第7話

文字数 2,055文字

 午前八時。
 古書店前の歩道は普段と変わらずにぎやかだった。店のドアには鍵がかけられ、カーテンもきっちり閉められている。
 事件以降、古書店は休業しているが、店内にある古書の整理や掃除といった雑務にレナは勤しんでいた。
「事件が解決するまで、しばらく旅行にでも行ったらどうだ?」
 ソファに浅く腰かけたルイスが、疲れたように目頭を指でマッサージしながら言った。目の前のテーブルには資料が乱雑に放り出されている。
「店をそんなに長く休むつもりはないし、旅行も心惹かれない」
 レナは素っ気なく答えた。朝一番に納入された古書をカウンターに並べ、注文書と明細書にチェックを書き込んでいる。
 納品された古書に傷や掠れがないか細かく確認しているので、視線は手元から外さない。
「少しの間でいいんだ。犯人がはっきりするまででも」
「いやよ。あたしにアレコレ言う前に、さっさと捕まえればいいじゃない」
 思いのほか古書のコンディションが良かったのか、反論しているわりにレナは嬉しそうな顔をしている。それが呑気に見えたらしい。
「危機感がなさ過ぎる」
 ルイスは語気を強めた。
「俺は本気で言ってるんだぞ。犯人の目的もわかっていないし、とりあえず対処だけでもしておいた方がいいだろう」
「心配してくれてるのはわかってるけど、なんであたしが逃げ隠れしなきゃいけないわけ。あたしの家はここなの」
 検品を終えた古書をカウンターの脇に積み、レナはルイスと向かい合った。
「そんなことより進展はないの? まあ、あたしが協力できるのは顧客関連と仕入先を教えるくらいだけだけど。ほかに手伝えることがあるなら手伝いたい。逃げ出すよりよっぽどいいわ」
「……」
「なによ、その顔」
「……」
 言い出したらぜったいに譲らない頑固者のレナ。説得を試みたところで適当にあしらわれるのは目に見えている。少しの間だけでもベルリンから離れていてくれればいいという提案でさえ一蹴されたのに。
「手伝いたいって伝えたのは最大限の譲歩だからね」
「……だろうな」
 勝手な行動を取られるよりはマシか、とルイスは説得諸々を諦めた。いつかきっと俺が言いくるめてやると、そっと決意する。
「手伝うといっても現状わかっていることに変化はない。外見的特徴とレナの店、女性というだけで被害者それぞれのつながりはまったくないし。犯人の目的が浮かんでこない」
「彼女たちが買った本の種類も目的もバラバラだもんね。購入した本に手がかりがあるようにも思えないし」
「自宅も職場も、購入した本が盗まれた形跡はないからな。本の市場価格も調べたが希少なものはなかったから、本が目的の強盗殺人ではないだろう」
 ルイスは顎の下で両手を組んだ。難しい顔で資料を睨みつけている。
 手伝うと言ったものの、レナになにか妙案があるわけではなかった。それでも狙われているのが自分の店の客なら、次の犯行は防ぎたい。ただ、狙われる理由がわからないことがもどかしかった。
 ルイスの携帯から呼び出し音が鳴り始める。ジャズ風にアレンジしたクラッシックの名曲だ。画面に表示された名前を見て、ルイスが表情をこわばらせた。
「なにか変わったことでもあったのか?」
 ルイスの問いにぼそぼそと答える声はローランのものだ。神妙なトーンの声から察するにあまりいい話ではないらしい。ルイスの視線がゆっくりとレナへ向けられる。
「わかった」
 短く答え、ルイスは通話を終えた。青い瞳には戸惑いが滲んでいる。
「ローランはなんて?」
 嫌なことしか浮かばない。
 渡した資料の中の顧客たちを思い浮かべた。一度きりの客の顔はおぼろげだが、常連客はみな覚えている。その中からまただれかが殺されたのだろうか。
「その顔は悪い話よね。だれなの」
 問うたレナの声は掠れていた。二、三度咳き込んでからもう一度訊いた。
「ローランは名前を言った?」
「ヒューゴ・ピエラ。店の客か?」
 ヒューゴ・ピエラ。その名前を聞いたレナはあきらかに狼狽した。両手で顔を覆い、信じたくないと首を振る。
「ヒューゴは違う。店の客じゃない。彼は……ヒューゴはブリッツに住んでる大学生よ。フランスからの留学生で」
 レナの記憶にあるヒューゴは朴訥とした二十一歳の普通の大学生だ。大きなキャンバスバッグに専門書を詰め込んで、洒落たメガネをかけていて。
「店の客じゃないならどういう知り合いだ?」
「どういうって、彼は……」
 親しかった店の客が殺されて、これまでも衝撃を受けていたレナだが、ヒューゴに関しては動揺を隠せなかった。
 その様子を訝ったルイスが問い詰める。
「ローランも同じことを聞くぞ。ヒューゴとはどういう関係なんだ。ただの知り合い程度で殺害の標的にはならないだろう」
 歯切れの悪いレナにルイスは苛立った。
「ローランはここに来るって?」
「ああ」
「じゃあ、その時に話す」
 よろめきながらソファまで歩き腰を下ろした。
 ヒューゴの死を知り、この連続殺人犯の動機を考えた。親しい友人を奪って自分を苦しめたいのか。いったい何がしたいのだろうか。

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