【落花流水に疾る】第10話

文字数 2,537文字

 階段に薄く積もった雪の上を慎重に歩く。手をかけた鉄製の手すりの冷たさに驚いてルイスは小さな声をあげた。吐き出した白い息が霧のように口元を覆い隠す。
 踏みしめた雪がブーツの下でぎゅっと音を立てた。わずかな音だが真夜中に降りしきる雪の中では、やけに大きな音に聞こえる。
 ドアの上から通路を照らす玄関灯の古びた傘にも雪が積もっていた。モスグリーンのペンキに塗られた扉がぼんやりと灯りの中で佇んでいる。
 コートのポケットに手を突っ込み、ガチャガチャと鍵を鳴らした。レナが住むこの家の合鍵は持っている。普段ならこの合鍵を使って入り、我が家のような顔でコートを脱ぎ、冷えきった身体のままレナが眠るベッドへ潜り込む。
 しかし今夜は違った。
 レナにドアを開けてもらいたい、迎えてもらいたい、おかえりルイスと笑顔のレナに出迎えてもらいたいと思ったからだ。
 長い時間逡巡したルイスは、寒さで感覚のなくなった指でインターホンを押した。静かな夜に雑音のような古びたベルが響いた。
 しばらくしてドアの向こうから足音が聞こえてきた。ドアが開くと眠そうに目を擦りながら、それでいて笑顔のレナがいた。
「おかえり、ルイス。こんな時間まで仕事とか、お疲れ」
「ミッテに帰った方がよかったか?」
 望んでいた笑顔と言葉で出迎えてくれたというのに、ルイスの口からは憎まれ口がこぼれた。
 レナは驚いたように目を瞬かせて苦笑いを浮かべた。
「なにバカなことを言ってんのよ。疲れた恋人を労って癒すのがあたしの仕事だからね」
「仕事って言うなよ」
 口をへの字に曲げたルイスに、レナは両手を広げて見せた。
「ただいまのハグはしてくれないの?」
「…………た、ただいま」
 雪をかぶったルイスが飛びつくようにレナを抱きしめた。2人の足元にさらさらと細かな雪が舞い落ちる。ルイスの背後から、冷たい風と強く降り始めた雪がリビングの侵略を始めたことに気づくと、
「さむいっ。早くドアを閉めて」
 寝間着のままだったレナが震えながら開きっぱなしのドアを指した。
 ルイスの頭に降り積もった雪を払ってやりながらコートを脱がせると、レナはココアでも淹れてやろうとキッチンへ向かった。
「なにもいらない」
 離れていこうとしたレナの腕を、ドアを閉めたすぐ後にルイスが掴んだ。レナは自分の腕を掴む義弟の手と顔を交互に見やり、にかっと笑う。
「とりあえずあったかいものでも飲んで落ち着こう。話はゆっくり聞いてあげるから」
 そう言ってルイスの手を擦ったが、ルイスに手放す気はないらしく拒むように強く握り込んできた。
「話はいいからレナが……」
「……で?」
「レナが」
「あたしが?」
 レナに次の言葉を催促されているのにルイスは二の句が継げない。バーでベンノに言われた言葉が頭の中で渦を巻いていた。
「俺は甘やかされ過ぎているのだろうか」
「……は? 誰が誰を甘やかしてるって?」
「こんな夜遅くに帰ってきてもレナは当たり前の顔で出迎えてくれる。俺が望む言葉と笑顔で」
 そう言って黙り込んでしまったルイスの鼻の頭を、レナは思いきり指先で弾いた。
「痛い」
 頭を仰け反らせたルイスを指差して、レナが大げさな声で笑う。
「これ、なにに見える」
 薬指に嵌めた指輪が見えるようにレナは右手を掲げた。ルイスの視線が指輪に留まるのを見て、
「遊びや酔狂でこれを嵌めてるわけじゃないよ。アンタはどうなの。ふざけた気持ちで嵌めたの?」
「そんなはずない。この指輪をレナからもらって俺がどれだけ喜んだか。むしろレナの方がわかっていないんじゃないのか」
「わかってやってんのよ。あたしがどうすればルイスが喜ぶか、このレナさんがわからないとでも思ってんの?」
 レナはルイスの首に両腕を回した。身体を密着させ、覗き込むように拗ねる年下の恋人をみつめた。
「今夜もほんとうはミッテに帰って休んだ方がラクだったんでしょ。こんな時間になってあたしのところへ戻ってくるってことは、あたしになにかを求めてるからなのよ。あたしはルイスの様子を察してなにを求められてるのかを読んで応える。それがハグだろうとおしゃべりだろうと――セックスでもね」
「それは義務か? さっき俺を労うのは自分の仕事だって言っていたしな」
「なに、今夜はやけに絡むじゃない」
 レナはじっとルイスをみつめた。
「答えてくれ」
 空色の瞳は思いつめたような暗さを滲ませて、レナの答えをじっと待っている。
「あのね」
 ルイスの首に回していた両手を腰まで滑り落とし、自分の下腹を押しつけてぺろりと舌なめずりした。
「ここを勃たせるような仕事に就いたことはない。惚れてもいない相手にその気になんてならないから。あたしの身体が反応するのはルイスだけなんだけど、これもアンタに言わせればお仕事ってことになるわけ?」
 言いながらレナの両手がルイスの尻を鷲掴む。
「意味が違うし、俺の尻から手を離せ」
「いーやーだーねー。だってあたしの愛情を疑われたのよ? そんなの許しちゃおかないから」
「疑ってはいない。甘やかされているんじゃないかと言っただけだ」
「あら、甘やかしてるのよって言ったら? 年下の恋人が可愛くて可愛くて甘やかしてるんだって言ったら満足?」
「それは」
 はっきり甘やかしていると返されたルイスは、ごにょごにょと口の中でぼやいた。
「アンタを許さないってあたしは言ってるんだけど、ルイスはどうやってあたしに許しを請うのかなぁ」
 レナはにやにやと笑ってルイスの反応を愉しんだ。
 口ではレナに敵わないと諦めたルイスは自分の尻に張りついているレナの手を引き剥がした。
「クソッ。どうやったらレナに勝てるんだ」
「あたしに勝とうなんて100万年早いわね」
「あ、でも優位に立てることがなにかはわかっているぞ。ベッドの中のレナは自分が思っている以上に従順で愛らしいからな」
「そう? 今夜は少しばかり違うから覚悟が必要よ」
「赤い顔で言うくらいなら少し黙っていろ」
 言ってルイスはレナの唇を塞いだ。
 間近で見るレナは照れくさそうに視線をさまよわせていた。
「今夜のレナはいつも以上に可愛く見える」
 友人の言葉がもたらした複雑な思いに蓋をして、温かい気持ちにさせてくれる恋人のぬくもりを今はただ感じたかった。

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