文字数 1,394文字

「コモドー号!」若者は歩き出しながら「予約してたんです。外座席(アウトサイド)を1席。お酒の勘定はこれで払っておいてください、お釣りは五等分ーーって、これ、バーミンガム製の偽銀ボタンじゃないか。まずいな、これじゃあ代金が払えない。やれやれ」
 そう言って、わざとらしく首を振ったのだった。

 折しもピクウィック卿と3人の仲間もロチェスターを最初の宿泊地として予定していた。若者には同じ目的地に向かっていることを既に話していたこともあり、全員一緒に座れる前席を取ることにした。
「お供させていただきます」
 若者はピクウィック卿が馬車の上段に上がるのを助けた。その動作があまりに敏速だったので、ピクウィック卿は優雅な物腰を披露する機会をすっかり奪われてしまった。
「お荷物はございますか」
 御者が尋ねた。
「あ、僕ですか? この茶色の紙包みだけです。残りは船便で送ったんで。釘打ちの荷箱。家みたいにでっかくて、重たい重たい、ハチャメチャ重たい荷箱をね」
 答えながら若者は件の紙包みをありったけの力でポケットにねじこんでいたが、そこにはどう見てもシャツとハンカチが1枚ずつしか入っていないようだった。

 馬車が操車場の出口の低いアーチを抜ける時のことだった。
「頭、頭、頭に気を付けて!」
 若者が大声で捲し立てた。
「とんでもない場所なのです。おっかない事があった。ある時、5人の子供と母親が通った。背の高い女性でした。サンドイッチを食べていてアーチに気付かなかった。ドンッ。バキッ。子供たちは何事かと周りを見る。母ちゃんの首が無い。手にはサンドイッチを持ってるのに、それを放り込む口が無い。一家の大黒柱が失われた。なんてこった!なんてこった! ホワイトホール宮殿をご覧になっているのですか、ピクウィック先生? 素敵な建物ですね。あの小窓。あの場所で首を失った御仁も不用心だったのでしょうか(※訳者註:1649年にチャールズ1世がこの宮殿で処刑されている)。ーーねえ? どうかなされたのですか、先生」
「考え事をね」ピクウィック卿は言った「人の運命はなんと数奇なものかと思いを巡らせていたのです」
「ああ、なるほど。『人生は宮殿訪問に似ている。扉から入り窓から放り出されることもあるからだ』という訳だ。さては先生、哲学者ですか?」
「さしずめ人間観察者ですかな」
 ピクウィック卿は答えた。
「そんなら僕も似たようなものです。それから仕事も稼ぎも無い人間は大抵、詩作に走ったりする」
「スノッドグラス君がそのクチだねえ」
 ピクウィック卿が言うと、
「かくいう僕もそのクチで」若者が言った「叙事詩を。一万行も。即興で。
『七月革命』
昼は軍神(マルス)、夜は芸術神(アポロ)
放て野戦砲。鳴らせ竪琴をーー」
「堂々たる筆致、まるで本当にその場を見ていたかのようだね」
 スノッドグラス卿が言った。
「まさしく、見ていたんですよ!(※)
マスケット銃に着火する。アイディアが閃く。酒場に走る。書き留める。戦場。シュッ。バーン。また閃く。酒場に走る。ペンとインク。戦場。斬って斬って。すさまじい場面だった。お兄さんはスポーツ愛好家で?」
 ここで若者はいきなりウィンクル卿の方を向いて尋ねたのだった。

(※)おしゃべりな若者ことジングルの想像力がいかに時代の先を捉えていたかを示す顕著な出来事だった。彼らがいるこの場は1827年、そして七月革命が起こったのは1830年だったからだ。
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