文字数 1,830文字

 ジングルの手際の鮮やかなことにタップマン卿はひどく驚いていたが、スラマー医師の驚愕ぶりはそれを遥かに超えるものだった。見知らぬ若者を前にして未亡人は嬉しそうにしている。こちらがずっと注目しているのを無視して。しかも、これほどまでに憤慨していることに、あの男はつゆほども気付こうとしない。
 スラマー医師は凍りついた。
 このスラマーともあろう者が、第97歩兵連隊の軍医ともあろう者が、一瞬にして黙殺された。誰も素性を知らなかった、現に今この場でも誰も素性を知らない男によって! 私は医師である。それも第97歩兵連隊の軍医である。こんなことは受け入れがたい! あってはならい! 起こるはずが無いのだ! しかし現実に起こっている。私はここにいて、奴とあの夫人は一緒にいるのだから。何だと、あの男、今度は友人まで紹介しているじゃないか。断じてけしからん。
 スラマー医師は再びジングルの方に目をやり、瞳に映る光景が現実であることを、苦々しい気持ちで呑み込んだ。
 
 バッジャー夫人はタップマン卿と踊っている。これは疑いようの無い事実だった。
 夫人はやけに生き生きとした動きでふくよかな体をあちらで弾ませ、こちらで弾ませている。一方タップマン卿は、あたかも苛烈な儀式に臨んでいるかのような表情で彼女の周りを跳ね回り、(大多数の参加者の例にもれず)まるで「カドリールは娯楽ではない。真剣勝負、すなわち出逢いを得るための絶対普遍の手段なのだ」と言わんばかりに踊っていた。
 
 スラマー医師はその事実を前に、あくまで冷静に堪え続けた。彼らがニーガス酒(訳者註:ワインにお湯、レモン汁、砂糖、ナツメグを加えた飲料)を交わしている時も堪えた。グラスを待っている時も。サッと焼き菓子を取りに行った時も。挙げ句の果てに、いちゃついている時までも。
 そして例の見知らぬ若者がバッジャー夫人を帰りの馬車まで送りに出るやいなや、スラマー医師もすかさず広間を飛び出した。ずっと腹の底に抑え込んでいた鬱憤の泡が弾け、顔全体から汗となって噴き出していた。

 ジングルは再び広間へ戻ろうとしていた。その横にはタップマン卿も一緒だ。ジングルが声をひそめて話し、笑っているのを見て、小太りの軍医は心から嫉妬した。あいつは今、幸せの真っ只中だ。勝者なのだから。
「そこの諸君」
 スラマー医師は恐ろしい声で呼び掛けた。来た道を後ろ向きに歩きながら名刺を取り出す。
「我輩はスラマー。チャタム駐屯地、第97歩兵連隊の軍医である。我が名刺を、我が名刺をーー」
 継ごうとした言葉は怒りのあまり喉でつかえた。
「あぁ、スラマーさんというのですね。ありがたく頂戴いたします」ジングルは涼やかに答えた「お言葉を返すようですが、スラマーさん。今は病気ではありませんで。ですが、もしもの時は」
「な、なんと……。茶化すのも大概にしたまえ」
 激昂したスラマー医師は息も絶え絶えに言った。
「卑怯者! 腰抜け! 詐欺師! ど……どうせ、渡す名刺も無いのだろう」
「なるほど。そう仰いますか」ジングルは横目でスラマー医師を見ながら言った「ここのニーガス酒は強すぎました。よほど気前の良い主催者と見た。とんだ大馬鹿者ですよ。ほんとに。レモネードでも飲んでいた方が良いです。暖かい部屋で。ねぇ、紳士殿。さもないと明日は二日酔いですぜ。恐ろしや、恐ろしや」
 そして、ひょいと飛び退いた。
「貴様はこの館に泊まっているのか」
 怒り心頭の医師は訊いた。
「貴様も酔いが回っているようであるから、決着は明日の朝に着けよう。必ず探し出してくれようぞ。必ずな」
「私を見つけたかったら館の中より、外を探すことですね」
 ジングルは身じろぎひとつせず答えた。
 腹立ちまぎれに帽子を被り直すスラマー医師は筆舌に尽くしがたい荒々しさを湛えていた。
 
 ジングルとタップマン卿は、眠りこけているウィンクル卿から拝借した夜会服を戻すため、寝室に引き返した。
 ウィンクル卿はすっかり寝入っていた。そのためジングルは簡単に衣装を取り替えることが出来て満悦至極の表情である。
 タップマン卿の頭の中ではワイン、ニーガス酒、広間の明かり、そして淑女たちがグルグルと回っていて、全てが夢のようだった。相棒が立ち去った後、タップマン卿は寝間着の帽子をうまく被れず誤って蝋燭台をひっくり返して頭に乗せるという一騒動もあったが、あれやこれやと試した末にようやくベッドに入り、それからすぐに眠りに就いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み