文字数 1,034文字

 1時間後、片手に鞄を携えたピクウィック卿は望遠鏡を厚地のオーバーのポケットに、価値ある発見を書き留めるためのノートをチョッキのポケットに据えて、セント・マーティンズ・ル・グランドの馬車乗り場にいた。
「辻馬車をお願いします」
 ピクウィック卿は呼び掛けた。
「へい、旦那」
 粗布製の上着に同じく粗布製の前掛けという、おかしな格好をした人物が、大声で応えた。首からぶら下げた真鍮の札には文字と番号が書かれていて、その風体はさながら珍品カタログの商品のようだった。
 彼は馬の給水係だった。
「へい、旦那。ほら、今日一本目の馬車だぜ。乗りな!」
 ピクウィック卿が酒場で今日一服目のパイプをふかしていたところに馬車は到着し、こうして鞄ともどもピクウィック卿を押し込んで出発したのだった。

「ゴールデン・クロスまで」
 ピクウィック卿は言った。
「たった1シリングにしかならねえぜ、トミーちゃんよお」
 御者は馬を走らせながら友人である給水係にむっつり顔でがなり立てた。
「この馬は何歳ですかな」
 ピクウィック卿は支払いのために用意していたシリング銀貨で鼻を拭いながら尋ねた。
「42歳ですけど」
 御者は彼を横目で見ながら答える。
「なんですと!」
 ピクウィック卿はノートに手を掛けながら声を上げた。御者は先ほどと同じ答えを繰り返す。ピクウィック卿は男の顔を穴が開くほど見つめたが、彼は眉一つ動かさなかったので、取り急ぎ今聞いた話をノートに書きとめておくことにした。
「それで、馬はいちどきに何日くらい外に出しておくのですか」
 ピクウィック卿はさらなる情報を引き出すべく尋ねた。
「2、3週間だね」
「そんなに!」
 ピクウィック卿は仰天し、再びノートに向かった。
「こいつの家はペントンヴィルにあるんでさ」御者は冷静な様子だ「だけどちょいと訳ありでね、ほとんど家には返さないんですよ」
「訳あり!」
 ピクウィック卿はあたふたしながら復唱した。
「馬車から外すとぶっ倒れやがるんだ」御者は続ける「馬車を引かせてる間はビシビシ鞭で打って、倒れようがないくらい手綱を短くする。それにこのとおり車輪がとんでもなくでっけえもんだから、コイツが歩き出せば車もグンと進む。だもんで、コイツは前に進み続けるほか無いんでさ」

 ピクウィック卿はこの証言を、窮地に追い込まれた馬が見せる忍耐強さの稀有な一例としてクラブで紹介すべく、ノートに一言一句漏らさず書きつけた。
 ゴールデン・クロスに到着する頃、それはどうにか書き上がった。
 
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