§04 10/25 避難生活(1日目・夕)

文字数 5,155文字

 彩香にああは言ったものの、今さら漫研に顔を出すのは難しかった。なにしろ去年からの幽霊会員なもので、最上級生は卒業しているし、新入生も入っているだろうし、正直どのような顔をして、そもそも誰に声をかければいいのかも、当てがない状態だった。
 逃げるようにして――実際逃げてきたのだが――家を飛び出してきたために、手元にマンガが一冊もなく、実を言えば、それが残念でならない。だから放課後はネカフェに寄ることにした。ホームページを見て、口コミを確かめて、女性専用スペースがある店を、学校から少し離れた新宿の西口に見つけた。
 カップベンダーのドリンクは無料だし、小腹が空けば四百円ほどで食事もとれる。案内によれば、読んだマンガはテーブルに置いておき、スタッフが除菌してから棚に戻すそうだ。綺麗で静かで廊下も明るい。ここにはシアタールームもある。彩香がわたしの提案に乗ってきたら、平日も休日も入り浸ることになりそうだ……なんてことを考え、ひとりでにやにやした。
 四時半に入り、六時に出て、九七〇円から学割の20%引き――漫研の人たちと行くカフェのケーキセットよりずいぶん安く、ほとんど半値で上がった。けれど、放課後の二十日間となれば二万円近くも必要になる。入り浸るのはさすがに難しい。毎日マンガを読んでいるわけにはいかない。図書室で本を読んだり、自習棟で勉強したりを織り込むべきだろう。
 地下鉄を降りたところで彩香にメッセージを送った。すると、今どこ?と尋ねられたので、瀬尾くんがまだいるのだろうと察し、新宿だと嘘を答えた。計算上、ちょうどいい時間になる。彩香も計算しただろう、帰って来ていいよ、と返信が届いたので、二十分ばかり、どこへ行く当てもなく歩くことにした。彩香のマンションを出て地下鉄に向かう瀬尾くんと、路上でばったり出くわしたりしないように気をつけて。
 陽が沈むと途端に空気が冷たく感じられる季節だ。そのうえ今日は朝から薄曇りで、六時を過ぎた今、街の隅々まですっかり暗くなっている。わたしはちょっと迷ったあと、やはり明るいほうの道を選び、彩香のマンションとは反対方向に十分ほど離れたところまで行ってから、同じ道を戻ってこようと考えて歩き出した。すると、駅に降りたら電話してくれ、との彩香のメッセージが追い駆けてきた。わたしは大慌てで道を引き返した。
「着いたよ」
 腕時計を見ながら、あのとき新宿を出たとすれば…と時間を計り、電話をかけた。
「あのさ、晩御飯の話、してなかったよね?」
「ああ、そうだね。いつもどうしてるの?」
「お惣菜、レトルト、冷凍の組み合わせ。面倒くさいときはコンビニ弁当。わたしこんな環境にいるくせに料理できないんだよね。できないって言うか、性に合わないって言うか」
「だったらわたしが作るよ――なんてわたしも言えないんだけど」
「もう道路に出た?」
「うん。階段上ったところ」
「まいばす見える? え~と、うちに向かって右手のほう」
「ああ、あるね。あそこで待ち合せ?」
「うん。それでいいかな?」
「ぜんぜんいいよ」
 想像するに、母親と呼ばれる人たちは、かなり多くの思考と時間と労働とを、子供の食事のために費やしている。昨夜、母が遅くまで叔母と話していた内容の、もしかすると半分くらいは、食事の周辺をめぐっていた可能性が高い。叔母(すなわち母にとっての妹)が家で料理をしないことについて、我が家の食卓でもいくどか母が苦言を口にした記憶がある。叔母はベンチャー企業の元経営者で、そういう生活をしている人なのだから、善いも悪いもないと思うのだが、むろん母に向かってそんなことは言わない。ふだんはほぼまったく交渉のない桃井家と佐藤家ではあるけれど、叔母はこうしてわたしをさくっと引き受けてくれるのだから、あの姉妹は決して仲が悪いわけでもないのだろう。
 野菜もちゃんと摂らないとね、などと言いながら総菜コーナーを漁り、支払いは彩香のスマホで済ませ、店を出た。お金の話は片付いているとの連絡が、放課後に叔母から彩香にあって、すぐにポンとスマホに送金されてきたそうである。さすがはベンチャー企業の元経営者だ。わたしの母には仕組みや操作より以前の問題で、「スマホに送金されてくる」の意味すら理解できないかもしれない。
 これが初日だから新鮮に感じるだけかもしれないけれど、こんなふうに彩香と晩御飯を調達して帰るのは、なんだかむちゃくちゃに愉しい。ダイニングテーブルについたとき、なんの考えもなくそれが口に出て、驚いたように強張る彩香の顔に戸惑った。が、わたしも久しぶりに愉しいかも…とすぐに笑ってくれた。――そうか、毎晩これを一人でやっている彩香にとって、晩御飯が愉しかった記憶は遠いところにあるのだ。週末も逃げ出す算段を考えているくらいだし、瀬尾くんの御家族と一緒だったときも愉しくなかったと言っていた。彩香は本当に久しく晩御飯を愉しんだことがない。そもそも愉しいからといってはしゃぐタイプではないけれど、彩香も少しばかり気分が高揚しているのなら、わたしは正直ちょっと救われる気分だった。いつもの静かな時間を搔き乱される…なんて思われても仕方がない事情なわけだから。
「そういうこと言わないで、て今朝言ったよね?」
「う、ごめん……」
「わたしほんとに嫌だとか思ってないから。むしろ退屈しないで済むって思ってるくらいだから。友達より従姉妹のほうがいろいろ考えなくて済むし」
「いろいろって?」
「お金のこととか」
「あ、そうだね。友達だと貸し借りになっちゃうとこあるね」
「わたしの周りは金持ちばっかりだから気兼ねする必要ないんだけど、それでも他人だし、他人の親のお金だし。でも由惟ちゃんは伯母さんちのお金だからね。なんか気が楽」
「でも親戚は面倒って言う人も多いじゃない?」
「確かに。そっちのほうが多いかも。うちはあれだね、ふだん没交渉だからさ、それが却ってよかったのかもね」
「ほんと没交渉だよねえ。なんでか知らないけど。でもお母さんたちって仲悪いわけでもない感じしない?」
「全然タイプが違うしね。友達には絶対にならないけど、姉妹だから距離感が測りやすいとか、そういうのあるかもね」
 ダイニングテーブルにはディスプレイ付きのスピーカー(AmazonとGoogleの2台)が置いてあり、今は「秋うた J-POP」というプレイリストが、よく聴く歌や、懐かしい歌や、聴いたことがあるような歌を、小さな音量で流してくれている。秋の歌としてピックアップされるのは、何故か知らぬが、穏やかでちょっと寂しげな情景が多い。実りの季節の到来を歓ばず、眩しかった季節の終わりを懐かしむ感じ。でも、そんなイメージとは、現実の秋はずいぶんと違う。豊かで喜びにあふれる季節だ。夏を盛り上げ過ぎてしまった反動だろうか。
 食事の片づけを終えると――ほとんどがプラスチック容器の処分だ――順番にシャワーを浴びてから、誘われて彩香の部屋に入った。度を越して強調されてはいないながらも、オレンジや薄紫やイエローや、ふつうに女の子らしい柔らかな色合いの、居心地の良さそうな空間だ。オシャレにティーポットなんかまで用意して、激動の二日間のあと、初めて時間が穏やかに流れ始めるような予感がした。
 夜が進むにつれ冷え込みが強くなっていた。カーディガンを羽織り、二人でベッドに這い上がると、壁に並んで足下を掛け布団で覆った。そこまで調えておきながら、彩香がきょろきょろと辺りを見回している。なにか落とし物でも探すみたいに。
「あ、あのさ、なんか変なもの見つけても、見なかったことにしといて」
「変なものって?」
「それ聞きたい?」
「聞いてみないとわかんないよ」
「わかるでしょ」
「瀬尾くんのこと言ってるんだよね?」
「そうだよ。だから――あれ、あ、由惟ちゃんもしかして、全然わかってない感じ?」
「なにが?」
「だから、今日ここに瀬尾がいたってこと」
「わかってるよ。邪魔しないでね、て言ったでしょ?」
「いや、そうじゃなくて――」
 さすがに唐変木なわたしもハッとして、思わず掛布団の中から足を引き出し、膝を抱えると、今度はわたしのほうが周りを見回してしまった。
「だから、探すなって」
「ごめん……。いや、そっか……。そういうことだったのか……」
「やっぱりわかってなかったんだ。なんかそんな気がしてたんだよね」
「じゃあなんでベッドの上なんかに誘ったの?」
「いや寒かったから、それだけ」
「でもわたしそっちのことよくわかんないから、変なものって言われても。……その、真面目に訊いちゃうけど、変なものって、たとえばなに?」
「どストライクでよければ、使用済みコンドーム」
「コン…!?
「――は、さすがに処分したから、あるとすればどちらかの陰毛とか、あそこ拭いたティッシュの切れ端とか。いやチェックはしたよ。コロコロもやったし」
「……てっきり恋バナみたいのが始まるんだと思った」
「これは恋バナのうちに入らない?」
「恋バナはその前のところまでだよ」
 とは言うものの、秋の夜の空気はちょっと冷たくて、恐る恐る、変なものが顔を出すのに怯えつつも、わたしは掛け布団に足を入れ直した。
「じゃ、ご要望にお応えして恋バナを――」
「いい、いい!」
「由惟ちゃん今、好きな人いるよね?」
「……なんでそう思うの?」
「恋バナを期待する人ってそうだから」
「なる、ほど……」
「誰? わたしその人のこと知ってる?」
「……知ってる」
「あ、もし瀬尾くんならあと五ヶ月待ってくれれば――」
「瀬尾くん別に好きじゃないよ」
「いや、もしわたしに遠慮してそう言ってるんだったら――」
「だから瀬尾くんじゃないって!」
「でもこういうときに『知ってる』て答えるのは、単にクラスが同じだとかそういう関係じゃない――あ、ああ、ダンちゃんか」
「ダンちゃん?」
「久秀って言えば松永でしょ。松永と言えば弾正でしょ。だからダンちゃん」
「それっていつから?」
「小学生の時からずっとだって結城さんが言ってた。まるで自分たちが小学生の時からの幼馴染みであるかのように。十年前からずっとそう呼んできたのよ、みたいな言いっぷりで。ほんと結城さんて変だよね」
 これまで当人の口から一度も聞いていないということは、雨野くんはその呼び名に納得していないのだろう。だけど、すでに結城さんからそう呼ばれてしまい、彩香からもそう呼ばれてしまっているのなら、万事は休しているわけだ。たぶん、うっかり結城さんに話してしまい、結城さんに気に入られてしまい、どうにもならなくなった。なんとなく、そうした問題に関して結城さんの態度を覆すのは、至難の業だろうとは想像できる。そしてそれこそが、わたしが今しがみついている唯一の細くて短い縄だ。
「で、あの結城さんと争うわけ?」
「争わない。だって雨野くんそのうち結城さんから逃げ出すでしょ?」
「う~ん、最近そばで見てるけど、それは期待薄なんじゃないかなあ」
「今は、今はそうかもだけど、だって結城さんて変な子じゃない?」
「変な子だけど、むしろそこが愉しいというか、可愛いというか。そこも、か」
「まだ半年も経ってないんだから、全肯定状態なのは当然だよ」
「大胆に攻め込まないと難しいと思うよ。たとえばこれを活用するとか」
「ひゃッ!」
 パジャマの上から――その前に薄手のカーディガンもあるのだが――下から持ち上げるように右の胸をつかまれた。そのまま逃げ惑うわたしの上に覆いかぶさり……なんてことはなく、当たり前だけれど、彩香は引き攣るわたしの顔をけらけら笑っている。
「見た目以上にデカいね」
「言わないで……」
「ま、そういうやり方は由惟ちゃんのイメージじゃないけど」
「どういうやり方?」
「わざと見せつけて男が悶え苦しむ様子を愉しむみたいなやつ」
 言葉を失った。――ごめん、彩香。イメージじゃないかもしれないけど、わたし、ずっとそれをやってたの。その顛末が今のこの状況なの。上位のポジションにあると高をくくって侮っていた臆病で気の小さな弟と、絶対に届かない物理的な距離が横たわる向かいの賃貸マンションの眼差しと、どっちも絶対に凶器に変わることなんてないと思っていたやつに、いきなりグサリと刺されたの。
 わたしがどうかしていただけなんだけど。でも雨野くんが結城さんなんて変な子を好きにならなければ、きっとこんなことにはならなかったと思う。だって転校してきて体育祭の実行委員に押し込まれてきたあの頃、いつも雨野くんの視線はわたしの夏服の胸の上を行き来していたんだもの。わたしゾクゾクしちゃって、わざと胸張って見せたり、前屈みになって見せたりしてた。ほんと、どうかしてるよね……。
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