文字数 1,743文字

 翌朝7時の鐘がまだ鳴り止まないうちに、ピクウィック卿は眠りの底から呼び覚まされた。扉を叩く大きな音が聞こえたからだ。
「どなたですか」
 ベッドから身を起こしながら訊く。
「使用人です」
「はて、どういったご用件ですかな」
「お客様のお連れの方で、青色の夜会服をお召しの方はどなたでしょうか。『P.C.』と刻印された金ボタンが付いている服です」
 あのボタンは磨いてもらおうと思って渡したことがあったが、さては彼、その事を忘れていたのだろうーーピクウィック卿は考えを巡らせた後、
「ウィンクル君です。右手の3つ隣の部屋ですよ」と声を掛けた。使用人は礼を言って立ち去った。

「どうしたのかね?」
 すやすやと眠っていたタップマン卿だったが、ドンドンと扉を叩く音に嫌な予感がして、大きな声で返事をした。
「ウィンクル様にお伝えしたい事がございます」
 部屋の外から使用人が呼び掛ける。
「ウィンクル君、ウィンクル君」
 タップマン卿は叫ぶようにして名を呼んだ。
「はい?」
 ベッドの中から蚊の鳴くような返事があった。
「ご用事だそうだ。外でお待ちだ」
 こうして精一杯に用件を伝えると、タップマン卿はベッドに戻って即座に二度寝を決め込んでしまった。
「用事だって?」
 ウィンクル卿はベッドから素早く跳ね起きて、取るものも取り敢えず服を着替えた。
「用事だなんて。町からこれだけ離れた場所で僕に用事とは、一体どこの誰だろう」
 部屋から出ると、真正面に使用人が立っていた。
「お客様は喫茶室でお待ちです。『手短に済ませるつもりだが、反論は許さない』とのことです」
「なんてこった! すぐに行くよ」
 ウィンクル卿はすぐさま肩掛けとガウンをまとい、階下へ向かった。

 喫茶室では老女と数人の給仕が掃除をしていて、制服の上着を脱いだ役人が窓の外を眺めていた。役人はウィンクル卿が入って来るなり堅苦しい会釈をした。それから給仕たちを退出させて用心深く扉を閉めた後、話し始めた。
「ウィンクル卿で相違無いかね」
「はい。ウィンクルですが」
「驚かずに聞いてくれ。私は今朝、友人である第97歩兵連隊のスラマー医師から言伝を預かって来た」
「スラマー医師ですって!」
「いかにも。昨晩の貴殿の振る舞いは紳士には我慢ならない愚の骨頂だった」ーーそれから付け加えたーー「一紳士として、そのような御仁には決して譲歩したくないと、その旨を伝えるよう頼まれたのだ」
 ウィンクル卿は見るからに慌てふためいていて、スラマー医師の友人の視線から逃れる術も無かった。
 紳士は話を続けた。
「スラマー君はこうも言っていた。昨夜、貴殿は酒に酔っていたせいで自分が何をしでかしたか記憶に無いのかもしれない。それならば愚行の説明も付く。スラマー君は、貴殿が今から私の言う通りの謝罪文を書けば赦すそうだ」
「謝罪文ですって」
 ウィンクル卿は、あらん限りの声を振り絞って驚きを伝えた。
「断ればどうなるか分かっているだろう」
 紳士は冷淡に答える。
「その伝言は僕の名前を指してのものですか」
 尋常でない事になった。ウィンクル卿は手の施しようが無いほど取り乱していた。
「確証は無いが。どうしても一筆書くのを断りたいと言うならば、ヘンテコな背広ーー『P.C』と刻まれた金ボタンが胸に付いた青色の夜会服を着ていた男を探し出せと、スラマー医師からは言われている」
 ウィンクル卿は狼狽した。紳士が事細かに説明した服は、まさに彼が持っている衣装そのものだったから。
 紳士は話を進める。
「つい先ほど酒場で聞いた情報から、彼奴は昨日の午後に3人の仲間と共にこの宿に辿り着いたと確信した。そのため中心人物らしき者の部屋に使用人を行かせたところ、貴殿の名前が出たという次第だ」
 ロチェスター城の主尖塔が勝手に歩き出して喫茶室の窓の外に腰を下ろしでもしない限り、この時のウィンクル卿の驚きを消し去ることはできなかっただろう。咄嗟に彼は、何者かが夜会服を盗んだのではないかと考えた。
「少しお時間を頂けますか」
「どうぞ」
 紳士は気の無い返事をした。
 ウィンクル卿は2階へ駆け上がり、震える手で鞄を開けた。果たしてそこには、いつも入れているとおりに夜会服が収まっていた。だがよく見てみると、服には昨晩着たような痕跡があった。
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