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文字数 1,260文字

 途端に、水にぬれた紙が溶けていくように、磔刑に処された救世主の姿が崩れていく。
う……っ

 中から現れたのは、呆然と立ち尽くすみすぼらしい格好の人物だった。眼球がない眼窩からはおびただしい量の血が流れている。香油のほのかな香りは、濃厚な鉄錆の臭いにかき消された。



 頭が痛むほどの臭気にツァックは袖で鼻を覆う。気に入りの革靴が、じわじわと迫ってくる赤黒くて粘着質な液体に汚された。

くそ……!

 めまいがする。銃口がぶれる。



 精神を汚染されるような感覚に苦しむツァックを尻目に、杯を投げ捨てた少年は血の涙を流す像を憐れむように見上げた。

初めまして。ぼくはメイガス様の使徒のひとり。名前なんて教えなくていいよね
少年でも、ねぇのかよ

 生贄になるなら赤子でも老人でも構わないハーメルンとは異なり、メイガスは一定の年齢制限を設けていると、ツァックは魔術に詳しい常連客から教わったことがある。使徒に幼年の子どもはいないそうだ。



 また、劇団の者は揃って見目麗しいらしい。

あはは。本当は十八歳だよ。これはきみたちを油断させるための、仮の姿。地下室で裏切り者の像を見るまで、忘れてたけどね
ぼくはここに人をさらうたびに、自分の記憶を消して、あの部屋に倒れていたんだ
使徒らしい演出だな

 泣き笑いとも侮蔑とも、憎悪ともとれる目で、少年の姿をした魔術師はツァックを睨んだ。

そうだね。メイガス様もそうして、きみたちみたいな人間とお戯れになるらしいね
ぼくの前には、現れてくれないのに
楽団員の振りをして、マレフィカの像まで傷つけたら、会いにきてくれるんじゃないかと思ったのに
まさか、メイガスに会うためだけに誘拐を繰り返したのか?
だけ?

 乾いた声で魔術師は笑った。双眸には深い悲しみの色が浮かんでいる。親に捨てられた子どものようだと、ツァックは銃を握り締めながら思った。

メイガス様と出会えたから、ぼくは魔術師になった
綺麗な場所だった。桃の花が咲いていて、白い鳥が飛んでいて。メイガス様が創った、楽園のような世界だった
すべての謎を解いて脱出を許されたぼくは、そのまま使徒になったんだ。メイガス様の近くにいたくて
なのに、メイガス様はそれきり、一度も姿を見せてはくださらなかった!
……っ!
 怒号に呼応するように、像から流れる血が勢いを増した。ツァックは反射的に発砲したが、銃弾は絶望している白い像の表面をわずかに削っただけだ。
裏切りたくなんかなかった。でも、こうすればメイガス様が手を下しにいらっしゃるんじゃないかと思った
実際は、そうはならなかった
メイガス様はいつまで経ってもやってこない。ゲームをしかけると決めたのは、三人目からだった。裏切り者の告発ゲーム
そして、裏切り者を処刑するゲーム
これならメイガス様も興味を持ってくださるんじゃないかと思ったけど、やっぱりだめだった
でもぼくは諦めない。もう後には戻れないんだから、進むしかないんだ。きみも閉じこめて、次の生贄を探す
……そういうことか
なにをしているの?

 銃を下ろしたツァックに、魔術師は眉を寄せた。

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登場人物紹介

【九曜 蓮人(くよう れんと)】

失踪した姉を探している大学生。

Barエンドロールにて怪奇事件の話を聞き、魔術の存在について知ることになる。


【ツァック】

自称・マフィアの男。

過去にも数度、魔術がらみの怪奇事件にかかわってしまっている。

行方不明の妹分、ヒノを探している。

【マスター】

Barエンドロールのマスター。穏やかな初老の紳士。

魔術がかかわる怪奇事件に巻きこまれ、生還した者から話を聞くことを趣味としている。

ドリンク一杯サービス中。

【少年】

ツァックが目覚めた礼拝堂で出会った少年。自分の名前を含めたすべての記憶がない。

巷で噂の連続失踪事件の鍵を握っている……?

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