第10話
文字数 2,185文字
鈴木は考えていた………。
あの舞は難しい舞だ……。
現在においていろいろな所で、雅楽は演奏される。
かつて雅楽は宮中で栄え、宮中で形が美しく整えられ、その美しさと荘厳さに人々は心を囚われ、悠久の時を巡って重要無形文化財となっている。
かつては巫女が舞い、神を降ろして神託を得、その巫女が王となった。それから時を経て、神の末裔は神に歌舞を奉じ、それを共有して神と対話し、神を祀り神に護られた。つまり現在 でも、雅楽の神髄は宮中に存り、巷に広まった雅楽は、同じ趣旨を元として違う形で広まって行った。
鈴木は、そう思えて仕方がない。
………特に大陸から渡来したものは、そう思えて仕方がないのだ。
鈴木がテレビの映像で見て、虜となった舞は唐楽の左舞と言われている。
舞には朝鮮半島を由来とする右舞と、大陸を由来とする左舞とがある。最初に伝来したのは、百済、新羅、高句麗の三韓楽と呼ばれる、朝鮮半島の特色を持っていた楽舞だったが、その特色が徐々に薄れ、平安時代に大陸の楽曲と舞が伝来してからは、大陸の唐楽に対して、朝鮮半島の高麗楽とされる様になった。そして平安時代中期には、渤海国の楽舞も高麗楽に含まれる様になった。大陸の唐の長安には、いろいろな国の人々が集まっていたから、唐楽には中国、インド、ベトナムの歌舞が含まれて伝来した。それを古の日本伝承の歌舞と融合して、日本の歌舞として形を整えられていった。
そんな唐楽の一つであるこの舞は、舞を伴った雅楽が演奏される事が多くなった最近でも、難しいとされ余り舞われる事はない傑作だ。神話から来ているものとも、釈迦が誕生した時に、この曲を作って舞ったとも言われているが、真実の処は解らない。ただその動きはゆったりと厳かで、それでいて猛々しく勇猛だ。
現代のダンスの様な、スピード感と激しさはないものの、その動きは律をなしていて、ステップも独特で優美だ。
観客の度肝を抜く様なパフォーマンスはないが、その整然として繰り返される動きは、その舞人によって人を惹きつける。
かつて宮中で天子に寵愛され、もしくは神に愛された、天才達が存在したのは納得がいく………。つまりこの理路整然とした、淀みのない動きは、その天才が神を得て舞ってこその〝舞〟なのだ。
つまり八百万の神を持つこの国は、数多なる神に愛されてこその〝もの全て〟と言っていい。
悠久の時を巡って、受け継がれている雅楽………その起源は古のアジアを巡って辿り着き、天に座す大神の子孫の天子により、祖神を尊び神々を楽しませる為に、我が国の古代からのものとを掛け合わせて、優雅に美しく形作ったものとなり、宮中の年中行事に不可欠なものとされ、古代中国の思想に基づいて、雅楽寮では季節の変わり目の行事の節会、年始の大饗、相撲、競馬などの年中行事に、仏会、天子の行幸、祭事などにおいて奏される様になっていき、奏される機会が増え時を経て雅楽は日本のものとなっていった。
また左右の近衛府の官人が雅楽を奏するようになった為、内裏の桂芳坊に楽所が置かれ、雅楽の管理伝習の中心機関となった。平安時代以降、内裏のみならず、神事や法会の際に演奏する必要のあった寺院にも、楽所が置かれる様になり、この楽所に所属していた楽人達が、父から子に芸を伝え楽家と呼ばれる雅楽の家が誕生した。
その楽家ごとに笙、龍笛、篳篥などの伝承が決められ、左舞と右舞のどちらを舞うかも決められた。
その後公家から武士の時代になっても、平清盛は厳島神社に舞楽を、源頼朝は鶴岡八幡宮に楽所を設け、雅楽を保護した為雅楽は東国へも広がって行く事となった。
だが応仁の乱によって都が戦場となり、朝廷の儀式は失くなり楽人は四散を余儀なくされ、楽譜や資料や舞の装束の大半が焼失し、多くの演奏技法や曲目が失われ、宮廷としての雅楽は断絶してしまう。
応仁の乱終結後、残った楽所や、楽人により微かに伝承されてはいたものの、それは細々としたものだった。正親町天皇は、天王寺の楽人五人を都に召し、後陽成天皇が南部の楽人三人を召し、地方へと四散した楽人や、寺社の楽人が集められ、宮廷の儀式としての雅楽の復興が進められた。
宮廷儀式としての雅楽が、一旦は廃絶という状況から、現代の今日まで大事に保存されたのには、天の大神を祖先とする天子の思いと、我が国における歴史上の偉人達の保護によるところは大きく、三方楽所といわれる、奈良の南都楽所、大阪の山王寺楽所、京都楽所から下向した楽人が、江戸時代には江戸に常駐して、家康に仕えたり日光東照宮の祭礼に奏したりし、大名を始め武家の間に広がって行き、町人、農民まで渡った。
明治維新により、皇居が東京へと還られた為、三方楽所に代わり大政官の中に雅楽局が設置され、これが現代の式部職学部となった。
雅楽局によって伝承される事により、楽家の者のみならず、一般人にも雅楽の伝承が認められる様になり、式部職学部楽生で学び、楽師となる事ができる様になった。
そして今では雅楽は民間に波及し、一般人でも気軽に見る事ができるものとなり、気軽に習う事が許される様になった。
………だが、それでも………
鈴木は暫く考えていたが、向井から借りてきた録画の画像を幾度となく見て、何か閃いた感じで答えを導いた。
あの舞は難しい舞だ……。
現在においていろいろな所で、雅楽は演奏される。
かつて雅楽は宮中で栄え、宮中で形が美しく整えられ、その美しさと荘厳さに人々は心を囚われ、悠久の時を巡って重要無形文化財となっている。
かつては巫女が舞い、神を降ろして神託を得、その巫女が王となった。それから時を経て、神の末裔は神に歌舞を奉じ、それを共有して神と対話し、神を祀り神に護られた。つまり
鈴木は、そう思えて仕方がない。
………特に大陸から渡来したものは、そう思えて仕方がないのだ。
鈴木がテレビの映像で見て、虜となった舞は唐楽の左舞と言われている。
舞には朝鮮半島を由来とする右舞と、大陸を由来とする左舞とがある。最初に伝来したのは、百済、新羅、高句麗の三韓楽と呼ばれる、朝鮮半島の特色を持っていた楽舞だったが、その特色が徐々に薄れ、平安時代に大陸の楽曲と舞が伝来してからは、大陸の唐楽に対して、朝鮮半島の高麗楽とされる様になった。そして平安時代中期には、渤海国の楽舞も高麗楽に含まれる様になった。大陸の唐の長安には、いろいろな国の人々が集まっていたから、唐楽には中国、インド、ベトナムの歌舞が含まれて伝来した。それを古の日本伝承の歌舞と融合して、日本の歌舞として形を整えられていった。
そんな唐楽の一つであるこの舞は、舞を伴った雅楽が演奏される事が多くなった最近でも、難しいとされ余り舞われる事はない傑作だ。神話から来ているものとも、釈迦が誕生した時に、この曲を作って舞ったとも言われているが、真実の処は解らない。ただその動きはゆったりと厳かで、それでいて猛々しく勇猛だ。
現代のダンスの様な、スピード感と激しさはないものの、その動きは律をなしていて、ステップも独特で優美だ。
観客の度肝を抜く様なパフォーマンスはないが、その整然として繰り返される動きは、その舞人によって人を惹きつける。
かつて宮中で天子に寵愛され、もしくは神に愛された、天才達が存在したのは納得がいく………。つまりこの理路整然とした、淀みのない動きは、その天才が神を得て舞ってこその〝舞〟なのだ。
つまり八百万の神を持つこの国は、数多なる神に愛されてこその〝もの全て〟と言っていい。
悠久の時を巡って、受け継がれている雅楽………その起源は古のアジアを巡って辿り着き、天に座す大神の子孫の天子により、祖神を尊び神々を楽しませる為に、我が国の古代からのものとを掛け合わせて、優雅に美しく形作ったものとなり、宮中の年中行事に不可欠なものとされ、古代中国の思想に基づいて、雅楽寮では季節の変わり目の行事の節会、年始の大饗、相撲、競馬などの年中行事に、仏会、天子の行幸、祭事などにおいて奏される様になっていき、奏される機会が増え時を経て雅楽は日本のものとなっていった。
また左右の近衛府の官人が雅楽を奏するようになった為、内裏の桂芳坊に楽所が置かれ、雅楽の管理伝習の中心機関となった。平安時代以降、内裏のみならず、神事や法会の際に演奏する必要のあった寺院にも、楽所が置かれる様になり、この楽所に所属していた楽人達が、父から子に芸を伝え楽家と呼ばれる雅楽の家が誕生した。
その楽家ごとに笙、龍笛、篳篥などの伝承が決められ、左舞と右舞のどちらを舞うかも決められた。
その後公家から武士の時代になっても、平清盛は厳島神社に舞楽を、源頼朝は鶴岡八幡宮に楽所を設け、雅楽を保護した為雅楽は東国へも広がって行く事となった。
だが応仁の乱によって都が戦場となり、朝廷の儀式は失くなり楽人は四散を余儀なくされ、楽譜や資料や舞の装束の大半が焼失し、多くの演奏技法や曲目が失われ、宮廷としての雅楽は断絶してしまう。
応仁の乱終結後、残った楽所や、楽人により微かに伝承されてはいたものの、それは細々としたものだった。正親町天皇は、天王寺の楽人五人を都に召し、後陽成天皇が南部の楽人三人を召し、地方へと四散した楽人や、寺社の楽人が集められ、宮廷の儀式としての雅楽の復興が進められた。
宮廷儀式としての雅楽が、一旦は廃絶という状況から、現代の今日まで大事に保存されたのには、天の大神を祖先とする天子の思いと、我が国における歴史上の偉人達の保護によるところは大きく、三方楽所といわれる、奈良の南都楽所、大阪の山王寺楽所、京都楽所から下向した楽人が、江戸時代には江戸に常駐して、家康に仕えたり日光東照宮の祭礼に奏したりし、大名を始め武家の間に広がって行き、町人、農民まで渡った。
明治維新により、皇居が東京へと還られた為、三方楽所に代わり大政官の中に雅楽局が設置され、これが現代の式部職学部となった。
雅楽局によって伝承される事により、楽家の者のみならず、一般人にも雅楽の伝承が認められる様になり、式部職学部楽生で学び、楽師となる事ができる様になった。
そして今では雅楽は民間に波及し、一般人でも気軽に見る事ができるものとなり、気軽に習う事が許される様になった。
………だが、それでも………
鈴木は暫く考えていたが、向井から借りてきた録画の画像を幾度となく見て、何か閃いた感じで答えを導いた。