第5話

文字数 3,057文字

 店のソファに深く腰を沈め、ようやく巡ってきた春のぬくもりを頬に感じながらレナは読書に耽っていた。
 古書店の扉は大きく開け放たれていて、少し色褪せたカーテンがドアの脇で小さくはためいている。
 外がにわかに賑やかになると、レナは本を閉じてソファから腰を上げた。
 騒いでいるのはルイスとラファエルだ。ルイスがミッテから引っ越しを強行していて、ラファエルはその手伝いをしてくれているのだ。
「店先で騒がないでよ。お客が怖がって入ってこれないでしょ。とくにルイス。アンタは顔も声も怖いんだし、気をつけてくれないとあたしが困るんだからね」
「顔も声も怖いとか、いいとこ皆無だな」
 ラファエルがルイスを指差して笑っている。その手に握られているものをルイスが取り返そうとしていての大騒ぎのようだ。
 必死になっているルイスの姿は子供のようだし、取られまいとして器用に逃げているラファエルもまるきり子供だった。
「レナは黙ってろ。早くそれを返せ、ラファエル」
「いやだね、これは今日の報酬だから返せません」
「そんなこと誰が決めた」
「俺です」
「許すわけないだろ」
 すばしこいラファエルの動きについていけないルイスの顔はさらに険しく、恐ろしい形相になっていた。
 表へ出てきたレナは、脳天から湯気が出てきそうなルイスの頭をぽんぽんと軽く叩き、ラファエルの前に手を突き出した。
「見せて」
「見せてもいいけど返さないからな。今日の報酬はこれがいい。なんなら花束1年分つけてもいい」
「いいから見せて」
 ずいと手のひらを突き出し、寄越せと脅すようにひらつかせる。ラファエルは渋々といった顔で奪ったものを見せてきた。
「……ルイス。コピーぐらいならいいでしょ」
 ラファエルの手にあるものがなにかわかると、レナはふふっと口元を緩ませた。
「む。コピーぐらい? ……い、いやだ」
「コピーじゃなくてこれがいい」
「オリジナルじゃなくてコピーを渡す、これが双方の妥協点だと思うんだけど。それが飲めないって言うんなら、今、ここで、これを破り捨てるけどいいのね?」
 ラファエルの手から奪い、レナが突きつけるように2人に見せたのは幼いレナとルイスが収められたスナップ写真だった。
 カメラマンはベンジャミンなのだろうとわかるくらいに、2人の顔は楽しそうに笑っている。きゃっきゃとはしゃぐ声まで聞こえてきそうな温かな写真だ。
 そんな貴重なものを、自分が出した条件を飲まないのなら破り捨てるとレナは言いきった。
 ラファエルは声にならない悲鳴をあげて天を仰ぎ、ルイスは今にも失神しそうなくらいに顔面蒼白となっていた。
「返事が聞こえないんだけど」
 写真の中央をつまんで指を軽くひねる。少しでも力を入れれば古びた写真など他愛もなく破れてしまう。
「その条件飲もう」
 あっけなく陥落するドイツ人とスペイン人。
「いいから荷物を運んでしまってくれる? 今日中に終わらせてしまうんでしょ。こんな風にふざけていたらいつまでたっても終わらないからね」
 その言葉に2人は顔を見合わせて、毒づき合いながら借りてきたトラックへ戻っていった。
 レナは2階の自宅へ足を向けた。
 今日からルイスとの暮らしが始まる。行ったり来たりではなく、ずっといっしょに。
 リビングに溢れ返っていた花はすべて警察に押収された。もうどこにも花の香りは残っていない。
「レナ」
 切なさを含んだローランの声が聞こえた気がして、レナは胸を押さえた。ローランの不在は思っていた以上につらく寂しい。
 荷運びは2人に任せて、自分は荷解きを手伝おうと手近にあった段ボール箱のふたを開けた。
 几帳面に詰められた書籍類といくつかの額が出てきた。本は書棚へ、フォトフレームは窓辺に飾ろうと取り出していると、ぴたりとレナの手が止まった。
 ローランとルイス、そしてレナが写った写真が出てきたのだ。ローランとレナが大学生の頃のものだった。今みたいに休みが不規則ではなく、3人いっしょに旅行ができていた頃の懐かしい写真だ。
 簡単に処分できてしまうほど浅い関係ではないし、隠してしまうほど憎いわけでもない。ルイスの複雑な心情をレナは慮った。
 ローランはルイスにとって兄のような存在だったからだ。
「気持ちに整理がついていればいいんだけど」
 レナは写真の中のルイスをそっと撫でた。

 時々作業の手が止まるルイスに、ラファエルがさりげなく声をかけた。
「新生活が始まるっていうのに浮かない顔だな。どうしたんだよ」
「なにも」
 声をかけられて再び作業に取り掛かるルイスはそっけなく答えた。
「事件は解決したんだろ。それならもっとぱーっと明るい顔をしたらどうだ」
 今度はラファエルの手がとまる。ルイスに向き直り、
「しあわせな笑顔が、もっとたくさんの幸せを運んでくるんだからな」
 と、これが手本だとでもいうように、太陽に向かって咲くひまわりみたいな満面の笑顔を見せた。
「能天気でしあわせな男だな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「好きに解釈しろ」
「……大変だな、動機の解明っていうやつも」
 心の中を見透かされてしまい、ルイスはぎくりとした。
 ローランの供述ではベンノ・ブレヒトの殺害だけ否認しているという話だった。
 たしかに彼はレナとの接点が低く、ローランの自白との整合性もない。しかし、殺害後に遺体に花を添えるという共通点もあり、捜査班は関連性ありと判断し重点的に捜査していた。
 そもそもローランの自白にはまだ隠された部分があるのだろうか。なぜベンノを殺したのか。古書店の客でもなく、レナととくに親しかったわけでもないルイスの隣人というだけの男を、だ。
「なぜベンノを殺した」
 頭の靄が晴れずにいる原因をぼそりと口にしてしまう。
「最後に死んだヤツか。あいつはレナをバカにしたからな。死んでも仕方ないんじゃないか」
 段ボールを二つ重ねて抱えたラファエルが笑いながら言った。
 じっと自分をみつめてくるルイスに、ラファエルは相好を崩したまま、
「早く済ませないとまたレナに怒鳴られるぞ」
 と続けた。
 すかさず頭上からレナの急かす声が降って来た。
「いい加減にしなさいよ、アンタたち。日が暮れるって言ってるでしょうが!」
 その声に促されてルイスはゆっくりと顔をあげた。
「なによ」
 二階の窓から顔を出しているレナと視線が合った。
「……」
「いいから手を動かして、はやく」
 まるで追い返すみたいに手をひらつかせたレナは呆れたように部屋に戻った。
 なんだろう、この違和感は――。
 ルイスは、まるで自分の頭の中に古いネジがあり、錆びついたそれがひどく軋んだ音を上げて何度も空回りしているみたいに感じた。得体の知れないざわつきは錆びたネジのせいで動こうとはしない。
「アンタたちはもうほんとうに」
 見かねたレナが2階から降りてきて、トラックの荷卸しまで手伝うはめになった。
 予定していた時間を大幅に過ぎたが、夜にはなんとかすべての荷物を運び終えた。有り合わせで用意した簡単な夕食を3人で囲む。
「さっきから2人だけでイチャついて。俺もまぜろ」
 ラファエルがレナとルイスを両手で抱えるようにして抱きしめた。
「馴れ馴れしい男だな」
 自分の肩に回されたラファエルの手をはたきながら、ルイスは鼻白んだ。
 ラテンの陽気さと気安さはローランで慣れていたが、どうにもこの男は胡散臭くてかなわない。
 胸の奥で渦巻くこの感情を、はたして嫉妬の一言で片づけていいものかルイスは迷う。
 ルイスは2人に聞こえないように小さく舌打ちした。

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