§11 11/03 拾ってくれる神様(3)

文字数 5,536文字

 日浦くんの忠告を無視してしまったのは、朝から素晴らしくよく晴れていたからで、陸上部の練習が始まっていたからで、廊下に人影がまったくなかったからで、しかしそれよりもなによりも、日浦くんが約束の時間に遅刻してきたからだった。
 カウンターには例の男子が座っており、またもじっとりと湿った感じの目で見られた。気分を切り替えたくて、いつもの閲覧席に座ったわたしは、本は机の上に置いたまま少し身を乗り出し、この距離からであればちっとも怖さを感じさせない、大きくて速い茶山くんを眺めた。窓を通り抜ける晩秋の陽射しは眩しく暖かく、わたしはすぐに制服の上着を脱いだ。
 陸上部の練習は校舎に近いところに集まるので、椅子をいっぱいに引き寄せて、机の前のほうに頬杖をついたほうがよく見える。窓に向いて並んだ書架の奥にある閲覧席の、わたしは右端に座り、右手は柱で、左手に座るべき男の子は遅刻している。
 気配とは音の変化――より正確に言えば、空気中を伝う音の流れ具合の変化だ。人の耳はほぼ360度をカバーできる器官であり、どこへ意識を向けていようとも、聴覚は360度の音の変化を拾い、視覚の外側で起きていることを教えてくれる。
 窓に向かって座るわたしからは、右手は端から直角に延びる書架で塞がれている。左手は閲覧席が並ぶ窓辺の空間だ。背後には窓と平行に書架が並ぶ。だから窓側の書架は日焼けが激しい。恐らくそのために、安価な文庫本を収めているのだろう。
 つまり、書架の奥のこの閲覧席へは、窓に対して平行に並ぶ書架を、左右いずれかから回り込むことになる。閲覧席の右端に座るわたしのすぐ後ろに現れるか、離れた左端のほうに現れるか――日浦くんはいつも真後ろから現れて声をかけてくる。
 だから、わたしの無意識が離れた左手に感じ取った気配を、わたしは無意識のうちに日浦くんではないと断定し、それを無視して窓の下の陸上部を眺め続けたのかもしれない。しかし、椅子を引く音も、書架で本を抜き差しする音もしなかったのだから、すぐに違和感を覚えていいはずでもあった。運悪く、ちょうど茶山くんがいつものダッシュを始めてしまったのも、たぶんいけなかったのだろう。わたしは夢中になってしまい、いくらか腰を浮かせて前に身を乗り出していたのだ。
 スマートフォンについているカメラ機能では、防犯上の観点から、利用者がシャッター音を切る設定ができないと、どこかで聞いたか読んだかした記憶がある。けれども、ビデオであれば、音の届かない遠くから撮影を始めることで、これを回避されてしまう。
 わたしと日浦くんが図書室から見ていることを、茶山くんは承知している。だからかどうかわからないけれど、ふとこちらを見上げたものだから、わたしはギョッとして身を引き、尻もちをつくように、乗り出していた体を椅子に落とした。――スマートフォンを構える男子が、左手にしゃがみ込んでいた。突然わたしが動いたものだから、その男子もまた尻もちをついたらしい。
 悲鳴は脊髄反射的には上がらない。感性がスマートフォンを構える男子の存在を把握し、悟性がスマートフォンで撮影されていた事態を理解し、理性が助けを呼ぶ(または相手を驚かせる)必要性を判断したそのあとで、悲鳴というのは発せられるのだ。
 わたしは言ってみれば悟性の段階でフリーズしてしまった。その男子もまた同じ段階から抜け出せなくなっているようだった。膠着状態を破ったのは、遅刻してきた日浦くんである。都合のいい偶然ではない。日浦くんにはわたしとの約束があって、その時間に遅刻していたのだから、必然的にそこに現れることになる。男子生徒がすぐに逃げ出していれば、あまり欲をかかずに引き取っていれば、きっと難は避けられた。
「栗林、てめえ!」
 わたしの真後ろに現れた日浦くんは、状況を速やかに理解したらしい。そうだろう、なにしろ栗林と呼ばれた男子は――いつもカウンターに座っている男だ――胸の前にスマートフォンを構えた姿勢のまま、腰が抜けたように床に尻もちをついていたのだから。
 素早く振り上げた日浦くんの足が距離を詰め、慌てて腰を上げかけた栗林くんを、スマートフォンごと後方に吹き飛ばした。二人の体重が床を叩く音に続けて、スマートフォンが後ろの壁にぶつかる音が響いた。日浦くんは仰向けに倒れた栗林くんを跳び越えて、スマートフォンを拾い上げるとすぐにまた栗林くんを跳び越え、わたしの前に立った。
「一緒に職員室に来い!」
「ダメ!」
 わたしは日浦くんの腕に縋りついていた。振り返った日浦くんが驚きに目を見開いている。当然そうだろうとは思う。しかし、これを職員室に持って行くのはダメだ。それはわたしが耐え難い。日浦くんに想像できないのは仕方のないことだ。
「……いや、佐藤、でもこれ――」
「先生が見るでしょ。なにが映ってるかわかるよね。それ先生も見るでしょ。見られる先生を限定できないでしょ。そんなの、嫌だよ……」
 呆然とわたしを見つめる日浦くんに、蹴り飛ばされて目が覚めた栗林くんは、隙ができたと思ったのかもしれない。けれども、掴みかかろうとしてきた栗林くんを、日浦くんはわたしを見つめたままの姿勢で、ふたたび豪快に蹴り倒した。栗林くんはそこでもう観念したのか、床に座り込んだまま、首をうなだれてしまった。
 日浦くんは理解力が高い。こうしてわたしが言葉にすれば、その裏側の意味を速やかに理解してくれる。わたしの手を腕から離し、ディスプレイがわたしからは見えないところまで下がり、まだスマートフォンにはロックがかかっていなかったのだろう、たぶん今撮っていた映像を、あるいはこれまでに取り溜めていたのもあったようで、それらをその場で削除すると、蹴り倒されたまま見上げる栗林くんに顔を向けた。
「バックアップは?」
 栗林くんが首を振る。
「本当だな?」
 栗林くんが激しく頷く。
「次は迷わず警察に持ち込むぞ」
 放り投げられたスマートフォンを受け取り損ね、慌てて拾い上げ、栗林くんは床を這うように、書架の向こうに消えた。
 日浦くんが隣りの椅子を引く。わたしは泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
「俺がどんなものを削除したか、聞きたい?」
 わたしは首を横に振った。
「オーケー。俺も忘れる。もう忘れた。栗林の言うことが本当なら、これですべてなかったことになる。それでいい?」
 わたしはひとつ大きく頷いてから、日浦くんを見つめた。
「どうしてあんなことができるの?」
「あんなこと?」
「大人と子供の喧嘩みたいだった」
「ああ、そいつには双方向からの説明が必要だね。俺はチビの頃からずっとテコンドーをやってる。栗林は校庭を一周したくらいで立ち上がれなくなる。それとこれとが出会うとああした状況が現れる。Do you understand what I mean?」
「うふふ」
 十一月三日は晴れの特異日である。そして日浦くんの英語の発音はやけに響きがいい。十二歳までバークリーで育ったと言われても信じてしまいそうなほど。バークリーに特別の意味はない。今ちょっと思いついただけ。
「だけど佐藤さ、ひとつだけ、ひとつだけ教えてほしい」
「なに?」
「どうして教師はダメなんだ?」
 日浦くんは、わたしの期待に反し、わたしの言葉の裏側を、理解できていなかったのか?
「それ、全然わからない?」
「わからない」
「想像もできない?」
「嫌な想像ならできる」
「たぶん、それが正解だよ」
 一瞬息を呑み、膝の上で、グッとこぶしを握り締めた。せっかく「うふふ」などと笑うことができたのに、日浦くんのこぶしを目にした途端、涙が文字通り堰を切ったように、ぼろぼろと零れ落ちた。仕方なく、そんなことはしたくないのだけれど、しかし女の子は泣き顔を見せてはいけないので、なぜならよくないことが起こるから、だからそんなことは本当にしたくないのだけれど、わたしは机に突っ伏して、見せてはいけない泣き顔を腕の中に隠した。
 わたしは矛盾したことを思う。日浦くんの腕は、どうして泣いているわたしの肩を、いまここで抱きしめてくれないのだろうか…と。しかし矛盾したことではないとも思う。たとえば栗林くんが、じっとりと目で追うのではなく、そっと話しかけてくれていれば、この世界は違う景色になっていたかもしれない。だけどそうはならなかった。そうならなかったのはわたしがいけないのだろうか? 日浦くんの眼差しと、栗林くんの眼差しは、どこがどう違うというのだろうか? いま日浦くんは、きっとわたしを見ているのに、同じわたしを見ているのに、それとこれとは、どうして違ってしまうのだろうか?
 わたしの涙はさほど長くは零れずにとまる。手のひらで頬を拭いながら顔を上げると、日浦くんは同じ格好をしたままに、わたしを待っている。膝の上で握ったこぶしが、微かに震えている。わたしは両手を伸ばし、それを拾い上げる。けれども日浦くんは、慌てて腕を引っ込めてしまう。わたしが首を傾げると、日浦くんが首を横に振る。わたしが伸ばした手と、日浦くんが引っ込めた腕が、それぞれの前の中空で、落ち着き場所を探って交錯する。
「俺は、佐藤を好きになっては、いけない」
「どうして?」
「女帝と、提督と、そう約束した」
「あの人たちにそんな権限があるの?」
「たぶん」
「それは剝奪できないものなの?」
「できる」
「どうすればできるの?」
「佐藤が、桃井の家を出ればいい」
「そしたらわたし、帰る場所がない」
「帰る場所は、作ればいい」
「どうやって?」
「俺は大学を出て建築士になるよ」
「遠いお話しだね」
「今から少しずつ材料を集めれば、それはもう始まっているのと同じだ」
「日浦くん、やっぱり腕を出して」
「いや、それは――」
「今から少しずつ始めないといけないんでしょ?」
 日浦くんの腕が、恐る恐る、まさに恐れながら、ゆっくりと差し出される。わたしの手が、慎重に、怯えさせないように、その腕をつかむ。これは同じことではない。わたしの中で誰かが言い訳を口にする。日浦くんの腕は、思いがけず太く、硬い。わたしはその腕を引き寄せて、わたしの両脇から、胸の外側から、わたしの乳房に触れさせる。日浦くんの腕が逃げ出そうとする。わたしは取り押さえようとする。力の差は歴然で、だから、日浦くんが力を抜くほかにない。わたしは弟の手も、窓の外の眼差しも思い出さない。ただ日浦くんの腕の感触を、乳房の両脇で拾い上げるだけだ。
「これがわたしのほうの始まりの儀式。日浦くんの手で作り直してほしい」
「佐藤は、それでいいの?」
「日浦くんこそ、はっきりして」
「わかった。――女帝と提督との約束は反故にする」
「嬉しい……」
 言葉の意味を汲み、誤字脱字誤用がないかを確かめるための時間が、少しだけかかる。わたしが椅子を寄せようとしたところ、日浦くんの強い腕の力で、いっぺんに距離が縮まる。反動で椅子から腰が上がり、わたしたちは中腰のまま、初めての抱擁が、割れやすいものが毀れたりしないように気をつけて、静かに始まる。互いに腕を引き寄せれば、胸と胸とが重なる。きっと栗林くんが欲していたであろう胸を、わたしは惜しげもなく日浦くんに与える。中腰の、不格好な姿勢のまま、わたしたちは十一月の始めの明るく柔らかな陽射しを、重ねた胸と胸のあいだに呼び込むのだ。
 日浦くんはあくまでも紳士的に、本場の紳士がそうであるかは知らないけれど、ゆっくりと慎重に、きっとわたしを驚かせることのないよう配慮して、不安定な姿勢から腰を伸ばす。平均的な背丈と頭身バランスの日浦くんと、平均的な背丈と頭身バランスのわたしには、全体として十センチ余りの、だから形而下ではたぶん五センチ余り、高さの違いある。わたしはそれを、日浦くんの硬くて熱いものが、遠慮がちに子宮を探るポイントで知る。痴漢はいつも後ろからだったから、初めて下腹部で受け止めるのが日浦くんのそれであることに、そのことの幸いを、感謝したい思いでいっぱいになる。
 わたしはそこから、日浦くんの悦びと戸惑いを、日浦くんの遠慮がちな欲動を、沁みるように受け取るのだ。そして背中に回した腕を、わたしのほうから腰の辺りへ降ろしていいものなのか、躊躇いとの葛藤が始まる。たぶん日浦くんにも、どうしたって当たってしまうことに、当たらないよう腰を引くことが、この場では滑稽であることに、やはり躊躇いとの葛藤が始まっている。日浦くんのほうから乗り越えてきたら、わたしが逃げ出してしまうことを恐れて。そうであるとすれば、その推論が正しいのであれば、わたしのほうで腕の位置を降ろさなければいけないのだろう。そしてわたしは決意する。
 日浦くんの悦びと戸惑いが、驚きと悦びの組み合わせへと転じる瞬間を、わたしが嬉しく思うことに、わたしにも驚きと悦びが生じる。さっきからわたしたちは互いの目を見ていない。とても恥ずかしくて見られないから、胸を合わせたところから、顔は相手の肩の向こうを見ている。わたしは首をそっと傾ける。日浦くんもそれに応じ、耳と耳とが、頬と頬とが、激しい脈動を交換する。どこで終わりにすればいいのかわからない。図書室で可能なことの境界は理解できる。けれども今はどこで終わりにするのが正解なのか、もう充分なのか、まだ足りないように感じるので、わからなくなる。
 けれども今は間近で顔を見られるのは恥ずかしい。泣いたばかりだから。泣いた頬を手のひらで拭っただけだから。わたしは理由を見つける。今はこのままでいい。このままで充分だ。このままで幸せだ。それは日浦くんにも伝わる。きっと伝わっている。
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