第15話
文字数 2,287文字
自分のせいですっかり遅くなった夕食を終えたルイスは、レナの言いつけどおりにシャワーを浴びていた。
丸一日ベルリン市内を歩き回っていて、実を言うと身体中はすっかり疲れきっていた。
鉛の重石でもつけた鎖を引きずって歩いているような酷い倦怠感だった。
冷えきった身体にシャワーの温水がなんとも心地良い。油断するとこのまま眠ってしまいそうだ。
戒めるように両頬を叩いたルイスは、睡魔に負けそうになるのを必死にこらえた。今はわずかな時間さえも惜しい。
栄養と休養は大事だとレナは言ったが、そんな悠長なことは言っていられない状況なのだ。
ルイスは自分を心配するレナの顔を思い出したが、首を振り、彼女の言葉に甘えそうになる自分を押し殺した。
当初、凶器は一般的なナイフだと思われていた。喉を真横に切り裂く殺害方法ということもあり刃渡りなどの詳細も不明のままだ。切り口の幅から厚みのある刃を重点的に調査し凶器特定に繋げようと仲間は動いていた。
しかし、切創と呼ぶには雑な傷だったとローランは言っていた。使い古したナイフなのか、そもそもまったく別の刃物なのか。
これについてはゲルトも同じことを言っていたから確かだろう。そもそも別の用途の刃物ではないかとゲルトは言っていた。
その凶器が変わった。
途中で凶器を変える理由はなんだ。凶器が変わったのではなく、模倣犯だから凶器までは似せられなかったのか。
そもそも殺害の動機は?
レナへのストーカー行為の可能性に囚われすぎていたのだろうか。快楽殺人を除外してもいいのか。
警戒されること無く声をかけるのは犯人が女性だからだろうか?
男であっても警戒心を抱かせないタイプもいるから、犯人を女性だと限定するのは危険だ。古書店の客――レナが個人的に関わった人間とも顔を合わせていて2人きりになったとしても警戒されない、信用さえされる……。
ルイスは頭に浮かんだ名前に瞠目した。見開いた眦を温水が流れ落ちていく。
ルイスは壁に両手をつき俯いた。タイルの上にはルイスの足を覆うように大きな水溜りが出来ている。それはまるで発見現場で目にした被害者たちの血溜まりに見えた。
ルイスは固く目を瞑り低く唸るような声をあげた。
胸に引っかかっていたのはヒューゴ――彼だ。
古書店の顧客ではない彼を標的にしたということは、間違いなく犯人はレナの交友関係を知り尽くしている。もしくはそれを知り得る人物ということだ。
そこまで考えてまたも思考が鈍くなっていく。
ルイスはシャワーを止めてバスルームを出た。
レナが用意してくれた寝間着に着替え、リビングへ向かった。ちょうどレナが三階の倉庫兼書庫から下りてくるところだった。
「もう眠そうね。平気?」
白く塗られた螺旋階段の手摺りにすがり、レナが心配そうに声をかけた。
「そうだな……なんだか、頭が重い、気がする」
先にソファへ腰を下ろしたルイスが顔を覆うと、すぐに横へレナが腰を落ち着けた。ルイスの肩を軽く膝へ引き寄せると、義弟は素直にそのまま横になる。
シャワーを浴びながら考えていたことを、ルイスはつらつらと思い出していた。
レナが繰るページの音がすぐ傍から時計の音のように規則正しく聞こえる。まるで催眠術にかけられていくようだった。
睡魔の足音は次第に早く、確実にルイスの意識を刈り取ろうとしていた。
まばたきを数回繰り返し、瞼がゆっくりと閉じかけたときテーブルの上の鮮やかな彩(いろ)が目に入った。可愛らしく整えられた花のバスケット。
光量を抑えられたライトの明かりの中で、ふわりと浮かぶように佇む花のバスケットにルイスの視線は釘付けになった。
「……花屋」
ぽつりと呟いたルイスに、レナが素早く反応した。
「なに?」
「テーブルの上の、あれ。あの花はどうしたんだ」
「ああ、あれね。今日ラファエルにもらったのよ」
読みかけの本から顔を上げ、レナがテーブルへ視線を向けた。そして昼間の出来事を思い出してくすくすと笑った。
「花を買いに行ったんだけど、そうそう、ルイスがちょうど電話を掛けてきたときね。で、そのときにラファエルがくれたのよ。いつももらってばかりだから悪くて買いに行ったのに」
と、また笑った。
「…………花……花屋」
なにかがルイスの頭の隅を掠めていった。
ルイスはもう一度花のバスケットを見る。掠めた何かがわかりそうな気がした。
花、花、花。
横になったまま視線を動かす。
花瓶に活けられたカサブランカリリー、ガラスの皿に浮かべるように飾られた野趣溢れる花々。そして素焼きの鉢に寄植えされている小さな花弁のシクラメンや水仙。
こんな風に、部屋中に飾り立てるほどレナは花が好きだったろうか。
まどろみかけていた意識が、水面めがけて浮上する泡のようにルイスの内側を競り上がってくる。脳裏を掠めた光が朧気だった陰影を際立たせ、ぼやけていた輪郭を浮かび上がらせていった。
それが何であるかに気づいたルイスが慌てて飛び起きようとしたが、レナにありったけの力で押さえ込まれた。
「なんて顔してんの。今夜はゆっくり休みなさいってば。ここで寝落ちしてもあたしが運んであげるから。嵩めば重い本をいつも運んでるあたしはそれなりに力があるんだから、アンタは安心して寝ていていいの」
茶化しているわけでもなく、レナが心底心配していることにルイスは素直に従った。
そのままレナの膝の上へ頭を乗せて瞼を閉じた。
しかし、ようやく見えた光源のせいでルイスは眠れそうになかった。
ゲルドの言葉が脳裏によみがえる。
“そもそも別の用途の刃物ではないか”
丸一日ベルリン市内を歩き回っていて、実を言うと身体中はすっかり疲れきっていた。
鉛の重石でもつけた鎖を引きずって歩いているような酷い倦怠感だった。
冷えきった身体にシャワーの温水がなんとも心地良い。油断するとこのまま眠ってしまいそうだ。
戒めるように両頬を叩いたルイスは、睡魔に負けそうになるのを必死にこらえた。今はわずかな時間さえも惜しい。
栄養と休養は大事だとレナは言ったが、そんな悠長なことは言っていられない状況なのだ。
ルイスは自分を心配するレナの顔を思い出したが、首を振り、彼女の言葉に甘えそうになる自分を押し殺した。
当初、凶器は一般的なナイフだと思われていた。喉を真横に切り裂く殺害方法ということもあり刃渡りなどの詳細も不明のままだ。切り口の幅から厚みのある刃を重点的に調査し凶器特定に繋げようと仲間は動いていた。
しかし、切創と呼ぶには雑な傷だったとローランは言っていた。使い古したナイフなのか、そもそもまったく別の刃物なのか。
これについてはゲルトも同じことを言っていたから確かだろう。そもそも別の用途の刃物ではないかとゲルトは言っていた。
その凶器が変わった。
途中で凶器を変える理由はなんだ。凶器が変わったのではなく、模倣犯だから凶器までは似せられなかったのか。
そもそも殺害の動機は?
レナへのストーカー行為の可能性に囚われすぎていたのだろうか。快楽殺人を除外してもいいのか。
警戒されること無く声をかけるのは犯人が女性だからだろうか?
男であっても警戒心を抱かせないタイプもいるから、犯人を女性だと限定するのは危険だ。古書店の客――レナが個人的に関わった人間とも顔を合わせていて2人きりになったとしても警戒されない、信用さえされる……。
ルイスは頭に浮かんだ名前に瞠目した。見開いた眦を温水が流れ落ちていく。
ルイスは壁に両手をつき俯いた。タイルの上にはルイスの足を覆うように大きな水溜りが出来ている。それはまるで発見現場で目にした被害者たちの血溜まりに見えた。
ルイスは固く目を瞑り低く唸るような声をあげた。
胸に引っかかっていたのはヒューゴ――彼だ。
古書店の顧客ではない彼を標的にしたということは、間違いなく犯人はレナの交友関係を知り尽くしている。もしくはそれを知り得る人物ということだ。
そこまで考えてまたも思考が鈍くなっていく。
ルイスはシャワーを止めてバスルームを出た。
レナが用意してくれた寝間着に着替え、リビングへ向かった。ちょうどレナが三階の倉庫兼書庫から下りてくるところだった。
「もう眠そうね。平気?」
白く塗られた螺旋階段の手摺りにすがり、レナが心配そうに声をかけた。
「そうだな……なんだか、頭が重い、気がする」
先にソファへ腰を下ろしたルイスが顔を覆うと、すぐに横へレナが腰を落ち着けた。ルイスの肩を軽く膝へ引き寄せると、義弟は素直にそのまま横になる。
シャワーを浴びながら考えていたことを、ルイスはつらつらと思い出していた。
レナが繰るページの音がすぐ傍から時計の音のように規則正しく聞こえる。まるで催眠術にかけられていくようだった。
睡魔の足音は次第に早く、確実にルイスの意識を刈り取ろうとしていた。
まばたきを数回繰り返し、瞼がゆっくりと閉じかけたときテーブルの上の鮮やかな彩(いろ)が目に入った。可愛らしく整えられた花のバスケット。
光量を抑えられたライトの明かりの中で、ふわりと浮かぶように佇む花のバスケットにルイスの視線は釘付けになった。
「……花屋」
ぽつりと呟いたルイスに、レナが素早く反応した。
「なに?」
「テーブルの上の、あれ。あの花はどうしたんだ」
「ああ、あれね。今日ラファエルにもらったのよ」
読みかけの本から顔を上げ、レナがテーブルへ視線を向けた。そして昼間の出来事を思い出してくすくすと笑った。
「花を買いに行ったんだけど、そうそう、ルイスがちょうど電話を掛けてきたときね。で、そのときにラファエルがくれたのよ。いつももらってばかりだから悪くて買いに行ったのに」
と、また笑った。
「…………花……花屋」
なにかがルイスの頭の隅を掠めていった。
ルイスはもう一度花のバスケットを見る。掠めた何かがわかりそうな気がした。
花、花、花。
横になったまま視線を動かす。
花瓶に活けられたカサブランカリリー、ガラスの皿に浮かべるように飾られた野趣溢れる花々。そして素焼きの鉢に寄植えされている小さな花弁のシクラメンや水仙。
こんな風に、部屋中に飾り立てるほどレナは花が好きだったろうか。
まどろみかけていた意識が、水面めがけて浮上する泡のようにルイスの内側を競り上がってくる。脳裏を掠めた光が朧気だった陰影を際立たせ、ぼやけていた輪郭を浮かび上がらせていった。
それが何であるかに気づいたルイスが慌てて飛び起きようとしたが、レナにありったけの力で押さえ込まれた。
「なんて顔してんの。今夜はゆっくり休みなさいってば。ここで寝落ちしてもあたしが運んであげるから。嵩めば重い本をいつも運んでるあたしはそれなりに力があるんだから、アンタは安心して寝ていていいの」
茶化しているわけでもなく、レナが心底心配していることにルイスは素直に従った。
そのままレナの膝の上へ頭を乗せて瞼を閉じた。
しかし、ようやく見えた光源のせいでルイスは眠れそうになかった。
ゲルドの言葉が脳裏によみがえる。
“そもそも別の用途の刃物ではないか”