§07 10/29 避難生活(5日目・夕)

文字数 5,526文字

 昨日は図書室で『蜜蜂と遠雷』の続きを読み、彩香のマンションに帰ってからも続きを読んで、「少女漫画家が少年誌のノリで描いたみたいなやつ」と彩香が言った意味を理解した。主人公が美青年と美少年であり尚且つヒロインと幼馴染みなのは少女漫画的要素であり、圧倒的な天才が聴衆やコンペティターを唖然とさせる描写は少年誌のノリだ。長いけど退屈はしない。マンガを読む代わりになる。
 そういうわけで金曜日も図書室に入った。火曜日にも見かけた図書委員の男子の視線に入口からじっと追いかけられたので、カウンターから見えない席まで書架のあいだを奥へと入り込んだ。確か書架の奥にもグラウンドに向いた閲覧席があったはずで、けれども書架は思いのほか深く、右往左往してしまった。
 と、ある書架の裏側に回り込んだところで、床に座り込んでいる誰かを蹴飛ばした。そんなところに座り込んでいる人間が悪い。けれども蹴飛ばされた男子は脇腹を抑えて悶絶した。わたしは駆け込んだわけでもなく、図書室だから静かにそっと歩いていたのだから、悶絶するほどの力が加わったはずはない。しかし目の前で人が悶絶すれば、それも自分が原因であることが明らかであればなおさらのこと、さすがに慌ててしまう。思わずしゃがみこんだ先で、こちらに向いた顔に見覚えがあった。漫研のメンバー・日浦奎吾である。
「あ、佐藤由惟だ」
「なんでこんなとこ座ってるの?」
 むろん声をひそめた。
「これ」
 と、手にしていた本を差し出した。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(下)』だ。
「それが?」
「今夜金ローでやる」
「それで原作読んでるんだ。でもアニメ版て全然違うよ」
「そうなの?」
「アニメは綺麗で可憐なヴァイオレット推しだから」
「毒があるね。――でもそれなら原作もさして違わないけど」
 わたしは少しムッとして、くるりと背中を向けた。広くグラウンドを望む閲覧席はすぐそこにあった。日浦くんがついてきて、隣りに座った。手元を覗き込むので、表紙を見せた。意味は図りかねるが、うんうんと頷いて、自分の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(下)』を開くと、あっという間に気配が消えた。没入するタイプであるらしい。
 だが、一時間もしないうちに、パタンと本を閉じる音がした。見れば、頬杖をついてグラウンドを眺めている。読み終えたあとの余韻に浸っているのか、期待外れのエンディングに戸惑っているのか、あるいはただ頭を空っぽにしているだけなのか。――ふと顔を向けられた。目が合っても表情を動かさない。やがて、こそっと呟いた。
「佐藤、なにがあった?」
「なにが、て?」
「雨野、紀平、結城、瀬尾、桃井、佐藤由惟」
「なにそれ?」
「平木女帝に吹雪提督までもがご参集」
「でもわたしの問題はわたしと彩香にしか関係ないよ」
「彩香?」
「桃井彩香」
「なんだ、親族の問題か」
 急に興味を失ったように、日浦くんは席を立った。「吹雪提督」は聞いたことがあるけれど、「平木女帝」は初耳だ。吹雪さんに「提督」という尊称(?)はあまり似合っていない。が、平木さんの「女帝」は似合い過ぎている。今度顔を合わせた際に、うっかり思い出し笑いをしてしまいそうなくらいぴったりだ。その「女帝」も「提督」も軽くあしらってしまう彩香は何者なのだろう?と、ちょっと感心する。
 しばらくすると、日浦くんが戻ってきた。今度は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(外伝)』を手にしている。やはり今さっき『(下)』を読み終えたところだったのだ。気に入ったらしい。あるいは四巻まであると知れば、四巻まで読まないことには気が済まないタイプだとか。
 日浦くんは姿勢がいい。男子高校生が姿勢よく本を読んでいる様は、何故か知らぬがちょっとおもしろい。そのうえ読み始めるとページをめくる以外ピクリとも動かないものだから、余計に滑稽味が増す。笑えるようなシーンではどうするのだろう?と、変な興味が湧いてくる。それにしてもページを来る速度が尋常でなく速い。
 六時少し前にキリのいいところになったので、『蜜蜂と遠雷』を閉じた。この主人公たち三人(美青年と美少年と天才少女)が上位を独占する結末は、本のいちばん最後にコンクールの審査結果が載っているので最初から公開されている。その結果にふさわしい天才たちなのだという説得力(いや納得感?)を持たせるべく、物語は進んでいく。この三人以外の出場者(コンテスタントと呼ぶらしい)に関する記述はほぼ皆無である。モブを書いてもつまらないから? 今日は読み進めるにつれて、脇役の存在感の薄さにちょっと退屈し始めた。
「あ、帰るの?」
「うん。ちょうどキリがいいから」
「待って。俺も帰る」
 一緒に、という意味だろう。しかし、このタイミングで「待って」と言い、本当に待たせる人間がいるとは驚いた。わたしは十分近くも待たされたのだ。最初からそうとわかっていれば、わたしのほうもあと一節は読み進められたのに……。
 だから、図書室を出たところで文句を言った。が、なにを怒っているのか…という怪訝そうな顔で、お互いキリのいいところまで読めたんでしょう?みたいなことを言うから、日浦くんの肩口をグーで殴ってやった。なんで俺が怒られるんだよ…と相変わらずそんなふうに呟きながら肩を擦りつつ、理不尽なことだ言うように最後は首を横に振った。
 日浦くんとは同じ路線で同じ方向に帰る。…ということを思い出した。去年そう言えばこんなことが幾度かあった。しかし当時はわたしも漫研の集まりに顔を出していたけれど、今年は日浦くんとはクラスも違う。だから最初のセリフを思い返し、ちょっと尋ねてみた。靴を履き替えて校舎を出たところだ。
「ねえ、さっき言ってた、雨野くん、結城さん、瀬尾くん…とかいうの、なに?」
「我が校の二年生の確定記述的記録」
「確定記述、て?」
「それを読めば我が校の令和三年の二年生だってことが紛れもなくわかるやつ」
「どうやって?」
「転校生雨野の登場、紀平里美のまさかの転落、結城と雨野の電撃婚、瀬尾の暴行事件、桃井と瀬尾の電撃婚……で、今度は佐藤由惟が舞台中央に出てきた。←付けて、今ここ、てやつ。――あれ? なんかおかしい?」
 いや、だって「電撃婚」とか、週刊誌ネタじゃないんだから。
「佐藤のが単なる親族の揉め事だっていう話なら、記述は残りそうもないけど」
「学校とは関係ないからね。でもわたしいま彩香の家から通ってるの。だから日浦くんと一緒の電車じゃないよ」
「桃井の家から? 今日もじゃあ桃井の家に帰るの?」
「そうだよ」
「……なんか、壮絶っぽいな。いや事情は聞きたくない」
「話すわけないでしょ」
「そりゃあ、そうだね」
 校門を出ると、しばらくは同じ道を行くことになるが、わたしのほうが先に地下鉄に降りる。立ち止まると、日浦くんも足を止め、「あ、ここね」と言って、軽く手を挙げようとした。すっと立ち去りそうな様子に、こうしたときの気分の綾をどう言い表せばいいのかわからないのだが、ちょっと慌ててしまった。
「日浦くん――」
 本当に手を挙げかけて、たぶん「じゃ」と背中を向けるつもりだった日浦くんが、後ろから腕を引っ張られるような感じで、わたしに顔を向けた。そうされて、どうして呼び止めてしまったのか、わからなくなった。いや、最初からわかっていなかった。
「……ごめん。なんでもない」
「そ?」
「うん。じゃあ明日。は、お休みか……」
 やり取りがこんなふうに、おかしな具合に捻じれてしまうと、うまく動けなくなる。いろんな器官が、うまく働かなくなる。わたしには隠し事があって、けれどもそれは「壮絶」と言われるような代物ではなく、情けないばかりの話なのに。
 それでも日浦くんは、困ったような顔をしなかった。あまり表情に出ないタイプの人で、こうして話しているうちにそんなことも思い出していたのだが、このときは小さくにこりと笑った。目元口元が、僅かに動いた。
「俺は明日もいるけどね。――じゃ、気をつけて」
 もちろん意味はわかった。一瞬意味を測り兼ね、次の瞬間ハッと気がついた……なんてお馴染みの表現があるけれど、あれは誰かが思いついた、いわゆる効果的な演出に過ぎない。思いがけないことを言われた際の心の揺れ具合を、そのように上手に表現した人がいて、定型句のように定着してしまったのだろう。ふつうは、そこまでの文脈から外れたことを言われたり、あるいは年齢や環境があまりに違う相手と話していたり、そんな状況でもない限りは、言われたことの意味を受け取るのは、決して難しくない。わたしと日浦くんは同じ高校に通う同級生で、一時期は同じ部活にも所属し、帰宅経路も重なっていて、一緒に帰ったことも幾度かある。そんな二人がついさっきまで、図書室の隣り合う席に座り、並んで本を読んでいたのだから、意味を測り兼ねるはずがない。
 日浦くんが歩き去った先には、先週までわたしも使っていた地下鉄駅がある。日浦くんがどこの駅で降りるのか、たぶん聞いたはずだが忘れてしまった。少なくともわたしの実家の駅ではない。六時をずいぶんと回ってしまった十月末の空は真っ暗で、街灯の向こうに日浦くんの背中はもう見えない。どうして同じ電車に乗れないのだろう?とは考えなかった。これもまたこうしたときの定型句だ。一瞬自分の置かれている状況を忘れてしまい、次の瞬間慌てて首を横に振る……みたいなやつだ。なぜか決まって「一瞬○○して、次の瞬間○○した」という形式をとるのは、そうすると心の揺れ具合を、聴く者/読む者/観る者に、強く印象づけることができるからだろう。だけどそんな事態は滅多に訪れやしない。同じ電車に乗れない理由など、わたしはよくわかっている。
 今から電車に乗るよ、と彩香にメッセージを送った。まいばすで待ってる、とすぐに返信が届いた。瀬尾くんがもう帰ったことを示唆する短時間で。今度は本当に心が揺らいだ。一瞬、日浦くんを追い駆けて同じ電車に乗り、実家に帰るふりをしようかと思った。が、次の瞬間、日浦くんが「雨野、紀平、結城、瀬尾、桃井、佐藤由惟」と並べたこと思い出し、それではわたしは嘘を重ねることになってしまうと考え直した。彩香の家から通っているなんて嘘だよ、と言ったあと、遠回りして彩香の家に帰るのだから。
 それでも心が揺らいだのは事実だ。彩香を訪ねてくる瀬尾くんのことを思ったら、今さっき日浦くんを見送ってしまったのを後悔した。つまらない考えが頭をよぎった、という話だ。晩御飯は日浦くんと食べるから、彩ちゃんは一人で食べて――なんて言ってみたくなった。これまでずっと一人で食べてきたんだから平気でしょ?――なんてイジワルなセリフまで思い浮かんだ。要するにベクトルが彩香と瀬尾くんに向いている。言い直せば日浦くんでなくてもいい、誰でもいい。そこに日浦くんを置くのは、日浦くんに対しても失礼なことだ。でもこれは今ちょうど日浦くんと一緒にいて、本当なら、先週までなら、同じ電車に乗って帰るはずだからこそだ。日浦くんでなければこんなことは起きていない。

 このまま帰って彩香の顔を見ても大丈夫だろうか……?
 ……わたしはなにを考えているの? 大丈夫もなにも、彩香の家に帰らなければ、わたしはどこに帰るの? わたしを隠してくれる場所がある? ないよね。わたしを隠してくれる人がいる? いないよね。わたしは放擲されたんだから。わたしは切断されたんだから。
 ……また同じことを考えている。危ない。いまは吹雪さんも平木さんもそばにいない。だから考えちゃダメ。危ない。わたしは放擲されたんじゃなくて、確保されたんだよ。そうだ。わたしは切断されたんじゃなくて、接続されたんだよ。その調子だ。
 このまま帰って彩香の顔を見ても、きっと大丈夫だ……。

「お、電話だ。どこ? リュック? あった。見るよ? いいね? あ、桃井さんだよ。俺出ようか? 出ていい? いいよね?」
 そこにどうして日浦くんが再登場したのか、その時のわたしはそんなことが考えられる状態になかった。わたしと別れたときの様子を怪しんだ日浦くんは、地下鉄の階段を下りる途中で、やはりどうしても気になってしまい、道を戻ってきてくれた。そして日浦くんは、さっき別れた同じ場所に、悄然とした様子で立ち尽くすわたしを見つけたらしい。
 月曜の昼休み、彩香と二人で話ていた様子を、そこに平木さんと吹雪さんがやってきて追い払われた様子を、日浦くんもカフェテリアで見ていた。
 水曜の放課後、吹雪さんと平木さんの前で、わたしがちょっとおかしくなってしまい、保健室に運ばれた騒動は、日浦くんの耳にも届いていた。
 昨日とこの日の昼休み、彩香と一緒に作ったお弁当を手に、吹雪さんと平木さんも交えた四人でテーブルを囲む様子を、やはり日浦くんは見ていた。
 いつも図書室にいる日浦くんは、火曜の放課後も、昨日の放課後も、この日の放課後も、図書室に入ってくるわたしを目にしていた。
 それは決して日浦くんの目がわたしを追っていたからではなく、たくさんの生徒が、やはり同じ情景を見聞きし、知っているらしい。「雨野、紀平、結城、瀬尾、桃井」の次に、「佐藤由惟」が現れたという日浦くんの見立ては、日浦くん独自の観察ではなく、すでに同級生のあいだでは、広く共有されているらしい。
 彩香のせいで、吹雪さんと平木さんを呼んでしまう彩香といるせいで、「佐藤由惟」はそんなことになってしまったのだ。けれども、この奇妙な一週間が終わってみると、わたしはもう細田や向井からは歓迎されなくなっていた。
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