§02-2 10/23 わたしはどうかしていた……(2)

文字数 3,106文字

 ――スマホの着信音に、ビクンッと身体が跳ねた。
「もしもし?」
「由惟さん、どこか出かけてる?」
「ううん、家だよ」
「ひとり?」
「うん」
「おしゃべりしてもいいかな?」
「いいよ。――あ、ちょっと待って」
 イヤホンを差し、ハンズフリーにして、スマホを枕元に置いた。
「今日はデートじゃないの?」
「夏耶はご家族でお出かけだよ」
「旅行?」
「いや、買い物。冬物をいっぱい買ってもらうんだとか言って、張り切ってたな」
「え、それにお父さんも付き合うわけ?」
「あそこはむちゃくちゃ仲がいいから。あ、お母さんとお父さんがね」
「ふ~ん、そういう感じなんだ。うちじゃちょっとあり得ないな」
 こうしてわたしの中に、意味もなく結城家の情報が蓄積されていく。いや、まったく意味がないこともない。雨野くんと結城さんのあいだに生まれるかもしれない、ちょっとした亀裂の萌芽に気づく手助けにはなる。わたしはそれを待つことにしたのだ。この夏、一度は結城さんにフラれた雨野くんが、これくらいでは諦めないと言い、実際その通り実現してしまったカップルが、いずれどこかできっと破綻を迎えるだろうと信じ。
 わたしは諦めるべく幾度も唆したのだ。それとなくわたしでいいのではないかと匂わせてもみたのだ。けれども雨野くんは頑固で頑迷で、ほんの僅かも揺らぐ気配がなく、二週間ほど粘ってみたところで、敵に塩を送る策に切り替えた。雨野くんは結城さんに恋をしているのだから、盲目的に追いかけてしまうのは致し方ないことであり、だったらその恋をさっさと成就させてしまえば、目の前に無慈悲な現実が露わになる。そこに賭けてみることにしたのだ。
 まだこの策の正否のほどはわからない。二ヶ月半くらいで決まるものでもない。それでも高校生であるうちになにかは起こるだろう。そうなれば大学生活を雨野くんと一緒に過ごすことができるかもしれない。その可能性を残しておく。雨野くんがなにを考えているのか、なにか考えがあってわたしに電話をしてくるのか、そこは正直よくわからない。けれども、こうして繋がっていることが重要で、こうして繋がっていればその時を逃すことなく、最適な行動を選択できるはずだ。わたしたちには人生のもっとも重要な部分の大半が、まだ残されている。
「試験はどうだった? 今度も結城さんと並びそう?」
「どうかなあ……。正直夏耶のほうが安定してるんだよね、不得意な科目がひとつもない。俺は文系でミスると転落する。ほんと、生まれながらに苦労しない人間ているんだよ」
「結城さんそんなに勉強してないってこと?」
「ちゃんとやってるよ。でも吸収力って言うか、定着力って言うか、そういうのが格段に違っててさ。とにかく一度教わったことは忘れないし、間違えない」
「でもわたしたち同じ高校だよ?」
「俺は80%のエネルギーを使ってる。夏耶はたぶん60%くらいしか使ってない。気分よく過ごせればそれでいいと思って生きてるんだよ。実際さ、別に早慶まで行かなくても、MARCHで充分に自己満足は得られるだろう? 必死にやらなくてもMARCHに行けるなら、なにも必死にやることはない。そういう感じ。わかる?」
「わかるけど、雨野くんも100%じゃないんだね」
「だって、20%くらいは残しておきたいだろう?」
「なんのために?」
「たとえば、今のコロナ禍のことだとか、今度の衆院選のことだとか」
「晩御飯のことだとか、掃除洗濯のことだとか」
「そう、そう。俺にはそれもあるしね」
 好きな人の声というのは、不思議なもので、どんなテーマであろうとも、聴いていて気分がいい。それがコロナ禍や衆院選みたいな話題でも、好きな人が好きな人の話題でも。好きな人が好きな人を、わたしが好きでなかったとしても。むしろコロナ禍や衆院選なんかの話題より、好きな人が好きな人のことを話している時のほうが、わたしは幸福を感じる。いや、幸福ではない。もっと真っ直ぐに性的欲動と言うべきだ。つまり、それは言葉ではなく、音声でしかない。意味よりも、フォントのほうが大切。雨野くんの声を、こうしてイヤホンで外界の雑音を遮断し、身体器官に直接的に響かせるように聴く。ハンズフリーにしているのは、あくまでもそれをサポートするためであり、敢えてそれをしなくても、わたしは充分に満足を得られる。全身が痺れ、危うく震え出しそうなくらい。
「ねえ雨野くん、一昨日って瀬尾くんと彩ちゃんと一緒に帰ったよね?」
「二人が夏耶の家に来たんだよ。あそこってさ、前にも話したかもしれないけど、完全防音のシアタールームがあってね、桃井さんが痛くお気に召されたらしく、試験が終わったらまた是非にと――」
「昨日、瀬尾くんの送別会やったんでしょ?」
「ああ、そんなこと言ってたな。女の子のゲストがサプライズになってるとか。えっと、紀平さん? じゃないな。そんな名前の子と、艦娘にいそうな子。――ダメだ。俺ぜんぜん憶えてない。由惟さん知ってるの?」
「あのときさ、桃井さんはどうしてわたしを誘わないのか?なんて言われちゃって」
「誰に?」
「一緒にいたでしょ、一昨日の教室に」
「細田さんと向井さん。――あ、なるほどね。バレー部ってカッコいい連中なんだね」
「それは瀬尾くんだけ。だから今はカッコよくない」
「細田さんと向井さんはそう思ってないんだろう?」
「そういうことだよねえ。ああ、面倒くさいなあ、ほんとに……」
 四十分ばかり話したろうか。イヤホンを外し、頭を斜め上に傾けた瞬間に、外でカラカラッと窓を閉める音がした。視線の先の四階のベランダから洗濯物が消えており、窓が閉まっている。今の音がそこであるとの確証はどこにもない。けれども、ただそう想像するだけで、世界は応えてくれるものだ。わたしも身体を起こし、ベッドから降りて、少し涼しくなってきた窓を閉めたところに、部屋のドアがすっと開いて、弟が入ってきた。
「ちょうどよかった」
 大柄ではあるけれど、首を傾げる弟の仕草の可愛らしさ。
「覗いてたみたいにぴったり」
 怪訝そうに、不安そうに、眉間に寄せる皺のいじらしさ。
「どうぞ」
 ベッドの端に腰掛ければ、弟が後ろ側に這い上がり、両脇からそっと手を差し込んで、わたしの胸をその大きな手の中に――だが、次の瞬間にパタンッとドアが閉まり、弟の姿は消えていた。わたしは溜め息をつき、もうしばらく一人でさめざめと泣いてから、廊下の奥の洗面所で顔を洗った。バシャバシャ、バシャバシャ、派手な音を立てて。
 顔を上げると、鏡の向こうに弟が立っていた。肩越しにすっとタオルを渡された。ごしごしと顔を拭き始めるのと同時に、弟の腕が両脇からぬっと現れて、いつものやつがきたのだと油断していたら、そのまま羽交い絞めにされ、すぐ脇のトイレに引き摺り込まれ、便座に座った膝の上に乗せられ、カーディガンとコットンシャツとブラを持ち上げられ、両腕を頭の上で縛られたような格好で、露わになった胸を痛いほどむちゃくちゃに揉まれたあと、背中から前につんのめるように押し倒され、頭を床に打ちつけられ、腰を抱えて持ち上げられ、捲くり上がったスカートの下でショーツを下ろされる寸前に、きちんと閉まっていなかったトイレのドアを押し開けたわたしは、廊下を這って自室に逃げ込んだ。

 弟は追ってこなかった。表はまだ明るかったけれど、レースの前に遮光カーテンを引いた。けれども遮光カーテンには隙間が空いていて、どうしても部屋が真っ暗にならない。それでは生地が遮光であってもまったく意味をなさない。わたしはカーペットの上にへたり込んだ。弟は追ってこない。弟は追ってこなかった。
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