§14 11/07 拾ってくれる神様(6)

文字数 5,294文字

 昨日も九時半から十六時まで日浦くんと図書室で過ごし(五回くらい書架の奥で抱き合った)、夜は彩香と新宿のネカフェのシアタールームに入った。先週は『ジョゼと虎と魚たち』、昨日は『海街diary』を観た。特にこれと言って理由はない。邦画の実写で騒々しくないやつがいいね、という程度で決めた。鎌倉の四姉妹にわたしたちと平木さんと吹雪さんを割り当ててみようとし、誰一人としてまともに家事ができる人間がいないからすぐに破綻するという結論になった。鎌倉の古い民家がゴミ屋敷と化していく情景が、実現必至の未来予想図として思い浮かんだ。
 今日は降り出しそうな曇り空だったので、ほとんど往来もなくそれぞれの自室で過ごしている。叔母も義理の叔父も朝から出かけた。とにかく家にいない人たちで、また、二人きりでいない人たちだ。今日も違う時間に出かけた。午前中に『君は永遠にそいつらより若い』を読み終え、主人公の女子大学生が送る日常を、わたしを待っている大学生活のイメージに照らし合わせてみようとしたのだが、わたしの中にはまだ照らし合わせるほどのイメージがなく、来年には受験生になるはずなのに、まったくと言っていいくらい現実味がないことに、一人でたじろいだりした。
 午後、久しぶりに雨野くんから電話がかかってきた。ベッドに寝転がっていたわたしは、慌てて飛び降りると、椅子をベッドの向かい側の壁際まで引いてから、応答した。
「由惟さん、ひとり?」
「ドアの向こうの廊下の向こうに彩香がいるよ」
「そっか。桃井さんのところに行ってから初めて電話したのか」
 言われて思い出した。まさに前回こうして雨野くんが電話をかけてきたすぐあとに、今のこの生活の引き金となった事件が起きたのだった。
「住み心地はどう?」
「これまで古い商店街の中だったから、あんまり静かで驚いてる」
「ああ、そうかもね。俺も奈良の田舎からだったけど、やっぱりマンションの気密性の高い静かさって独特だな、て感じたよ」
「ねえ、そう言えばわたしちょっと不思議に感じてることがあって――」
「なに?」
「大したことじゃないんだけど、ほんとどうでもいいことなんだけど――」
「かまわないよ」
「男の子の一人称ってさ、いつ頃どんなふうに決まるの?」
「え、どういう意味?」
「あ、ほら、瀬尾くんて

って言うよね? 雨野くんは

って言うよね? なんかさ、瀬尾くんと雨野くんのイメージだと、反対のほうが合ってる気がするんだよね」
「なるほど。そう言えば瀬尾くん

って使うなあ。周り

のほうが少ないよね。瀬尾くんどうして

なんだろう? お兄さんがいるから、とか?」
「ああ、

のほうが押しが弱い感じあるね。でも瀬尾くんてすごい目立つし、むしろ押しが強いほうじゃない?」
「確かに瀬尾くんは目立つけど、そんなに押しの強いほうではないよ。どちらかと言えば、うっかり屋根の隅に追い込まれるタイプで、その上いつも先に梯子を外される。――と、本人がそう言ってた。これ、内緒ね」
 内緒話は困る。内容の如何にかかわらず、内緒だよ…との囁きは、いつもわたしを唆すから。部屋のドアは閉まっていて、けれども廊下を隔てたすぐそこに彩香がいて、物音も話し声も伝わりはしないのだけれど、彩香の気配は紛れもなくそこにあり、わたしの視界の正面には、すっかりわたしのものとなったベッドが横たわる。こじらせていた恋心は、もうわたしを昂揚させはしないとは言え、すっかり消え去ったわけではない。日浦くんの顔を思い浮かべると、どこか背徳的な誘惑は、廊下の向こうの彩香の気配とも相俟って、わたしを落ち着かなくさせるのだ。
 雨野くんの声は穏やかで、迷いがなく、わたしは初めて苛立ちを覚える。あれが僅か二週間前の出来事であったなんて、信じられない。わたしは音を立てないよう注意して椅子を立ち、能楽師のように摺り足で歩き、ドアのレバーを秒速5ミリメートルくらいでゆっくりと降ろした。わたしと彩香は平行いとこで、一卵性双生児みたいなテレパシーは使えないのだけれど、たまたまトイレにでも行こうとしていたのか、廊下で正面から鉢合わせた。わたしが小さく横に首を振りながら訴えると、彩香はわたしを部屋に押し戻し、大きな音を立ててドアをノックした。
「由惟ちゃん! もう出かけるよ!」
 それだけで充分であることを、彩香は理解している。わたしが雨野くんとの通話を終えるまで見届けてから、そのままドアを閉め、一人きりにしてくれる。悲しくはない。ただ、不安感は却って強くなる。もし、雨野くんが転校してこなければ…と考えて、そんな思いを追い払う方法を探す。すぐに日浦くんの声を思い浮べるが、電話では話したくない。たぶん日浦くんの声では抗し切れない。わたしは時計を見る。十四時を回ったところだ。
 ――いつもみたいに抱き合えるところで会いたい
 わたしのメッセージは数秒で既読になる。が、そこから数分間、じりじりと待たされる。この数分間にはもしかして、なにか意味があるのかもしれないと、ふと考え始めてしまいそうになったところで、石ころみたいな、雑草みたいな、いかにも日浦くんらしい、飾り気のないメッセージが届く。
 ――淡路町のネカフェ だな
 ――(笑)
 ――ネカフェなんだ(笑)
 ――俺の行きつけね
 ――(笑)(笑)
 ――淡路町のデカい交差点わかる?
 ――駅からてきとーに階段上がる
 ――オッケー それでいいよ
 大急ぎで身支度を終えると、彩香のドアをノックする。
「ちょっと出かけるね!」
「ご飯は?」
「ごめん。たぶん要らない」
「わかった。いってらっしゃい」
「うん、いってくる」
 きっと彩香はなにもかも承知しているのだと思うと、なんだか嬉しくなる。昨日、実家から追加の荷物が――冬物のセーターやコートなんかが――届いたので、今日はいつもより暖かい。少し暖かすぎるかも……。
 二週間ぶりに丸ノ内線に乗り換える。昨日の午後に届いたダンボール箱(たぶん商店街の洋品店とかで使っているものだ)に母からの手紙が入っていた。ボールペンで書いた、少し角張っていて、とめ・はね・はらいの力強い、懐かしい筆跡。
 高校には卒業するまで彩香のマンションから通いなさい。大学は東京から離れた街に選びなさい。――書かれている内容は、わたしを冷たく突き放す。恐らく弟は、今後の模試の結果の如何にかかわらず、わたしが通う高校を受験することはない。
 靖国通りと外堀通りが交叉する、大きな交差点へと階段を駆け上がり、横断歩道の端に立つ。すぐに電話をすればいいのだけれど、わたしのこの姿を見つけてほしい。……と、ちょうど斜向かいのコーナーで、男の子が飛び跳ねた。
 わたしたちは上下反対の方向からやってきたので、まったくの斜向かいに出てしまった。だから二人とも青信号を渡ると、ふたたび斜向かいになる。だから青信号を渡るのは、どちらか一方のみでなければならない。
 わたしが気づいたことを確かめて、男の子が走り出す。青信号はふたつ渡らなければならない。大きな交差点の信号はすぐには変わらない。男の子はジョギングを妨げられた人のように、苛立たし気にその場で跳ねている。
 信号が変わる。男の子が全力疾走で駆け寄ってきてくれるのは、なんと幸せな景色なのだろう! そして男の子というのは、なんと速く走る生き物なのだろう! あっという間に目の前に立ち、息を弾ませる日浦くんは、しかし顔を顰めた。
「ネカフェは真反対だぜ!」
 そんなこと知らないよ! 
 わたしは笑い出す。日浦くんもしかめっ面から破顔する。わたしは母からの手紙を破り捨てる。むろん頭の中で、しかし意図的に、紙吹雪みたいになるまで細かくちぎって投げる。一年後の今頃、進学校の三年生の秋を迎えているわたしと日浦くんは、その問題をめぐって言い争うかもしれない。だけどそれは、そのときはそのときだ、という話である。今はただ、一刻も早く抱き合いたい、抱き締めてもらいたい。
 日浦くんが走ってきた同じ横断歩道を、今度はゆっくりと歩く。一刻も早くと思うからこそ、ゆっくりと歩くのだ。だってもう約束された瞬間が、そこに待っているのだから。そうした瞬間は、少しばかりもったいぶって迎えるほうが、悦びは大きくなる。
 おしゃべりをしても迷惑にならない防音の個室を、日浦くんはあの後すぐに予約してくれたらしい。土曜日の夜を彩香と過ごす新宿西口のシアタールームより、壁も天井も白いせいか、ずいぶんと明るい部屋だ。バッグを脇に寄せ、コートを脱いでハンガーにかけると、いつもと違って、なんだか照れ臭かった。
 いつもは窓際の閲覧席から、足音を忍ばせて、書架の奥へと入り込む。どちらかが本を閉じると、呼応して二人そっと席を立つ。人目の届かない場所に着くまで、互いに目を合わせることはない。けれども今日は、先にメッセージを送っている。それも、いささか率直に過ぎるメッセージだ。日浦くんも照れ臭そうだ。
 わたしがフラットシートの上に膝立ちになると、日浦くんも同じように膝立ちになり、向かいからもぞもぞと膝歩きで、いつものように身体を寄せてくれた。……ああ、これだ! これを待っていたのだ! これを望んでいたのだ! 抱き寄せ、抱き締められる瞬間の、身体と身体のあいだには厳然と境界が、わたしと日浦くんの境界があるのだけれど、決してそれは無効化されはしないのだが、僅かな反発のあと、互いに埋没し合う感じ……。
 ところが、膝立ちの姿勢で抱き合うのは、なんとなく落ち着かない。どこがどう悪いのか、はっきりここと言い表せないのだけれど。それは日浦くんも同じだったようで、わたしたちは程なく身体を離し、首を傾げた。
「横になってみる?」
 クッションチェアを壁際に寄せ、フラットシートの上に空間をつくった。横になって向かい合い、片方の腕を相手の身体の下に滑り込ませてみる。……違う。これではない。それはすぐにわかる。どちらかが上にならなければいけないのだ。そこで、いつも書架を背にするのが日浦くんであることから、日浦くんが床を背にするように、わたしが上に乗ってみる。恥ずかしいけれど、上で身体を安定させるには、脚を開かなければならない。
「うぐぇ……」
 と、日浦くんが呻く。わたしは慌てて両手をつき、上体を起こす。
「あ、重い?」
「なんつって」
「もお、酷い」
 しかし、わたしたちは正解を見つけ出した。こうして重力に身を委ねると(重さは重力だよ、日浦くん)、それもわたしのほうが上になれば、全身から力を抜くだけで、自然の物理が「抱き寄せ効果」を生み出してくれる。わたしはただ力を抜くだけでよく、「抱き寄せ効果」をさらに高めるには、下から日浦くんがぎゅうッとすればいい。わたしのほうからぎゅうッとすると、日浦くんを押し潰そうとするみたいになってしまうから、ぎゅうッとするのはやはり日浦くんのほうからするのがいい。加えて、立ってするのと違い、これなら背丈の差も解消される。困ったほどの差はないのだが、顔がぴったり隣りにくると、ぐっと近くなった気分だ。
「佐藤――」
 日浦くんが耳元で囁く。ここは防音室だから、囁かなくてもいいのに。
「なに?」
「この部屋はヤバい」
「なにが?」
「視線を警戒する必要がない」
「んふっ。――どうしたいの?」
「手を動かしたいんだけど……」
「うん。いいよ」
 背中にあった日浦くんの手が、すっと膝の裏に現れ、ゆっくりと太腿を這い上がる。わたしには見えていないから、皮膚が受け取る感覚だけで、その手がどこからどこへ向かおうとするのかを、触覚器官の感覚受容と脳内イメージとのマッピングによって期待する。視覚が届いていなくても、視覚野は働くのだ。
「わたしのお尻、ちょっと大き過ぎると思わない?」
「及ばざるが如しのちょうど手前くらいかなあ」
「そっか。ここで踏みとどまらないといけないね」
 這い回る手は、ひとしきり後方を彷徨ったあと(臀部も外性器であるらしい)、左右に開き、腰から腋を目指して上がってくる。ぴったりとしたニットのセーターを選んだのは正解だった。もちろんわたしは期待と意図を無意識の裏側に隠してこれを選んだのだろう。
「胸こそ大き過ぎるよね?」
「気にしてる?」
「気になるのは、気にさせられるからだよ」
「嫌な感じのほうが強い?」
「それは相手次第、身勝手な話だけど」
「俺はどうなの?」
「ここまでしといて、それ訊く?」
「そりゃまあそうか」
 わたしは肘をつき、上体を少し持ち上げる。日浦くんの手が、自由に動かせる隙間を拡張する。耳元にあった鼻先を、正面に持ってくる。鼻の先が触れ合えば、唇が重なるのは必然だ。――確かにずっと、日浦くんの視線も、やはり胸の上に感じていた。それを抑えようとする葛藤も、一緒に伝わってきていた。ここで今こうしているのは、それを不快に感じなかったから。受け取る側が不快に感じなければいいのだ、なんて、本当に身勝手な理屈。受け取る側が不快に感じれば悪、心地良く感じれば善――ほんとうに、ただそれだけ。
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