第2話

文字数 2,779文字

 ローランとエルケンスが帰ると、レナは全身から力が抜けたようにソファに沈んだ。
 テーブルの上の冷えきったコーヒーに手を伸ばす。カップを持ち上げる手ががくがくと震えていた。
「あたしが知ってる人間ばかり殺されてる」
 コーヒーを口に含み、冷えて際立ったその苦みにレナは顔を顰めた。無理やり胃に流し込むと身体の芯から冷えた。
 膝を抱えてテーブルを見ると、スポットライトで照らされたようにぽわりと花が浮かびあがった。
 グラスの形をした小さな鉢植えに寄せ植えされている色とりどりの花。白と鮮やかなピンクにさわやかな黄色。花の名前は確か、カルーナ・ブルガリスといったはず。
 勢いよくまっすぐ伸びあがるその花たちは、豪快な笑い声と陽に焼けたラテンの顔――ラファエルを連想させた。そこだけ春が訪れているような錯覚を起こさせる。
 頭に思い浮かべただけなのに、あの独特のイントネーションと懐っこい声が聞こえてくるようだ。
「ルイスは仕事だろうし」
 ラファエルがいれば少しは気がまぎれるのに――と言いかけたところで窓を叩かれ、レナは振り返った。
 レースのカーテンの向こうで影が手を振っていた。
「レナ、いるか?」
 ラファエルだった。
 レナは答えるより先に、玄関のドアを開けていた。

 初めて目にするレナの私室を、ラファエルは繁々と見渡した。その様子をレナは笑いながら眺めていた。
「なにか珍しいものでもあるの? 普通でしょ」
「いいや、レナの部屋はどこか違うな。さっきからイイ匂いがしてる。フレグランスかな」
「ちょ、ちょっと」
 そのうち部屋中を嗅ぎまわるんじゃないかと疑いたくなるほどの勢いで、ラファエルは鼻をくんくんと鳴らした。麻薬探知犬も顔負けの勢いに、さすがのレナも苦笑するしかない。
 リビングに案内したところでラファエルが驚いたように声を漏らした。テーブルの上に飾られた花を指差してぷるぷる震えている。
「花があると部屋全体が明るくなるよね。気分も上がるし」
「ちゃんと飾ってくれているんだな。捨てられるかもしれないなあって覚悟しながらプレゼントしてたんだよ、本音を言うとさ」
「捨てたりなんかしないわよ、もったいない」
 ノーテンキなラテン男かと思っていたラファエルの一面を見てレナは驚きもしたが、彼にも自分と同じような複雑さがあるのだなと微笑んだ。
 やはりラファエルがいると気分が軽くなる。全身にまとわりついていたさっきまでの重苦しい空気は消えていた。彼の持つ独特の雰囲気に、レナはほっと息を吐いた。
 ふと、ラファエルの手元に視線が落ちた。
「その手に持ってるの、なに?」
 ラファエルが提げている、かなりくたびれた綿のトートバッグを指した。
「今日はもう店じまいしたからな。レナといっしょに昼飯でも食おうと思って、そこのスーパーで買ってきたんだよ。レナさえよければキッチンを使わせてもらいたいんだけど、構わない?」
「え、わざわざ買ってきたの? 昼ご飯くらいならうちにある材料つかってあたしが作るのに」
「ちがうちがう。そうじゃなくて」
 ラファエルは照れくさそうに頬を掻きながら、
「俺がレナの為に作りたいんだよ。最近レナの周りが物騒だろ。今日も、ほら……泣きそうな顔してるし、俺の手料理で元気になってもらおうかなって。だからキッチン貸して」
 ラファエルはそう言ってウィンクした。
 レナは慌てて頬に手をあてた。ラファエルにまで見透かされてしまうほど顔に出ていたのかと、レナ自身が一番驚いた。
「あたし、そんなヘンな顔してた?」
「レナはいつも可愛いけど、今日はちょっと違ったな。憂いのある可愛さ」
「なにそれ」
「俺の顔見てほっとしただろ。そんなの初めてだった」
 ぐ、とレナの喉奥が鳴る。そんなことまでバレていたのか。このラテン男は侮れない、とレナは微苦笑を浮かべながらキッチンへと案内する。
「さっきまで警察が来てたから、そのせいもあるかも」
 ローランから責められたわけではないが、それでもいい気はしない。彼が自分を疑っていないことは十分わかっている。それでも、親友から聴取を受けるというのはほんとうに嫌な気分だ。
 自分にとってローランが特別な存在だからなのかもしれないとレナは思う。
「警察ってフランス人の?」
「そうそう。……あれ、ラファエル。ローランのこと知ってるの?」
「たまに花を買ってくれるんだけど、てっきりレナの紹介かと思ってた。初対面のはずなのに俺のこと知ってるみたいだったからさ」
 シンクに買ってきた野菜を置きながら、「人との境界線、俺もあんまりない方だけど」とラファエルが愉快そうに続けた。
「ローランとラファエルって似てるかもね。それよりあたしも手伝っていい? ひとりで待っていてもつまらないもの」
 シャツの袖をたくし上げながら、レナはラファエルの手伝いを申し出た。
 ラファエルが作ろうとしているのは彼の郷土料理だろうから、それを覚えてルイスに振る舞ってやろうと考えたのだ。
「なに作るの?」
「パタタス・コン・ハモンセラーノと野菜のシェリー煮、あとチキンのエスカローブ」
「昼間っから豪勢ね」
 花屋の口から飛び出したメニューにレナは目を丸くした。
「レナと最初の食事だからな。少し張り込んだのは確か」
 ニカッと白い歯を見せて笑うラファエル。彼との会話は気負わなくていい。
 食事をしながらの他愛のない世間話は、ラファエルの陽に焼けた笑顔のように眩しかった。腹の底から笑うラテン男につられて、レナも久しぶりに声を上げて笑った。
 食後のコーヒーは自分が淹れると棚を探ったレナは、豆が切れていることに今さら気づいた。
「ねえラファエル。今日はもう店じまいしたって言ってたよね」
「そうだけど、どうした?」
 動画サイトでみつけた、おバカなチャレンジ動画に涙を流しながら視聴していたラファエルが顔をあげた。目じりを手の甲でごしごしと擦りながら涙をぬぐっている。
「コーヒー豆を切らしてるのうっかり忘れてて、ラファエルさえよければいっしょに買いに行かないかと思って」
 レナはジャケットを羽織りながらラファエルを誘った。
「食後の散歩にはちょうどいいかな。せっかくだからコーヒーは外で飲もう」
「今から行く店も店内でコーヒー飲めるから、そこで飲もうよ」
 いつも豆を買うカフェには親しいバリスタがいて、常連であるレナの好みを熟知してくれている。
 レナはもう一度棚を確認する。ルイス専用の豆も残り少なくなっていた。
「ここのカフェはホントにおすすめだから。サイフォンで淹れてくれる店はこの辺りじゃここくらいじゃないかな」
 まるで自分の家族が経営しているみたいに、得意げな顔でレナは言った。

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