第7話

文字数 4,018文字

 午後三時を回る頃に、レナは店を開けた。顔なじみの老婦人が心配そうに声をかけてくる。
「どこか具合でも悪いの?」
「あたしはこの通り元気よぉ、おばあちゃん。最近店を閉めることが多くて心配かけてるのよね。お詫びにコーヒーをごちそうするから、さあ中に入って」
「あら嬉しい」
 老婦人は両手を胸に当てて喜んだ。レナは腰を折り、仰々しい所作で婦人を店内へと招き入れた。
「俺も混ぜてもらおうかな」
 息を切らせてラファエルが飛び込んできた。跳ねた毛先に花びらや枯れ葉が絡まって、ぴょこんぴょこんと揺れている。
「あきらかに仕事中よね。寄り道なんかしていいの?」
 ラファエルの髪から花がらを払い落としてやりながらレナが笑う。
「配達途中に店の前を通ったらレナみつけて、温まりたいし、レナいるし、コーヒー飲みたいだろ」
「なにそれ。意味わかんない」
「お仕事がんばってる俺にご褒美くれてもいいんじゃないかな?! きっといいことあるからっ」
 肩を掴んで力説してくるラファエルに揺さぶられながら、レナはさらに笑った。
「好きなだけあったまって行きな」
 背中を思いきり平手打ちした。
「イテーッ」
 音の割にさほど痛くはないはずだが、ラファエルはおどけるように痛がってみせた。もちろん顔は笑ったままだ。
 淹れたてのコーヒーと、昨夜ルイスが焼いてくれたマウルヴォルフトルテの残りを切り分けて2人に振る舞う。どうやら婦人には目当ての本があったらしく、膝の上に一冊の古書を乗せていた。
「欲しい本があったんだ……ほんと、ごめんね」
「いいのよ。私が選ぶ本なんて若い方が好むとは思えないから、きっとまだ残ってるってわかっていたもの」
 カップを口元に運びながら、シワが刻まれた頬を綻ばせて笑う。
「それは商売としてどうなのって話にならない?」
「売れない本ばっかりだと商売あがったりだな、ははは」
 手元のカップへ冷ますように息を吹きかけながら、ラファエルが余計なくちばしを挟んでくる。婦人は微笑みながら、
「ここは私にとって、とてもありがたいお店なのよ」
 すかさずレナを擁護した。
「忙しいのは性に合わないの。大型店にはないゆったりした時間と空間をあたしは提供してるのよ」
 見栄えのいい言葉を並べて、レナは得意げに笑う。
 カウンターの横に置いてあった脚の長い丸椅子をソファの傍へやり、レナはそこへ腰を据えた。
 半端な時間に店を開けた日は決まって閑古鳥が鳴くのだ。
 今日はこのまま婦人と世間話をして過ごすのもいい。ラファエルは仕事中だと言っていたから、途中で抜けてしまうだろうから。
 そこでレナの思考が少し前の時間に遡る。
 自宅玄関前でのことだ。
 ローランと話しているときに感じた鮮やかな色は、花の色ではなかったか。
「ねえ、ラファエル。ここに来るのって今日はこれが初めて?」
 ようやく好みの温度にまで下がったコーヒーを味わっていたラファエルが「ん?」といった顔でカップの中から視線を寄越した。
「少し前に訪ねてこなかった? て言ってもあんたのトラックを見たわけでもないんだけど」
「何時くらい? 時間帯によっては配達でこの前を走ったりしたけど。まさか声かけたのに俺がシカトしたとか? 俺はなんということを」
「気にしないで、そういうんじゃないから。ちらっと花みたいな……鮮やかな色が見えた気がして。そういうのってラファエルくらいしか思い浮かばかないから、もしかしてうちの店にでも寄ったりしたのかなって」
「ちなみに見えた色ってどんな色?」
 見えた色――レナは視線を床に落として記憶の糸をたぐる。
 モノクロの背景の中に浮かぶ鮮やかな色が、細い糸の先にまとわりつくようにして意識を支配した。
「赤とか、オレンジとか……そういう鮮やかな色だった」
「ふ~ん」
 ラファエルは意味深な微笑を口元に張りつかせた。そしてレナの薬指に収まっている金色のリングに目を留めた。
「その指輪」
 自然と老婦人の視線もレナの右手へ注がれた。あらあらと少女のようにはしゃいだ声をあげる。
「婚約なさったのね。おめでとう。お相手は一緒に暮らしてる方なのかしら」
「……うん」
 照れながら小さく応えた。
「へえ、婚約するようなつきあいの相手がいたのか」
 コーヒーはまだカップの中程まで残っていたが、ラファエルはそっとテーブルへ戻した。手つかずのクーヘンをみつめながら薄く笑う。
 ふいに冷たい空気が三人の足元へ流れてきた。三人の顔が一斉に店のドアへと向けられる。すでに扉は閉まっていたが、厚いコートとマフラーで身を包んだ長身の男が立っていた。
 ルイスだった。
 積み上げられた本を倒さないように大きな身体を精一杯縮ませて、会計を済ませた老婦人へ通路を譲るレナの恋人に、
「お幸せにね」
 彼女はルイスの冷えた手を握って微笑んだ。
 いきなり祝いの言葉を投げかけられたルイスは、わけがわからずに目を白黒させている。店の奥にいるレナへ、なんのことだと疑問の視線をぶつけてくるがレナは素知らぬ顔で肩を竦めた。
「お幸せにとはどういう意味だ」
 マフラーを外しながらルイスが訊ねる。
 几帳面にたたんだマフラーを一人がけのソファの肘掛けへ乗せ、
「そもそも初対面なのだが」とさらに首を捻った。
「その指輪のせいだろ」
 険のある声が下方からあがり、ルイスはあからさまに表情を険しくさせた。
 男は来客用のソファの端に座っているが、両足を長く伸ばした様はルイスの目にはずいぶんと横柄で図々しく映った。
 土で汚れたデニム生地のエプロンは仕事中を思わせるし、笑顔を見せているくせにペリドットグリーンの目は少しも笑っていないところがさらに気に食わない。
 ルイスは不機嫌さを隠すことなく、むすりとした顔を新参のスペイン人に向けた。
「会ったことなかったっけ? あんたたち」
 コーヒーを淹れて戻ってきたレナがルイスへカップを手渡しながら言った。
「ない」
「ないなあ」
 二人が同時に答える。
「少なくとも紹介はしてもらっていない」
 堅物を絵に描いたようなルイスは、柔軟な思考のベンジャミンが父親とは思えないほど形式的なことに拘る性格だった。
 対してラファエルというと、伸ばした足を引き戻し宣誓のように右手をあげていた。
「俺はラファエル。ラファエル・カノ。あんたレノの義弟だろ? そんなの改めて言われなくてもわかるし堅苦しいあいさつとか俺、苦手なんだよ」
「知らない相手を紹介してもらうことのどこが堅苦しいあいさつになるのか理解できないな」
「知りたいと思っていない相手だったら、べつにいいんじゃないか。あんた、さっきから俺に敵意むき出しだから。そんな人とはお近づきにはなりたくないね。だけそレナがどうしてもって言うのなら話はべつ。レナは俺とこのムカムカ筋肉男が仲良くなった方がいいと思ってる?」
 いきなり話を振られたレナは、まくし立てるように喋っていたラファエルをきょとんとみつめた。少し間を置いて、
「ケンカするなら広いところでどうぞ」
 ニヤリと笑う。
「ケンカなんかするかよ! そんなことしたら俺の商売道具の腕がポッキリいくだろ。ムリムリ」
 両腕を胸の前で交差させたラファエルが激しく首を振った。
 腕の太さなど、自分の二倍はあるんじゃないかとしきりにルイスを見るが、レナも悪ノリして三倍だ四倍だと笑った。
 二人のやり取りを、呆れと不機嫌が綯い交ぜになった顔で眺めていたルイスが、少しだけ歩み寄りを見せた。
「腕が商売道具? 仕事はなにをやっているんだ。通常ならこの時間は労働時間だろ。自由が利く自営業か」
 矢継ぎ早の質問はまるで職務質問だ。
「なにこの人、怖い。警察かよ」
「合ってるよ。この人、警察の人」レナがくすくすと笑う。
「……マジで?」
「警察に話を聞かれて困るようなことでもあるのか?」
 威嚇するように声を低くさせるルイスを、次の瞬間ラファエルは豪快に笑い飛ばした。
「俺からも質問していい? そっちはなんて名前なんだよ。偉そうなこと言う割に自分はまだ名乗っていないからな」
 屈託のない顔で正論を突きつけられ、ルイスの顔が一気に渋いものになる。
「ルイスだ」
「あとひとつ質問していい? 俺に向けてるその敵意はなんなわけ。恋人に近づく間男への嫉妬心? それとも――レナに危害を加えるかもしれない正体不明のヤツへの警戒心か」
 両目を細めてニコニコと笑うスペイン人をみつめるルイスの顔が一気に険しくなる。
 被害者の共通点である、レナの古書店に関しては報道されていないのだ。ラファエルの発言はただの偶然なのか、意図したものなのか。
「そんな怖い顔するなよ。それじゃ図星ですって答えてるようなもんじゃないか。バレバレ過ぎだろ」
 ここはカマをかけてみるか――ルイスがそう考えたところでレナの横槍が入った。
「もうその辺でやめときなさいよ。ラファエルはからかい過ぎだし、ルイスはつっかかり過ぎ」
「なんで俺まで怒られてんの。売られたケンカを買っただけじゃないか」
「だからケンカなら広いところで」
「俺は怪我したくないの! レナは意地悪だな」
「そこがいいんでしょ?」
「バレてたわ。あははは」
 顔を突き合わせて笑い合う二人を眺めながら、ルイスは確認し損ねたことで苛立ちが増した。そんなルイスの様子を察したレナが、立ったままの義弟の手を引きソファへと座らせた。
 眉間にしわを寄せているルイスの疑問に答えるように、ラファエルの方へ首を傾がせると、
「事件の後、ヘコみ気味になってたあたしの相手をしてくれてたのよ」
「相手?!」
「やっぱりそこに食い付くんだな」
 げらげらと豪快に笑い出すラファエルとレナを前に、しまったとルイスは顔をしかめた。
「レナまで笑うことないだろ。仕方ないじゃないか。こっちは心配でたまらないんだから」
 こんな時、どうしても埋まらない心の余裕のようなものを感じて、ルイスは自分を落ち着かせようと薬指で光る銀の指輪を撫でていた。

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