第4話

文字数 4,107文字

***

 風がひりつくほど冷たく、息を吸うたびに寒さで肺が縮みそうな冬。
 午後から顔を出した太陽のおかげで寒さは少しばかり緩み、ベルリンの住人はこぞってオープンカフェへと繰り出した。
 燦々と陽光が降り注ぐ中、大勢の人たちと同様にレナもオープンカフェのテーブル席に着いた。
 キャメルのダッフルコート、黒のマフラーを首の後ろでリボンのように結んでいるレナは、コロンビアエスプレッソの香りが漂う中、手元の書籍へ視線を落とす。
 すっぽりと被った手編みの毛糸の帽子には銀髪が隠れている。作り物のようにも見える鮮やかな銀髪は人目を引き、それが嫌で染色を繰り返していたのは十代のころの話だ。年を取るとものぐさになるのか、最近では染めるのも億劫だった。
 レナはときどき周囲を見渡しては、その中に待ち人の姿をみつけられず唇を尖らせて読みかけのページへ視線を戻していた。
 さらに時間が経過する。
レナはクーヘンを注文した。十分ほどで、カフェの自家製シュトロイゼルクーヘンが運ばれてくる。レナは少女のように瞳を輝かせてクーヘンを口へと運んだ。変わった色合いのレナの虹彩はその時々で雰囲気を変える。それは恐ろしく見えたり、愛らしく見えたりした。
美味しそうにクーヘンを頬張っていると、視線に気づいたのかレナが辺りをきょろきょろと見渡し、――ぱちりと視線がかち合う。
思いがけずかち合った視線にレナは驚いたようで、目を瞑り、そして照れくさそうに笑った。その顔があまりにも華やいでいて、青年にはかける言葉がみつからなかった。
青年も照れ隠しに笑ってごまかし、大きな陶器の鉢に入った観葉植物を抱え上げた。
レナのスマートホンが鳴り、表情が弾けた。
恋人からの電話なんだなと思うと、青年の口元が小さく痙攣した。そのことを考えただけで胸の奥に青い炎が燃え上がる。見ているだけでは物足りないと身体の奥で炎が暴れる。
夕暮れの茜空を思わせるあの双眼にみつめられたらどんなにか幸せだろう――胸が躍るだろう。
夏の日差しの中で弾ける噴水の水のように、秋風に舞い上がる金色の落ち葉のように、それはくっきりとラファエルの網膜に焼きついていた。


「アイツ……ふざけんなっ」
 レナは忌々し気にスマートホンをソファへ放り投げた。電話に出ないルイスに悪態を吐く。
リビングのテレビでは飽きもせず延々と連続殺人事件について時間を割いて報道している。特番を組み、識者やコメンテーターに好き放題喋らせていた。
 テクラ・ショーダー以降、新たな被害者は出ていない。
 発見されていないだけで、どこかで冷たくなった被害者がいるのかもしれない。そう思うだけでレナは落ち着かなかった。
 しかもルイスと連絡が取れない。彼の身に何かがあったとは思わないが、レナの電話を無視してしまうくらい仕事に没頭しているのではないかとそれが気がかりだった。
 ルイスは極端な行動を取るきらいがあるからだ。ぶつぶつと口内で文句を呟きながら義弟のアパートへ向かう準備をした
 古書店はしばらく休もう、その方がいい――部屋を出たついでに、階下の店のドアに張り紙をした。臨時休業と走り書きされたメモが、きっちりしまったカーテンを背景にひらひらとその端をなびかせていた。
 ミッテ区のアパートに到着すると、合鍵を使って部屋の中へ入った。
「なによ、これ」
 開口一番。
 目の前に広がる惨状に、レナはそれ以上言葉が出てこなかった。
 ルイスのアパートは、玄関を開けるとすぐにリビングが広がっている。左手に見えるキッチンは料理の形跡すらないほど整っていた。
 バルコニー寄りに配置されているソファとラグ、テーブルと床、そこら中に紙が散乱している。びっしりと文字が印刷されたコピー用紙やクリップで留められたファイル、置き場がなく山積されているフォルダーの類い。
 疲れて眠り込んでいるルイスはソファにだらしなく上半身を預けていた。
 呆れたようにため息を吐き、レナはそこらに散らばっている紙を拾い集めた。手にした紙の内容は嫌でも目に入る。
「事件の資料ね……あ、えぇと、これは」
 その中に、自分に関する資料が目に留まった。そろりとルイスに視線をやる。寝言のようなものを呟きながら、彼は背を丸めた。レナは資料に視線を戻した。
 そこに書かれてあったのは、事件当日の自分の足取りやプライベートの交友関係などだ。もちろん仕事の取引先や懇意にしている収集家なども含まれている。すべてルイスの筆跡だった。
 疑われているのかと傷ついたが、ルイスが事件の捜査から外されていたことを思い出した。
「これがアンタなりの捜査なのね。そうだった、こういう男だったわ。あきらめの悪い男」
 ルイスは自分が納得するまでどこまでも追い続ける性分だということを思い出し、レナは肩を竦めて苦笑した。
 大きな身体を窮屈そうに折り曲げて眠るルイスに、レナは寝室から運んできた毛布をかけてやる。散乱している床の書類を集め終え、テーブルの上にも手を伸ばしたが、作業途中のものに触れるのは憚られて止めた。自身に関わることだけに尚さらだ。
 食事の用意でもとキッチンに立ってみて、やはりルイスがなにも口にしていないことがわかった。
 空腹に重いものは向かないだろうと、蒸かしたじゃがいもと牛肉ロールの煮込みを用意した。寝起きの頭をすっきりさせるために、白ワインビネガーをたっぷり使ったブラウエ・ツィプフェルも添える。
「作り置きもしておこうかな。あー……んと、容器はどこだっけ? たぶんここね。ルイスならこういうところにしまい込むのよ」
 括りつけの棚に手を伸ばして中を漁る。ようやく目当てのものを引っ張り出したところで声をかけられた。
「レナ?」
「きゃあッ」
 驚いて危うく保存容器を落としそうになった。
「気づかなかった。いつごろ来たんだ?」
「来たばっかりだけど、ルイス、なによそのひどい顔」
 スラックスにはあちこちに折り目が入り、胸元がはだけたワイシャツに至ってはしわだらけで目も当てられない。首から抜けそうなほど緩んだネクタイの結び目をレナがほどいてやる。
 艶を失ったルイスの髪に指を通しながら、
「あたしのせい、だよね」
 少し硬い髪が指の間を抜けていく。
「それは違う。レナのせいじゃない。捜査を外されたのは、きっと俺に問題があったからだ。そのことで上司に恨み言を言うつもりはないが、捜査は続けたかったんだ。俺の手で、レナがこの事件には関わっていないことを証明したかった。それだけだ」
「たとえそうだったとしても、この有様を見たらやっぱりあたしのせいかもって思うじゃない」
「……すまない」
 しょんぼりと俯いてしまったルイスを見て、レナはその両頬を両手で挟み込んだ。
「あたしにも手伝わせて。あたしだって事件の容疑者だとか関係者扱いされるはイヤだし、潔白を証明したいじゃない。だけど、ねえルイス」
 ちらとキッチンに視線を向け、
「まずはしっかり食べなきゃ。空腹じゃ、いい考えも浮かばないわよ。美味しい食事して、シャワーを浴びてコーヒーを飲んで、甘いものだって楽しまなくちゃ。それから二人で考えようよ」
 あたしたちは家族でしょ――。レナはそう続けた。
 暗く沈んでいたルイスの瞳に生気が戻り、青い瞳は晴れやかな光を放ち始めたのだった。

 普段なら行儀が悪い、と言って小言のひとつやふたつ飛んできそうだが、食事を摂りながら資料に目を通すことに夢中になっているレナに、ルイスはなにも言わなかった。
 首を傾げたり頭を抱えたり、天井を見上げたりと忙しないレナのふわふわと揺れる髪をひと房摘み、指先で弄ぶ。
「どうしたの」
 ルイスの好きなようにさせてやりながら、レナは細かく書き込まれた資料のページを繰った。
「……」
「なによ」
「……」
 ルイスは黙ったまま。部屋の中でレナが繰るページの乾いた紙の音だけが響く。
「一、あたしのあまりの可愛さに見惚れている。二、大好きなあたしに甘えたくて仕方がない。三、あたしを裸にひん剥いてる想像しているから落ち着かない」
「レナ!」
 どれが図星なのか謎だが、ルイスは真っ赤な顔で「勝手なことを言うな」と抗議した。
 資料から顔をあげたレナは、ニヤついた怪しい笑みを浮かべている。
「赤くならなくてもいいじゃない。素直に口にしてもいいのよ?」
 からかうように言うと、ルイスの平手がレナの後頭部をはたいた。
「俺一人でやるからレナは帰れ」
 テーブルの上の皿からパンを取り上げて、ふてくされたようにむしゃむしゃと乱暴に頬張った。その様子は、いつまでも追いつかない年の差にむくれ、拗ねておやつのクーヘンを頬張っていた幼い頃と少しも変わっていなかった。
「むくれることないでしょ。この事件が無事に解決したら、また元の生活に戻れるんだから。そうしたらゆっくり……そうねぇ。どこか旅行にでも行こうか」
 頬杖をついたレナは目を細めて笑った。
「早く犯人を捕まえて、朝までゆっくり眠りたいよね。あたしだってこれ以上知ってる人間が殺されるのはイヤだもの」
「ああ」
 ルイスは小さく頷き、空色の双眼を改めて義姉に向ける。
「俺にも顧客データを見せて欲しい。ほかに古書店絡みの殺人事件はないし、そうなるとやはりレナが接点だと思う。顧客の中に気になる人物がいたら教えてほしいんだ――可能性は低いかもしれないが」
「なんでも協力する。あたしも手伝うから。じゃあ、これ食べたらあたしん家に行こうか。そうだ、途中でカミルの店に寄ってもいい?」
「俺用の豆なら昨日買いに行ったから、うちからそれを持って行けばいい」
「そうじゃなくて、この間カミルに新しい豆でコーヒーを淹れてもらったんだけど、それがすっごく美味しくて。アンタにも飲ませてあげたいの」
 茜色の瞳をゆっくりと細めて、レナはにこりと笑った。
 アパートを出ると空の雲間から伸びる光の筋が、地上を目指していくつも降り注いでいた。

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