§13 11/05 拾ってくれる神様(5)

文字数 5,612文字

 教室の空気がおかしい…と言い出したのは、彩香だった。授業が終わり、図書室に向かおうとするところを引き留められた。瀬尾くんは教室を飛び出すと、すぐに日浦くんを連れて戻った。廊下でちょうどすれ違ったとかで、紀平さんも巻き添えになった。教室にはまだ半数ばかりの生徒が残っている。そこに、彩香が呼んでいたらしい吹雪さんと、誰が呼んでいたのかわからない茶山くんまでもが顔をそろえてしまい、幾人かの生徒たちが、何事だろう…と帰宅や部活へ急ぐ足を止めた。
「女帝の顔が見えないね?」
 彩香の周りに参集した面々が、思い思いに近くの椅子や机の上に座ったところで、わたしの隣りに座る日浦くんが皮肉っぽい調子で、最初に口を開いた。
「瑠衣ちゃん今日お休みなの。女の子の日が始まっちゃって。瑠衣ちゃんいつも重たいんだよね。すごい貧血で動けなくなっちゃうんだよ」
「へえ、そんな弱点があったとは驚きだなあ」
「それよりなんなの? これどういうメンツ? 瀬尾くんさ、わたしなんで連れて来られたかわからないんだけど、誰が説明してくれるの?」
 ただひとり、立ったまま座ろうとしない紀平さんが、不満気に瀬尾くんに詰め寄った。
「昨夜聞いたんだけど、この一週間でみんな由惟に絡んだでしょ?」
 彩香が順番に見回すと、お互いに顔を見合わせた。
「たぶん一昨日のカフェテリアであったことと、昨日のお昼にやっぱりカフェテリアで茶山・吹雪・紀平が絡んだのが問題なんじゃないかと思うんだけど――由惟が、このメンツ以外から無視されてる。それもかなりあからさまに、わざと目の前を通りながら、そっぽ向くようなことをされてる。由惟はずっとニュートラルなポジションにいたはずなんだけど。雨野が現れるまでは」
 いきなり飛び出した名前に、彩香の視線の先を追うと、いつの間にか雨野くんが、吹雪さんのすぐ後ろに立っていた。みんなすぐに結城さんを探した。結城さんは、案の定と言おうか、期待を裏切らず、自席に座ったまま本を読んでいる。
「桃井さん、自分をカウントし忘れてない? 吹雪さんと平木さんも、瀬尾くんがいるのだって、要は桃井さんでしょ? 奎ちゃんだってそれに巻き込まれてるのよね? 茶山くんはなんだか知らないけどさ」
「奎ちゃんて誰?」
「あ、俺」
「え、日浦おまえ二股かけてんの? 悪いやつだねえ」
「桃井さんが言いたいのはさ、由惟さんがいきなり癖の強い連中に引っ張られたことを、多くの人間がおもしろくないと感じている、そういう話だよね?」
 妙に冷静に言うものだから、誰もが一瞬、雨野くんの顔をじっと見てしまった。
「始まりはやっぱり由惟さんが桃井さんの家から通い始めたことだと思うなあ。それもうみんな知ってることだし、そこに吹雪さんと平木さんが絡んでることも、日浦くんが絡んでることも、たぶんすでに公の事実だよ」
「癖の強い連中って誰のこと言ってる?」
「里美を筆頭にするこのメンツ、てことだろうなあ」
「なんでわたしが筆頭!?
「そこは誰にも異存なかろうよ」
 みんな紀平さんと目を合わせないようにしながら、しかし、同意を示すサインとして、口の端っこだけでニヤニヤしている。紀平さんは、それこそ苦虫を嚙み潰したような顔で、なぜか茶山くんを一睨みし、慌てた茶山くんに椅子を空けさせると、ぞんざいに腕と足を組み、以降、日浦くんを睨み続ける体勢に移った。
「で、桃井さんはどうしたいわけ?」
「エスカレートさせたくない」
「それって首謀者がいるのか?」
「細田と向井じゃね?」
「あいつらには無理でしょ」
「じゃあ "Stand Alone Complex" てやつか」
「なにそれ?」
「オリジナル無きコピーの群れ」
「オリジナル無いのにコピーなんてどうやるの?」
「あくまでも現象として集団行動みたいに見えるって話だよ。相互に影響し合ううちに行動様式が似通ってくるわけ」
「じゃあ潜在的にみんな由惟さんのこと好きじゃなかったってこと?」
「潜在性は要らないんだ。集団生活する人間の特性と、ネットワーク機能が持つ特性が繋がって起こる。そういう理解でいいと思う」
「ああ、わかった。そのきっかけが最近いくつも重なっちゃった、て話だね。むしろ由惟さんのこと好きだからそうなっちゃうんだ」
「へえ、提督って思いがけず賢いのな」
「日浦くんて失礼だよね!」
「だけど桃井さ、そんなのどうやって逆回転させんの?」
「逆回転まではいいの。加速しなければいい」
「まあ、そうだよな。別に由惟ちゃん孤立したわけじゃないんだし。こうして僕らがいるわけだしさ」
「しかしその俺たちが問題なわけでしょ? なんか堂々巡りしてるね。――里美、なんかアイデア出ない?」
 自分を睨みつけている人間に投げかけるのだから、日浦くんと紀平さんとは本当に長い付き合いであることが、そこからも窺える。わたしは率直に妬ましく思った。
「雨野くんが言った通りなんじゃない? なにがあったか知らないけど、これって時限爆弾ゲームと一緒よ。佐藤さんが桃井さんの家から通ってる異常事態が解消されない限り、誰かが必ずボールを手にすることになる。だけどボールは決して爆発しない。時間切れ以外に終了条件がない。桃井さん、そうなんでしょ?」
「時間切れ以外に終了条件がないっていうの、わたしと彩ちゃんみたい」
「決して爆発しないのだって、みんな同じじゃないの?」
「そうかもねえ。みんなお勉強のできるいい子ちゃんだもんねえ」
「じゃあ、取り敢えず日浦が白旗上げるまで日浦預かりってことでいい? 僕たちは二人が不条理な扱いを受けることのないよう監視を怠らず、最大限に力添えをする」
「瀬尾くんさ、現状踏襲って言ってるだけよ、それ」
「そんなことはないと思うよ。俺たちが今どんなゲームに関わっているか、紀平さんが明らかにしてくれた。俺たちは進行中の現状を、当事者として共有することができた。世界は百八十度転回されたと思うけどね。桃井さんがしたかったのはそういうことだろう?」
 なるほど、雨野くんがあっという間にクラスの人心を掌握してしまったことの片鱗を垣間見る思いだ。……などと、わたしはつい先週まで雨野くんへの恋心をこじらせていたはずなのに、今も感心はするが、もう昂揚はしない。不思議なことだ。
 この場は最初からずっとわたしの問題が議論されているはずなのに、わたしはまるで「佐藤由惟の問題」を傍聴しているような感覚の中にいた。誰もわたしの意見を尋ねようとしないから、なのかもしれない。もしかするとこれは「佐藤由惟の問題」なのではなく、「桃井彩香の問題」なのではないか?などと考えてしまう。もちろん、わたしに意見を求めても意味がないと思うから、誰も尋ねようとしないのだ。彩香が投げかけたのは雨野くんの言う通り、わたしを除く彼らが現在どのような状況内にあり、今後どのように振る舞うべきかに限られる。「佐藤由惟の問題」は、残念なことに、みんなと共有されるわけにはいかない。みんなで共有することのできない、みんなで共有されては困る問題だから。
 雨野くんの巧みなまとめを受け、彩香がみんなに「ありがとう」と言ったところで、公式には、この場はお開きとなった。それでもなんだかとても珍しい人たちが集まったせいか、みんなすぐには散っていかない。吹雪さんは瀬尾くんと茶山くんとおしゃべりをしているし(今度は茶山くんの送別会でも企画されるのだろうか?)、雨野くんは紀平さんとおしゃべりをしているし(頭のいい二人の話題は見当もつかない)、日浦くんは彩香とおしゃべりをしている(ここは間違いなくわたしの問題の続きだ)。
 気がつけば、わたしたち以外の生徒たちの大半が、すでに教室をあとにしていた。けれど、振り返るとまだ細田と向井がいて、目が合った。彩香の家に避難(隔離)されて以降、この二人とはおしゃべりをしなくなっている。わたしは彩香の手によって細田と向井から引き剥がされ、雨野くんの言う「癖の強い連中」のほうに引き入れられた。どちらが幸せだったのか、正直ちょっとわからない。彩香の家から通うようになったこの十日間は、あまりに目まぐるしく、あまりに刺激が強すぎて、わたしは評価能力を失っている。もちろんあのままでいれば、わたしは日浦くんとの接点を、もし仮に接触があったとしても、維持・発展させることはできなかった。そこだけを拾ってみれば、今のほうが幸せだ。
 けれども、わたしの世界がそこのみで完結しないのは、言うまでもない。すぐ隣りでおしゃべりをしている日浦くんと彩香のことは、まあいい。しかし、細田と向井から改めて向き直ってみれば、この人たちがついさっきまで、わたしをめぐる問題を議論してくれていたのだとは、とても信じ難い気分になる。そもそも「佐藤由惟の問題」なんて、彼らが起こしたようなものだ。わたしの真の問題は家庭内に、せいぜい親族内に閉じていたはずで、学校での扱われ方にまで影響するはずはなかった。確かに彩香は従姉妹なわけだけれど、瀬尾くんとの逢瀬を邪魔することのないよう配慮して暮らすのは、親族でなくても当然だろう。彩香だって、平木さんや吹雪さんとわたしたちの問題を共有する考えなど、当初は微塵もなかったと言っていい。どこかでうっかり曲がり角を間違えてしまった。そうしたら思わぬ歯車が嚙み合ってしまった。たぶん、そんな感じのところに、わたしはいま立っている。
「由惟ちゃん、今日は一緒に帰れるけど、どうする?」
 ぼんやりしていたわたしの視界に、ひらひらと彩香の手が割り込んできた。
「日浦とデートして帰ってきてもいいけど」
「あ~、う~ん、どうしよう……」
「彩ちゃん! 茶山くんの送別会やるんだけど、一緒に行かない?」
 と、そこに吹雪さんが勢いよく飛び込んできた。やはりその話だったらしい。
「行かない」
「ええ~! 瀬尾くんの時すっごく楽しかったでしょ? また瑠衣ちゃんと三人でお招きされようよお」
「瀬尾くんのはわたし主賓だから。瑠衣と二人で適当に盛り上げればいいじゃない」
「酷~い。三人そろってないと、茶山くん可哀そうだよ」
「そういうお仕事にわたしをカウントするのやめてくれない?」
「お仕事? これってお仕事なの?」
「学内コンパニオン派遣業みたいなもんでしょ」
 澄ました顔で突き放す彩香の言葉に、日浦くんがクツクツと笑っている。吹雪さんのすぐ後ろには、瀬尾くんと茶山くんもやってきた。
「桃井はノーだろ?」
「瀬尾くん聞いてよ。彩ちゃん酷いんだよ、わたしたちのことコンパニオンとか言うんだよ!」
「あれ? 違うの?」
「お金もらってないもん」
「タダ飯食ったでしょ?」
「あれ美味しかったねえ、豚肉と白菜のミルフィーユみたいなやつ。あ、茶山くんの送別会もあそこでする?」
「言っとくけど、まだ発注されてないからね?」
「え、よそに発注する可能性もあるの?」
 そう言えば、平木さんと吹雪さんではあまりにも煌びやかさが過ぎて、バレー部男子はちっとも楽しめなかったと瀬尾くんが言っていたのを思い出す。陸上部はどうなのだろう? 茶山くんはなにしろスーパースターだから、陸上部は男女合同で送別会を催すのではないか? でもそう考えてみると、瀬尾くんの送別会は謎だ。瀬尾くんはカッコいい男子を代表する一人なのに、平木さんと吹雪さんが呼ばれるなんて。バレー部は男女の仲が悪い? もしかしてこの秋の予選会で男子バレー部が大敗したという茶山くんの話も、その辺と関係する? あるいは瀬尾くんを彩香が獲ってしまったから?
「さ、由惟ちゃん、帰ろ」
 今日は一緒に帰ると答えてはいないのだが、場の空気はここで散会したほうがよさそうだった。彩香もそう思ったのだろうし、わたしもそんな気がした。紀平さんは先に一人で引き上げたようだし、雨野くんは結城さんの机で笑っているし、細田と向井もいつの間にか姿を消している。クラスの違う日浦くんと吹雪さんと茶山くんとは校門で待ち合わせることにして、彩香と瀬尾くんと教室を出た。雨野くんは出て行くわたしたちに手を振ったけれど、結城さんはわたしたちなど存在しないかのようにしゃべっている。ここまで徹底して周囲へのコンタクトを断ち切ってしまう結城さんと、この夏、品川のネカフェでおしゃべりしたり、有楽町で洋服を買ったりした記憶が、幻のように思えてならない。
 彩香と吹雪さんと女の子三人が前を歩き、日浦くんと瀬尾くんと茶山くんの男の子三人が後ろを歩く。一昨日の祝日のカフェテリアでもそうだったけれど、瀬尾くんと茶山くんはとにかく仲がいい。ところが日浦くんもまた、この秋で退部する(した)運動部のスターたちと仲良しであるらしいことが、わたしにはうまく呑み込めない。どうしてそうなるのか、日浦くんに尋ねてみようかと思いながらも、どことなく気後れがする。わたしはこの人たちと一緒にいていいのだろうか…なんて考えが、たぶんさっき教室で細田と向井の視線にぶつかったせいで、ふと頭をもたげてくる。つまらない、くだらない考えだ。
 歩き始めた六人は、地下鉄に降りる際にふたつに割れ、乗換駅でまたふたつに割れて、最後は久しぶりに彩香と二人きりになった。昨夜、食事を終えたあと、確かに事情聴取を受けた。この一週間の出来事、出会った人間の名前を、彩香に尋ねられた。わたしは気づいていなかった。言われてみて初めて思い当たった。わたしは密かに孤立しかけている。彩香のマンションで暮らし、日浦くんと放課後や休日を過ごし、自分の身に起こっている現実を忘れそうになっているあいだに、それは進行していた。つまらない、くだらない不安をわたしに抱かせるのは、たぶんそれだ。わたしはもしかすると近いうちに、依るべき場所を完全に失ってしまうのではないか? ……そんな不安が頭をもたげてくる。
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