどうなるのか...
「俺は烏森を見てくる。」仲間の記者にそう告げると、ヘンリーは銀座に近い新橋から、かつて新橋南地と呼ばれた方角を目指した。
 既に新橋北地のあたりの待合などにも投石がなされていた。それを横目で見ながら、烏森界隈に出た。幸い火に包まれてはいなかったが、新橋の北地と同様に騒然としていた。
 ヘンリーが見たところ、烏森界隈の暴徒の中には黒龍会絡みと思われる者達はいないようにであった。曲がりなりにも、ポーツマスの条約に反対するという政治的な目的で集まった、日比谷の当初の人達と違い、ここでは単に富の象徴である花街を攻撃することを楽しんでいるかのような者達が多かった。しかし、暴徒には違いが無い。連中は次々と待合や料亭に投石を始め、荒らしまわった。
 吾妻屋では、晴雄が暴徒に対峙するための準備をしていた。子供達は吾妻屋の通りから離れた側の部屋に入れて、いつでも逃げられるようにしていたが、マサは恐怖に怯えていた。烏森でも群衆の騒ぐ声が聞こえ始めた。烏森界隈にはまだビルは建っていなかったし、吾妻屋も日本建築であり、夜であればかなり遠くの騒ぎも聞こえるのだった。そしてその騒動の音が段々大きくなってきて、晴雄もマサも身を固くしていた。
 いよいよ音が大きくなって体の震えが止まらなくなりそうになった時、中庭の窓を叩く音が聞こえた。暴徒が来たのかと身構えて、そちらの方を見ると見覚えのある顔がそこにあった。
「お吟姐さん、駄目よ、ここに居たら。松明を持った男たちがやってくるわ。」
 お妻だった。唖然としている晴雄を横目に、お妻はマサの手を引き、子供達を手招きした。
「お妻さん、いつ...」とマサは言いかけて、今はそれどころではないと思い直した。
「金刀比羅宮(ことひらぐう)まで逃げましょう。裏通りならまだ群衆は来ていないし、琴平町のあたりは、花街も無いので、襲われることは無いわ。」
 暴徒達の心理などわかるはずも無いが、花街は富の象徴であり、現在の政治を司る大臣などが出入りするので、政府の側にいると思われているようであった。そう考えると吾妻屋は酷く危ないと感じて後ろを振り返ったが、晴雄は来ていなかった。
「晴雄さん...」
「マサさん、気持ちはわかるけど、晴雄さんは暴徒とも戦う心算よ。」
「お妻さん...」マサはその言葉で、お妻が最近、晴雄と会ったのだとわかって、その事も聞きたい気持ちに駆られたが、聞くことは躊躇した。逆にお妻がマサの様子を悟った。
「いえ、ちょっと頼まれごとがあって、旦那さんに相談したのよ。」

吾妻屋にも暴徒が押し寄せて、晴雄が表に出て暴徒を叱りつけたが、暴徒の一人はせせら笑い、手にした松明(たいまつ)の火を吾妻屋めがけて放り投げようとした。晴雄はその男に体当たりしてこれを防いだ。
「何をする?」
 晴雄が松明の男を詰ると、男の態度は薄ら笑いから、大きな笑い声に変わった。
「ここに火を放つことは許さん。」
「お前が田島晴雄だな?この宿は政府高官や財閥が常宿にしている、いわば政府の御用宿だな。さんざん俺たちの邪魔をしやがって...」
「何を言ってる?誰だってお客を区別したりはしていない。」
「うるさい。不良外人どもも巣食っているそうじゃないか。売国的な宿だ。お前も売国奴の一味だ。」
 松明の男の後ろから暴徒達が詰め寄ってきたが、晴雄も引き下がらなかった。そこにヘンリーが駆け付けた。
「ほらみろ、外人様のお出ましか。売国奴吾妻屋のお雇い外国人か?」
「いや、僕らは記者だ。取材に来ただけだ。」ヘンリーの仲間の記者が日本人記者持っていないような最新のフラッシュバルブを取り出した。「これだと夜間でもきちんと顔まで映るんですよ。僕らは日本の様子を取材に来ただけですので、僕らに構わんでください。」
 暴徒達が半身になって、お互いの耳元で何やら話しているのが聞こえた。
「まずいですよ、顔を写真に撮られるのは...」
 親分格の男がやおら向き直って、晴雄に捨て台詞を吐いた。
「今日のところは勘弁してやる。だが、国を売るような真似をしたら、今度はただじゃ置かねえぞ。」男は、そう言うと後ろの連中に声を掛け、その場にいた連中はみんな吾妻屋を後にして足早にして去っていった。

 街が静かになるまでマサは金刀比羅宮で怯えていた。境内から街が見下ろせたが、とりあえず、吾妻屋のある烏森方面で火の手は上がっていないようだった。
 お妻がお宮の階段を降りて街の様子を探ったが、特に騒動も聞こえてこなかった。
「もう大丈夫じゃないかしら...」
 上に戻ってきてマサに報告した。子供達がいるので、マサはまだ用心した方が良いように感じていたが、お妻もそれを悟った。
「そうだわ、ちょっと待ってて。」
 そういうとお妻は再び階段を降りて行った。しばらくすると、若干息を切らしながらも笑顔で階段を昇って来た。
「そこの信濃屋さんで、何か情報が無いか聞いたの。そうしたら、ちょうど用事で新橋まで出ていた番頭さんが戻ってきていて、烏森も落ち着いたって。だいぶ警察が出てきたので、とりあえず、この界隈は大丈夫だって。」
 マサたちはその情報を元に、吾妻屋に戻ることにした。戻ったら、晴雄もヘンリーも宿の中にいた。マサは、泣きながら晴雄にすがった。
「お願い、もうこんな危ないことは止めて。あの人たちに殺されるわ。」
「殺気だった連中の扱いなら慣れてるさ。」
 晴雄が言っているのは、秋田の鉱山で初中後(しょっちゅう)あったいざこざや、秘露での銃撃騒ぎの事だったが、マサには何の慰めにもならなかった。
「あなたには代わりはいないのですから!」
 そう言うとマサは少女のように泣きじゃくった。その時まで、まだ怒りに任せて、散っていった暴徒を追いかけてとっちめたい衝動に駆られていた晴雄もやっと気づいて、少しだけ冷静になった。そして、そっとマサに耳打ちした。
「暴徒の中に知った顔の奴がいた...」
 マサは、胸騒ぎがした。

 十月十六日、日比谷焼打事件の余韻が残って、街がざわついている中、小村は帰国した。小村が日本に帰ってきた時、桂内閣総理大臣と山本権兵衛海軍大臣が小村を新橋まで迎えに行った。
「小村さん、暴徒に撃たれかねない。身を低くしてくれ」
 桂は最初意味がわからなかったが、ポーツマスの事で騒いでいる連中に気付くと、小村は言い放った。
「ふん、あんな連中、女房に比べたら、へでもないわい。」
 実際、後日、小村は芸妓との関係が女房にバレて、追いかけられるようにして吾妻屋に逃げ込んできた。
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