文字数 828文字

「スパイが出たんだ!」
 群衆は再び叫んだ。
「違いますよお」
 ピクウィック卿は大声で訴える。冷静な人間ならば、その声によって我に返ったことだろう。
「そうでしょうとも、そうでしょうとも」
 若者が、群衆の顔を肘鉄砲で押しのけるという的確な方法でピクウィック卿に近付きながら言った。

 ピクウィック卿は事の真相を手短に説明した。
「ついて来てください」緑の上着の若者はピクウィック卿を力ずくで引きずるように連れ出し、歩いている間もずっと喋り続けるのだった。はいはい、924番は運賃を貰って引っ込んで。このお方を誰だと心得る。馬鹿も休み休み言って欲しいもんだな。こっちですよ、先生。ご友人たちはいずこに? 全部誤解だって分かってますからね、気にすること無いですよ。後ろ暗いところなんて何も無い人にだって、予想外の事故は起きるもんです。悲観しちゃあいけませんよ。ついてなかっただけですからね。奴をとっちめてやれ。つべこべ言っても無駄だからな、この野郎。
 
 異様によく回る口でブツ切りの会話を堂々巡りしながら、若者はピクウィック卿と同行者たちを旅客用の待合室へと案内し、自分も親しげな様子でその末席に加わった。
「おーい、給仕さんやー!」若者は驚くほど大袈裟にベルを鳴らして叫んだ「我々にブランデーのお湯割りを。グラスに並々と。とびきり熱くて濃くて、それでもって旨いのを、たっぷりね。目をお怪我なすったんですか、先生?  給仕さん! このお方の目に貼っつける生の牛肉を持ってきてちょうだい。打ち身には生のビーフステーキが一番ですよ、先生。よく冷えた街灯の柱もとても良いんですが、ありゃダメ。目を街灯の柱にくっ付けたまま、半時間も街の真ん中に立ってごらんなさい。そんなの酷くヘンテコで、ねえ、とってもイカしてるでしょう。ハハハ!」

 それからも若者は息つく暇なく話し続け、湯気の立っているブランデーのお湯割りを一気に半パイント飲むと、ケロリとした様子でくつろぎ、椅子に身を沈めた。
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