文字数 1,477文字

「まぁ、多少だね」
 ウィンクル卿は答えた。
「足がお速いんでしょう。足が。犬と狩りをしたりは?」
「今はやっていないな」
「なんだ、ぜひとも飼うべきですよ。気の良い動物。かしこい生き物。僕の飼っていたのはポインター犬でした。びっくりするような本能を備えていました。ある日のこと、狩りに出ました。猟場の囲いを通って入場。指笛を鳴らす。しかし犬は立ち止まってしまった。僕はもう一度指笛を鳴らしました。ポント、と呼んで。しかし動かない。いつまでも動かない。ポント、ポント。呼べども動かない。犬は怯えていたんです、ある看板に書かれた文章を見上げながら。そこにはこう書かれていた『猟場管理人はこの猟場内で犬を見つけた場合、全て射殺するように命じられています』。決して入ろうとしなかった。すごい犬でした。うんと利口な犬でしたよ」
「それはまた類いまれな実例ですね。雑記帳に書いておいてよろしいですか?」
 ピクウィック卿が訊いた。
「もちろん、もちろん。犬に関してのこういった話は何百とあります。
 ーー美しいご婦人がおられますか、紳士殿?(これはタップマン卿への呼び掛けだった。というのも彼は道端にいた若い婦人に、ピクウィッキアンとしてあるまじき視線を注ぎ続けていたのだった)」
「ああ、とっても!」

「英国娘といえば、スペイン娘ほど上等ではありませんがね。高貴な人種。黒髪。黒い瞳。うっとりするほど美しい容姿。素敵な存在。美しい」
「スペインに行ったことがあるのかい?」
 タップマン卿が訊いた。
「住んでおりました。何年か」
「すると何人もの婦人を口説いたことだろうね」
「口説くなんて!そりゃあもう何千人も。ドン・ボラーロ・フィズギグ大公爵が一人娘、ドナ・クリスティーナ。佳き人だった。僕にぞっこん惚れていた。嫉妬深き父親。見目麗しき英国男子。その間で、高潔なる魂の娘ドナ・クリスティーナは絶望の底に落ち、ついに青酸を呷った。僕は旅行鞄に入っていた胃洗浄器で処置を施した。ボラーロ大公爵は藁にもすがる思い。和解を受け入れ、手を取り合って滝のような涙を流したのでした。感動的な話でしょう。とっても」
「彼女はイングランドにいるのかね」
 タップマン卿はそのスペイン娘の様子にいたく魅了されていた。
「死にました。ーー死んじまったんです」
 古ぼけた薄っぺらいハンカチの隅っこを右の目に当てながら、ジングルは言った。
「胃洗浄の甲斐もむなしく衰弱、そして帰らぬ人に……」

「そうなると、お父上は?」
 詩人スノッドグラス卿が尋ねた。
「自責の念と哀しみのためか」ジングルは答えた「突然いなくなってしまったのです。街はその話でもちきり。あらゆる場所が捜索されるも成果は上がらず。そんな折、広場の噴水がピタリと止まってしまった。数週間経過。まだ水は止まったまま。掃除人がやって来て水を抜いた。そこで、送水管に頭が嵌まった父上が発見されたのです。右の靴には懺悔の言葉を書き綴った手紙。亡骸を引き上げると、噴水は今まで通りに流れ始めました」
「その小説のような事件、書き留めさせていただいてよろしいでしょうか」
 深く感銘を受けた様子でスノッドグラス卿が言った。
「もちろんですよ、詩人先生。波乱万丈の半生。奇妙な遍歴。非凡どころじゃない、誰も経験したことのない物語。お望みとあらばもう50個でも」

 これは余談。ビール片手に会話に興じていた彼らだったが、馬車の馬が交代し、ロチェスター橋に着く頃になってもジングルの話は尽きることがなく、ピクウィック卿とスノッドグラス卿の雑記帳は彼の話す冒険譚でいっぱいになってしまった。
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