§05 10/27 避難生活(3日目・夕)

文字数 5,673文字

 昨日から図書室で『蜜蜂と遠雷』を読み始めた。彩香の本棚にあったものだ。ちょっと前に映画になったのは知っている。だからふと手が伸びた。ピアノやってたの?と尋ねると、彩香は首を横に振った。おもしろかった?と尋ねると、「天才」という言葉の響きに無条件に痺れるタイプなら、と難しいことを言ったあと、少女漫画家が少年誌のノリで描いたみたいなやつ、と付け加え、さらに、美青年と美少年は出てくるけど美女も美少女も出てこないから心穏やかに読めるよ、と笑った。
 月曜はネカフェ、火曜は図書室、そして水曜の今日は自習棟で放課後を過ごしている。土曜日は彩香とネカフェのシアタールームを試してみることになったので、今週の放課後はネカフェには行かないことにした。明日の木曜はまた図書室にしようかと思っているが、金曜はまだどことも決めていない。『蜜蜂と遠雷』がおもしくなってくれば(今のところまだなんとも言えない)、きっと続けて図書室に行くだろう。おもしろくならなかったら、自習棟? 人生の選択肢は思いのほか少ない。
 学校と彩香のマンションとのあいだには、もちろんたくさんのカフェがある。コーヒー一杯が二百円くらいから千二百円くらいまで、ピンキリにある。だけど足が躊躇うようになっていることに、月曜日、新宿のネカフェに行った際に気がついた。実を言えば電車にも乗りたくない。今週はもうネカフェに行かないことにしたのには、それもある。いや、それがある。ただ『蜜蜂と遠雷』を読みたいだけなのであれば安いカフェにでも座ればいいのに、カフェに限った話ではなく、とにかくそうした場所に入りたくないし、電車にも乗りたくない。本当は学校にも来たくない。誰にも会いたくない。ぜんぶわたしのせいだ。ぜんぶわたしが悪い。わたしがバカで、どうかしていたせいだ。
 ……と、肩をとんと叩かれた。ビクッとして振り返ると、吹雪さんがにっこり微笑んでいる。天使のように愛らしい吹雪茉央――自習棟から放課後のカフェテリアの窓辺のテーブルに移り、弱小野球部の気の抜けた声を聴きながら、初めて真正面からじっくりとその造作を検分した。なんて愛らしい! ほんと、天使みたいだ!
「わたしの顔になんかついてる?」
「わたしと同じパーツがついてる。でも、どこか決定的に違う感じ」
「由惟さんも標準以上に綺麗な大人の女の人になると思うよ」
「そんな根拠もないことを……」
「彩ちゃんもそういうタイプの顔だよね。やっぱりこうして見ると似てるね」
「結城さんより綺麗になれると思う?」
「結城さんかあ。なかなか手強い名前を出してくるなあ。でも結城さんてそういう土俵で争う気がまったくない感じの女の子だから、問題の男の人がどういう視点で評価する人なのか、結局それ次第なんじゃないかな」
「吹雪さんて大人だねえ」
「う~ん、大人とはちょっと違うんだよ。これは失望と悲しみをたくさん味わってきたせい。でもまだむなしさまではわたし知らないから」
「映画のセリフみたい」
「あ、わかった? これね、三浦しおんて女の人が書いてたんだ。ちょっと難しいけど、希望をくれる感じするでしょ? あ、あとね、親がいないというのはなんて素晴らしいことなんだろう、て言うセリフもあるよ」
「それはどんな意味?」
「親がいないのと、いるのにすれ違っちゃうのと、どっちがマシなのか?て続くの」
 失望と悲しみなら、確かにわたしも知っている。あれを「失望」と呼ぶのは傲慢なように思えるけれど、自分がなにを望んでいたのか今ではわからないのだけれど。それでも十七歳のわたしの中に「むなしい」という感慨は探しても見つからない。今はただ悲しい。悲しいがずっと続いている。悲しいにずっと埋もれている。
 だけど、吹雪さんはわたしのなにを知っているのだろう? まさか彩香が話したのだろうか? 彩香もすべては知らないはずだった。少なくとも窓の向こうの賃貸マンションのベランダから覗いていた視線のほうは、誰も知るはずがない。
「彩ちゃんとは同じ電車を使ってるんだ。わたしが先に乗ってる電車に彩ちゃんが乗ってくるの。月曜日、火曜日、今日は水曜日――三日も続けて由惟さんが一緒だったから、なんか変だな?て思って、さっき彩ちゃんに聞いてみたの。そしたら由惟さんが彩ちゃんのとこで避難生活してるって言うから、由惟さんとお話ししてもいい?て彩ちゃんに訊いてみたら、茉央の好きにすれば、て言うから今ここでこうしてるの」
「ごめん、なんかよくわからない」
「え~とねえ、ただのお節介? ただの好奇心? いいなあ、わたしも避難生活できたらなあ…て思って。避難生活ってどんな感じがするのかなあ…て思って。なにか災害が起きたときにするでしょ? ううん、事情は聞かなくていいの。そこは知らなくていい。避難生活がどういう感じか知りたいだけだから。だって災害が天災でも人災でも、避難生活は変わらないでしょ? どこも違わないでしょ?」
「でも、修学旅行の夜みたいなのとは、全然違うよ」
「ああ、やっぱりそうだよね。修学旅行は帰る日決まってるもんね。でも避難生活って決まってないもんね。どうなれば帰れるかは想像できるけど、それがいつそうなるかはわからないよね。いつまでもそうならないかもしれないし、帰るところが来たところと一緒じゃないことだってあるし。――あ、これわたし、由惟さんのこと傷つけてる感じ? 無神経なこと言ってる感じ?」
「無神経かもしれないけど、わたしはどこに帰るんだろう…て今ちょっとそう思った」
「帰らない避難生活もあるよね。避難生活が終わったとき、もう帰るステージは越えちゃってて、どこかに行くことになるみたいな。わたしが期待してるのはそっちみたいな気がする。わたしたちもう十七歳だし、避難生活がちょっと長引いたら、もう帰るんじゃなくて、どこか行くんだよね。そういうのっていいなあ…て思って。いいなあ…て言うか、そういうのでもないとダメだよなあ…て言うか」
「吹雪さん、やっぱりなにか知ってる?」
「知らないよ。彩ちゃんそういうの他人に言ったりしないよ。それに事情は知らなくていいの。聞けば由惟さんに心を寄せちゃうでしょ? でもわたしにできることたぶんなんにもないし、そこは彩ちゃんがもうやってるわけだし、だからわたしのはただのお節介で、ただの好奇心」
「なんだかよくわからないんだけど……」
「ああ、やっぱりここにいた! 神隠しみたいに消えないでよ!」
 放課後のカフェテリアには、カフェテリアといっても学校がそう名付けているだけで実態はただの食堂なのだが、そこここに漫然とおしゃべりしているだけの生徒たちがいて、大半は帰りたくないわけではなく、単にすることのない女生徒たちなのだが、みんなが一斉に振り返ると、声の方向に向かい、物理的な空気までもがサッと流れるようだった。
「あれ? 佐藤由惟?」
 平木さんは恐らく、吹雪さんの向かいに座っているのは彩香に違いない、と思って歩み寄ったのだろう。テーブルのすぐそばにやってくるまで気がつかないほど、ほかの可能性を考えていなかったらしい。一瞬立ち止まり、だからといって踵を返すような人ではなく、吹雪さんの隣りにドサッという感じで、その大柄でゴージャスな身体を投げ出すように座った。
「なんで佐藤由惟イジメてんの?」
 うん、やっぱりそう見えるよね……。
「イジメてるんじゃないよ。ね、由惟さん?」
「若干イジメられてる感あるけど」
「なんか茉央にイジメられるようなことした?」
「う~ん……あ、そっか。わたしが彩ちゃん盗っちゃったから?」
「彩香はいま瀬尾の持ちもんでしょ」
「瀬尾くん帰ったあと今はわたしが独り占めしてるの」
「へえ、バイってやつ?」
「いやそういう意味では……」
「由惟さん今ね、彩ちゃんと一緒に暮らしてるんだよ」
「マジで? じゃあ瀬尾のあと夜は佐藤と? 絶倫だねえ」
「だからそういう意味では……」
「家の建て替え始めたとか、そんな感じ?」
「ちょっと違う」
「由惟さんは帰るところを探してるんだよ」
「帰るとこなくなったんだ。じゃあ月曜に話してたのはそれだ。愁傷様。――あ、もしかして御同慶の至りのほう?」
「そう、そう。瑠衣ちゃんだって避難生活したいでしょ?」
「わたしは不便で寒いのは無理」
「ああ、わたしもそれムリかもお」
「あそこは不便で寒いよ」
「瑠衣ちゃんちと同じだ」
「茉央んちともね」
 この二人はなにも知らない、なにも聞いていない、彩香は話していない。当たり前だと思いながら、何故か今の会話から、そう確信できたことにホッとしていた。没交渉と行ってもいい桃井家と佐藤家の姉妹(わたしたちの母親)だけれど、ぽつぽつと事情は耳に入ってくる。それらを繋ぎ合わせることで、状況を読み解くこともできる。従兄が遠く離れた中国地方の大学に行ったこと、彩香が中学受験に落ちたこと、従兄が関西で就職したこと、そのあいだのいつだったか、叔母が自分で立ち上げた会社を大きな上場企業の関連会社に売り払ったという話も耳にしたことがある。たぶんその時期に重なる頃だ――叔母がまったく家に帰っておらず、見かねた母が彩香をうちに呼び、確か二、三週間くらいのことだったと思うのだが、わたしの部屋で一緒に寝た。制服が二つ下がっている情景が記憶にあるから、わたしたちが中学生になってからだ。学校にどんな説明をしたのか知らないけれど、なにしろ彩香は電車に乗って公立中学に通っていたはずで、しかし事情を汲み取ることのできないわたしは、たぶん事情を汲み取ろうなんてことは考えもせず、彩香が部屋にいる景色の特別感に浮かされて、それこそ修学旅行の夜みたいに愉しかった。――そうか。そんなこんなを今急に思い出したけど、あれがあってのこれという話なのだ。いや、これら、という話なのだ。わたしがいま彩香のマンションから通っている事実と、それを吹雪さんと平木さんが明らかに読み間違えて、我田引水的にミスリードしている現実と。
 ……あ、いや、これを都合のいいミスリードだって言い切れるの? あのときは親が帰ってこなくなってしまった彩香を引き取ったのに、わたしは実家から離されて女子高生二人の奇妙な環境に移されてるのに? この四日間、今の今まで怪しむことなく過ごしているわたしこそ、バカでおめでたい? ふつうなら家を出て行くべきは弟のほうじゃない? あそこに至るまでのいきさつを知らないはずの母が、どうしてわたしのほうを叔母の家に預けたの? 母は知ってる? わたしがなにをしていたか、わたしが弟にどんなことを許していたか、母は――そうだ――母は知っている!
「え、佐藤、どうした?」
 平木さんがテーブルに腕をつき、わたしの顔を間近に覗き込んだ。
「由惟さん、具合悪い? 顔、真っ白だよ?」
「茉央ヤバい! これ貧血で倒れるやつ!」
「瑠衣ちゃんそばにいて。わたし先生呼んでくる……」
 最後に吹雪さんが恐らくそう言ったのだろうと思われるのは、わたしが保健室のベッドに運ばれた結果からの推察である。完全に意識を失う手前で踏みとどまってはいたもの、貧血というのは要するに充分な血液(要するに酸素)が脳に届かなくなって、意識とか自我とか呼ばれる不可思議な現象が、通信の状態が不安定なテレビみたいになる。映像が歪んだり止まったり、音声が途切れたり雑音が紛れたりするやつだ。我が家のテレビがそんな具合になった記憶はない。ドラマや映画でそんなシーンを目にしている。わたしの意識もそんなふうになりながら、意識がそんなふうになっていることを自覚しつつ、保健室に運ばれて行った。カフェテリアから保健室への道行を憶えている。周囲の生徒たちのざわめきを憶えている。ああ、わたしはいま衆目に注視されながら保健室に導かれているのだ、なんて恥ずかしい…と思っていたことを。
「彩香つかまった。念のためタクシー使おうっか?」
「瑠衣ちゃんも時間あるの?」
「一緒に行くよ。彩香がてんで役立たずかもしれない」
「しっかりしてそうに見える子にありがちだね」
「こういうとき大人がいないのって厄介だよねえ」
「もしかして由惟さんち行ったほうがいいのかな?」
「ダメ!」
 二人の身体をビクッと震わせて振り向かせるに足る、大きな声になってしまった。すぐに、なぜ?と尋ねられたらどうしよう…という思いに緊張が走った。けれども、平木さんが思いがけないくらいに優しく美しい笑みを浮かべてくれたので、わたしは救われた。
「わかった。彩香の家に行こう」
「ごめんね、由惟さん、大丈夫だよ」
「上野先生、タクシー呼んでもらっていい? ちゃんと送り届けるからさ」
 正直、もうそこまで心配してもらう必要がないことは、恐らく平木さんも吹雪さんも、もちろんわたしもわかっていた。ただ、うまく説明できないのだが、わたしはこの二人とまだ離れたくなかっし、それに、彩香と二人きりになるのが怖かった。この二人がいるところで、彩香が親族に関わる話を口にすることはないだろうから、裏側の真実を知るまでの時間を先延ばしできる。たぶん、そんな計算もした。先延ばしできれば、知らないままに終わらせる可能性だって高められるはずだ。当たり前の話だが、真実は白日の下にさらされる運命を、その基本的な属性として持ってはいない。当事者に知られる/知られないとは無関係に、真実はそのままに存在し得る。この世界の救いと言っていい。
 タクシーの後部座席には、いちばん奥にわたしが、中央に吹雪さんが、手前に平木さんが座った。乗車中、吹雪さんはずっとわたしの左腕を抱き、それも自分の右腕をわたしの脇の下に深く差し込んで、だからどちらがどちらを抱え込んでいるのか、わからないような具合になった。それに、吹雪さんはすごくいい匂いがした。甘さの中に、僅かに柑橘系を感じさせる匂いだ。わたしは陶然とした。もしかすると、わたしたちが身体をぴったりとくっつけていたせいで、熱が香りを強めたのもしれない。
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