文字数 1,256文字

「上で何か始まったようです」ジングルが言った「耳をすませてーーバイオリンの調律だ。それに竪琴も」
 賑やかな音が階上から流れてくる。それはカドリール(訳者註:4組の男女カップルで構成される舞踏)の始まりを告げる音だった。
「どうやったら参加できるものだろう」
 タップマン卿がまた言った。
「私も考えてるところです。船便で送っていた荷物のことで困ってて。大荷物が届くはずなんですけど、差し当たり舞踏会に着ていく服がありません。この格好じゃおかしいでしょう。ねえ?」
 
 ピクウィッキアンの流儀の大きな特徴のひとつに、仁愛というものがある。原則を尊ぶ生真面目さにおいては誰を差し置いてトレイシー・タップマン卿が一番だった。
 ピクウィック・クラブの活動記録にはいくつものこんな事実が残っているーーその立派な紳士は「着れなくなった服だから」「ほんの少しばかりのお金だから」と言って他のピクウィック会員たちの家に無償の贈り物をするほどだったというのだから、ほとんど驚嘆の極みである。

「貸せるような衣装を持っていてよかった」タップマン卿は言った「だけど私の服は君には大きすぎるようだし、私には……」
「きつそうですね。デブの……もとい、大きくなった酒神(バッカス)、葉っぱの冠作ろうとして、風呂から落下す。慌てて服を引っ張り出すーーの図ですかな。二段蒸留ならぬ、二段オチって訳だ! ワッハッハ。そのワインを取ってください」
 こう指図した上にワインをがぶ飲みしたジングルの横柄さに幾ばくかの怒りを覚えていたのか、あるいはピクウィック・クラブの重役たる身でありながら、事もあろうに「落下したデブの酒神」などと喩えられてしまった自分自身の間抜けぶりに呆れ果てていたのかは、未だ定かでない。ワインを渡したあと二度咳払いし、タップマン卿はしばしの間ジングルをジロリと睨んでいたのだが、その鋭い視線も徐々に和らいだ様子で、心の中では再び舞踏会のことを考え始めていた。

「なあ、君。もしかしたら」タップマン卿が言った「私の服は大きすぎたが、ひょっとしたらウィンクル君の背広なら合うんじゃないのか」
 ジングルは目測でウィンクル卿の丈を測り、顔を輝かせた。
「ぴったりです」
 タップマン卿は辺りの様子を窺った。スノッドグラス卿とウィンクル卿を眠りの淵へと誘ったワインは、密かにピクウィック卿にまで影響をもたらしていた。
 今日は朝から夕食とその後の団欒にいたるまで、色々な事があった。喜びの絶頂から悲しみのどん底まで、そして悲しみのどん底から喜びの絶頂まで、一通りの波乱万丈を経験した。その様はまるで街路のガス灯のようである。一瞬信じられないほど輝いたかと思えば、次の瞬間には炎の勢いはことごとく小さくなり、ほとんど見えなくなる。それから少し経つと再び燃え上がって辺りを照らし、チラチラと不安定に明滅して最後には消えてしまう。
 ピクウィック卿は胸に顔をうずめるような格好で、時折噎せながら(いびき)をかいている。その寝息だけが、彼がここに存在していることを示す唯一の音だった。

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み