§15 11/08 拾ってくれる神様(7)

文字数 4,896文字

 彩香はもしかすると、自己実現的な予言を口にしたのかもしれない。それと意識しなければ、気づくこともなく流れてしまうはずの情景に、要らぬ意味を与えてしまったのではないか。いつからそうだったのか思い出せないのだけれど、朝、自分の机に向かってから、昼休みに入るまでの四時間ばかり、わたしは誰からも話しかけられることなく過ごす。恐らく、話しかけられないばかりか、視線を向けられてもいない。
 彩香と二人で登校してきた(そして彩香と二人で昼食をとった)あの初日からそうだったとは思えない。たとえば、三日目に吹雪さんと平木さんとおしゃべりをした。日浦くんに出会ったのは五日目の週末。いずれの日にも、わたしは学校からタクシーに乗せられている。だから、たぶん、あの最初の一週間で、わたしの世界は折れ曲がったのだろう。「雨野、紀平、結城、瀬尾、桃井」の次に現れた「佐藤由惟」という、おかしな列の後ろに、不本意にも並べられてしまったせいだ。
 この日、彩香はちょっと体調を崩して学校を休んだ。ひとりぼっちであることを、わたしは初めて自覚した。四時限目の終わりが近づいてくるとともに、嫌な動悸が始まった。額や腋の下には汗も滲んでくる。ふと、わたしは結城さんの姿に目を向けた。あんなふうに平然としていられたらいいのに……。情けなくて泣きたくなった。しかし授業中になんの前触れもなく泣き出したりすれば大騒ぎになる。当たり前だ。
 机や椅子を動かす音、飛び交うおしゃべり、お弁当の匂い――始まってしまった、もうここまでだ…と思うと、身動きが取れなくなり、物事を考えることもできなくなる。
「由惟さん――」
 ポンと肩を叩かれた。ハッとして振り仰ぐと、吹雪さんの愛らしい笑顔。
「お弁当、一緒に食べよ?」
 本当に、なんて愛らしい笑顔……。
「瑠衣ちゃんが席取ってるから、早く行こ」
 平木さんの生理痛もすでに治まったらしい。
「茉央ちゃん、ちょっと待って!」
「瀬尾くんはお招きしてないんだけど?」
「そんな寂しいこと言わないでよ。僕も混ぜてよ」
「しょうがないなあ」
 片手にお弁当を持ち、吹雪さんに腕を組まれて引き摺られながら、後ろから瀬尾くんが追ってくる。廊下に出ると、ひと際大きな茶山くんの姿が、入り乱れる生徒たちの頭の上に見える。カフェテリアの窓際の一等席に、平木さんと紀平さんが向かい合って座り、いかにも仲が悪そうに言い争っている。平木さんに並んでわたしと吹雪さんが、紀平さんに並んで瀬尾くんと茶山くんが、六人掛けのテーブルを埋める。
「なんで瀬尾がそこ座る?」
「いや僕、ほら、桃井のカレシだから」
「はあ?」
「それに茶山が真ん中くると鬱陶しいだろ?」
「わたしは茶山くんのほうが嬉しいなあ」
「紀平、おまえまさか……」
「わたしちょっと筋肉フェチなとこあるのよねえ」
「あ、え、由惟ちゃんどうしたの?」
 瀬尾くんの声に、みんな一斉にわたしに顔を向けた……のだろう、きっと。わたしは顔を覆ってしまったので、その視線を知る由もなく、そう言えばこの二週間、お昼はずっと彩香と二人だったことを思い出し、たぶんホッとしたのだと思うのだが、涙が溢れてきてしまった。隣りから吹雪さんが椅子を寄せ、いつものようにわたしの左腕を抱き、それも自分の右腕をわたしの脇の下に深く差し込んで、甘さの中に僅かな柑橘系を感じさせる、あの陶然とする香りでわたしを包み込んでくれる。――わたしの涙はすぐに治まった。泣き笑いの顔でテーブルを見回すと、みんなもホッとしたように小さな笑みを見せてくれる。
「彩香は風邪だって?」
「感染じゃないよね?」
「それだと真っ先に瀬尾を隔離しないとヤバい」
「ああ、僕は濃厚接触者だからねえ」
「余命宣告されてんのは瀬尾のほうだけど」
「それ言わないでよ、瑠衣ちゃん」
「――ちょ、瀬尾、瑠衣ちゃんなんて呼ぶな!」
「瀬尾くんの余命宣告てなによ?」
「春になったら彩ちゃんあそこに鍵かけちゃうんだよ」
「どういう意味?」
「彩ちゃん地方の大学行くからね、瀬尾くんは邪魔なの」
「茉央ちゃんも邪魔とか言わないでよお」
「桃井さん、なんで地方なの?」
「お兄ちゃんもそうだったんだよ」
「だから、そうする理由は?」
「紀平、そこは詮索するな。彩香にはそうしたい事情があるんだ」
「しなければならない、じゃなくて、そうしたい、なのね?」
「詮索するな、て言ったろう?」
「わかった、わかった。平木さんそんな怖い顔しないでよ」
「あれ? 俺の座るとこないじゃん」
 ふらりと現れた日浦くんに、わたしも、みんなもビックリして声に振り向いた。ポケットに両手を突っ込んで、瀬尾くんと茶山くんのあいだから顔を突き出し、みんなのお弁当を値踏みするように見回す。その様子がおかしくて、うれしくて、思わず笑みが零れる。
「茉央、お誕生日席」
「やだ~! 由惟さんから離れたくない~」
「いいよ、俺がお誕生日席で」
 近くから椅子を持ってきた日浦くんは、吹雪さんと茶山くんのあいだで、左右前方に全員を見る、まさにお誕生日席についた。椅子を前後逆さまにして、テーブルに両肘をつき、だらしなく上体を投げ出して。
「おまえなにしてたんだよ?」
「弁当食ってたけど?」
「どこで、だれと?」
「一人で、教室で」
「だったらおまえが迎えに行け!」
「ああ、確かに。でも提督がお出ましになるほうが演出効果は高いんじゃないかなあ」
「いや、そうだ! 日浦、言いつけ破ったよね?」
「なんのこと?」
「佐藤由惟には手を出すな」
「高校生らしく純粋で健全な交際を心がけておりますよ、陛下」
「瀬尾とは違うって?」
「濃厚接触してないの?」
「う~ん、してなくもないけど――」
「言っちゃダメ!」
 さすがに慌てた。まったく油断も隙も無い。
「日浦、これマジだからね。絶対に佐藤が求める距離を保ってよ。あんたから無理に詰めないこと。守らなかったら、ぶっ殺すから」
「わかってるよ」
「ぶっ殺すってさ、瑠衣ちゃん、実際どうやるの?」
「だから、瀬尾が瑠衣ちゃんて呼ぶな!」
「社会的に抹殺する、みたいな意味合いよね、きっと」
「里美、怖いこと言わないでよ」
「しかしまあ由惟ちゃんが落ち着けば、日浦はお払い箱になるわけだろう?」
「そうなの? 日浦くん可哀そう……」
「佐藤に捨てられたら里美に拾ってもらうから」
「なんでわたしがそんなことを?」
「あれ? だっておまえ、いつでも慰めてあげるわよ、て言ってなかった?」
「慰めてはあげるけど、預かるまでは期待しないで」
 わたしは拾われたばかりの身なので、今は捨てることなど考えられるはずもない。母の手紙にもはっきりとそう書いてある。世の中には起こらなかったことにできない、それが起こる前には戻せない出来事があり、わたしはそのような分岐を跨いでしまった。いつ、どのような形で修復できるものなのか、今のわたしには想像もできない。
「ねえ、ちょっと! 茶山くんがモアイ像みたいになってるんだけど!?
「おい、茶山! 気を確かに持て!」
「ヤバい、意識が飛びかけてる!」
「何度も『濃厚接触』とか言うからよ」
「ほら、ゆっくりと息を吐け!」
「おまえが倒れたら誰も運べねえぞ!」
 しかしこのときわたしはちょっと不思議な感覚に捉われていた。従姉妹であり友達みたいでもある彩香と、どうやら彼氏だと言っていいらしい日浦くんと、わたしはそのような個別の接続線を一本ずつ引いた先にしがみついているのではなく、いくつもの接続線が交錯して生み出された網目の上に乗っかっている。不思議な浮遊感を伴って。
 目の前で繰り広げられている騒動が、プールの水の中に潜ったときのように聞こえる。わたしもその渦中にいる一人なのに、わたしを含む世界の出来事を眺めている。一緒になって笑っているのに、男の子たちが笑わせてくれるから、一緒になって笑っているのに、その笑い声を聞くわたしがいる。内側なのか、外側なのか、判然としない。
 カフェテリアの窓際の一等席で、なぜか硬直してしまった茶山くん、左右からバカバカしい声をかける瀬尾くんと日浦くん、テーブルの端で呆れ顔をする平木さん、身を乗り出して茶山くんを覗き込む紀平さん、わたしは吹雪さんと腕を絡めながら、いかにも愉しそうに、おかしそうに笑っている。
 そのわたしは、わたしを含む七名の男女の騒々しい声を聴きながら、カフェテリアを見回してもいる。騒々しい七名――富と美貌をこじらせているコンパニオンな美少女が二人、中間試験で学年一位の座に僅差で返り咲くことのできなかった才女に、父親の会計事務所を継ぐ決心を固めた陸上部のスター、交際の有効期限を切られているモテ男、そしてつい昨日たぶん恋人になったばかりの二人はありふれた存在だ――そんな七名を、先週末の金曜日の放課後に初めて顔をそろえた七名を、都立高校という小さなコミュニティが、新たなグループとして受け入れようとしている。
 コンパニオンみたいな二人の美少女と、ハンサムなモテ男が混じっているせいか、七名を見る周囲の眼差しの裏側で、羨望と嫉妬と軽蔑と黙殺が葛藤する様子に、この世界を見るわたしは、この世界の中にいるわたしが、戸惑いと優越を感じているのを見出す。それはわたしの笑い声や、笑う表情や、笑う仕草からも、はっきり読み取ることができる。しかしこの世界の中にいるほうのわたしは、今もなお不思議な浮遊感から抜け出せていない。周りには伝わっていないだろう。なにしろわたしはいかにも愉しそうに、おかしそうに笑っているのだ。
 けれども、わたしはふと異質な視線を頬に感じる。場の中心はすでに茶山くんから紀平さんに移り、紀平さんがわたしたちには理解不能な勉強方法をしていることに、呆れつつもみんなで笑っていた。視線の発信元は、言わずもがなの日浦くんだ。
「提督、ちょっと入れ替わってよ」
 吹雪さんは素直に席を替わった。腰掛けた途端、ぐいっと腕を引き寄せられた。
「佐藤、無理して笑うな」
 顔を近づけ、声を押し殺す。
「居心地悪いんだろう?」
「そんなことないよ。みんなに助けてもらったし」
「そいつは桃井から要請があったからだ」
 さっと血の気が引いて行く。
「気にしなくていいんだよ。弁当食い終わったらさっさと離れていい」
「だったら――」
 今度はいきなり沸騰した。
「日浦くんがきてよ!」
 張りつめていた思いが決壊する。
「なんで吹雪さんなの? なんで日浦くんじゃないの?」
「力不足だからなあ」
「なにそれ?」
「提督が派手に登場したほうが効果的だ、て言ったよね?」
 ふたたびがっくりと力が抜ける。
「そんなの、要らないよ……」
「要るんだよ。Rumors run a thousand milesと言ってだな。あるいはBad news travels fastかもしれん。佐藤由惟はどうして桃井の家から通ってるのか? 真実は桃井しか知らない。だから無責任な噂が自在に飛び交っている。みんなしてクソ忌々しい話をでっち上げてるんだよ。むろん当人の耳には入らない。腰抜けばかりだから。でも桃井がいない日は危ない。だから提督が登場する。抑止力を働かせられる人間てのはさ、もう生まれつきの能力なんだよね」
「でも、それなら日浦くんは……」
「この世界から抜け出せるまで踏ん張ろう。佐藤が嫌にならない限り俺はどこへでもついていくよ。だけど今の俺はなにせひ弱なもんでさ、手も足も出ないんだなあ。だから今は吹雪の手を借りるしかない。こんなこと吹雪くらいにしかできないし。――ほんと、情けない男でごめんな」
 ……ああ、そうだったのか。日浦くんはそうやって、四方八方に盾となり得る人間を配置して、巧みにこの世界を切り抜けているわけか。それに比べてわたしはなんて世間知らずなのだろう。吹雪さんが現れたことの意味など考えもしなかった。
 その吹雪さんが、わたしたちの話を隣りで聞いていたのか知らないけれど、ぐいっと腋の下に腕を突っ込んできて、日浦くんに引き寄せられていたわたしの身体を、強引に引き戻そうとする。お昼休みの時間は、あとまだもう少しだけ残っている。
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