§03 10/25 避難生活(1日目・朝)

文字数 5,331文字

「おはよう」
 洗面所かキッチンか、どちらかわからなかったのだが、とにかく水を使う音が聴こえたので、そっとドアを開けて廊下に出てみると、キッチンのほうだった。恐る恐る廊下の突き当りのドアを開けたわたしを、パジャマ姿のままの彩香が振り返った。
「お、おはよう……」
「うちの人たちとっくに出かけてるから、気楽にしていいよ」
「あ、うん」
「朝は食パンかバゲットかシリアル。どれかは必ずあるからさ、好きなの選んで。冷蔵庫の中は自由に食べちゃっていいけど、野菜ジュースには手をつけちゃダメ。なくなってるとお母さんキレるから。――と、由惟ちゃんていつもお弁当作ってもらってた? ああ、そうなんだ。じゃあ今日からは途中で買ってくか、学食か、自分で作るかしないとだね。わたしはいつもコンビニで買ってるけど、今日は由惟ちゃんもそうして。明日からどうするか自分で考えといてね。――あ、食パン、一緒に焼く?」
 トースターに食パンを並べてスイッチを入れた彩香に手招きされ、一緒に冷蔵庫の中を覗き込んだ。チーズとロースハムとあんずジャムをダイニングテーブルに並べた。スプーンとフォークを棚から出してくれ、カップに紅茶を注いでくれた。高校生の女の子と二人きりで朝食のテーブルに向かうのは、不思議な気分がする。わたしも高校生の女の子なので、彩香もきっと同じなのだろうと思ったら、本当にそうだった。
「あんまり急過ぎてパニクってるだろうけど、それわたしも一緒だから」
「うん、ごめんね……」
「ああ、いや、ごめんねは、よそう。それは二度と言わない。わたしが泣いちゃいそうになる。だからそれもう言わないで。いい?」
「……わかった。もう言わない」
「わたしやっぱりバターのがいいかな」
 日曜の午後、わたしは突然のつむじ風に攫われるようにして、桃井家のマンションにやってきた。もうずいぶん前にここを出た従兄の部屋が、使われないままに空いていた。土曜の夕方、弟は近くのシティホテルに軟禁され、母が叔母と連絡を取り、日曜の朝、当座のわたしの荷物――衣類や教科書や、ちょっとした身の周りもの――をいくつかの段ボールに詰め込むと、借りてきた大型車に乗せられて、三十分後には桃井家にいた。
 母はそのまま、かなり遅い時間までここにいて、叔母とリビングで話していた。わたしは持ってきたわずかな荷物を片付けてしまうと、することがなにもなく、ただぼんやりとベッドの端に座っていた。自分の身になにが起こったのか、ゆっくりと、ゆっくりと、噛み締めるようにわかってくると、あまりの愚かさに、涙が止まらなくなってしまった。母が出て行くときに言葉を交わしたはずなのだが、記憶にまったく残っていない。
 それでも、翌日の今日が月曜日であることは、なぜかしっかりと考えていて、学校に行かなければと思っていて、スマホのアラームを六時半にセットしていた。しかしちょっと早過ぎたらしい。三十分ばかりも静寂に耳を澄ませ、七時過ぎにようやく彩香がキッチンに立ち、この朝の初めての音を聴いたのだ。いや、早過ぎたということはない。彩香の両親である叔母と義理の叔父は、すでに家を出たあとだった。
「そう言えば、由惟ちゃん、昨夜シャワーした?」
「あっ……」
「だよね? 五十五分に出れば間に合うから、すぐしてきなよ」
「うん」
「シャンプーとか三つあるけど、松竹梅の竹がわたしのだから。見ればわかるから」
 一瞬、松竹梅はどちらがハイクラスだったのだっけ?と思ったが、真ん中を選べと言われたのだから関係なかった。確かに、見れば松竹梅は歴然としている。大急ぎでシャワーを使いながら、ふと、背丈ほどの姿見があることに気づき、表面の曇りをお湯で流すと、そこに自分の全裸が、ひときわ大きな乳房が映ってしまい、慌てて背を向けた。
「合い鍵渡してたっけ? ああ、昨夜渡したね」
 初めて降りる地下鉄の駅は、どうやら小さな頃にいくどか使っているようだが記憶になく、地下鉄の駅が大概そうであるように、駅名標の記載だけが頼りの無個性な駅だった。それでもわたしの最寄り駅との違いはあって、ここでは降りる人がずいぶんと少ない。乗り換えと商店街・オフィス街のあるわたしの最寄り駅に比べると、表情がいくぶん柔らかに感じられる。
 電車に揺られ、校門を入り、上履きに履き替え、教室に入るまで、彩香がずっと隣りにいた。入学以来初めての出来事であり、誰かに怪しまれるかと恐れたけれど、誰も怪しみはしなかった。学校では、私生活でも、ほとんどコンタクトのない二人なのだが、佐藤由惟と桃井彩香は従姉妹どうしであるとの認識が、思いがけず共有されているのかもしれない。珍しいね、と細田が口にしたくらいで、その細田もそれ以上そこを掘り起こそうとはしなかった。――いや、これらはすべて考え過ぎというやつだろう。佐藤由惟が誰と一緒に登校してこようが、相手が校内のスーパースターでもない限り、誰も気には留めない。それだけの話だ。
 しかし、昼休みにわたしたちが二人で教室を抜け出し、カフェテリアの隅っこに並んで座ったことは、さすがに少しばかり奇異に感じさせてしまったかもしれない。わたしはいつも細田と向井と一緒だったし、彩香はいつも瀬尾くんと一緒だったから、わたしと彩香が隣り合っている情景よりも、相手がいつもの人間ではないという事態のほうで、ちょっとした関心を惹いたようだ。カフェテリアのわたしたちが、向かい合わせではなく隣り合って座り、二人で話すことがあるというメッセージを、強く発信していたせいもあるだろう。
 実際、なにしろすべてが昨日の今日の出来事だったから、どうしても二人きりで話をする必要があった。わたしと彩香はまだ、たった一度きり、一緒に朝食をとり、一緒に登校したに過ぎない。彩香にしてみれば、事前の相談や前触れなどは一切なく、いきなりわたしが放り込まれてきたのだ。そのことに関してはもう謝る必要はないと言ってくれたけれど、迷惑に思っているところがあるのは当然であり、そう思ってしまうのは致し方のないことで、わたしはやはり彩香に配慮して暮らさなければいけないのだ。
「言いにくいんだけどさ、言っとかないと面倒なことになるから――」
「いいよ、なんでも言って」
「あのね、実は平日はさ、ほぼ毎日瀬尾がくるんだよね」
「あ、そうなんだ」
「うん。それでさ、その、由惟ちゃんがいると、ちょっとやりにくいって言うか……」
 確かに、廊下を挟んだ向かい合わせの部屋にいるのは、お互いに気まずい。
「六時半? 七時過ぎ?」
「ん? ああ、六時半で大丈夫」
「オッケー、わかった」
「どこか時間潰せるとこある?」
「う~ん、この際ちょっと勉強してみるとか?」
「おお……。マジで?」
「いやウソだけど。あ、わたしもカレシのとこ行けばいいか」
「え、なんだそれなら――」
「それもウソだけど。でも大丈夫。わたし実は漫研の幽霊会員なんだよね」
「漫研? マンガ? そんなのうちにあるんだ?」
「あるよ。でもなんだか知らないけどお金持ちな子たちの集まりでさ、ほぼ毎日ふつうのカフェとか入っちゃうの。ケーキセット千五百円とか頼んじゃって。わたしそんなお小遣いもらってなかったし、バイトもしてないからさ、なんとなく幽霊化しちゃったんだよね。でも今ちょっとお金持ちだし、なんていうか、え~と、禍を転じて福と為す?」
「それでいいの? いいなら、適当にやってくれると助かる」
「うん、大丈夫」
「それとね、週末なんだけどさ、こっちのほうが厄介なんだよね」
「なにがあるの?」
「けっこうな頻度でゲストがくる」
「ホームパーティ的な感じ?」
「パーティではないかな。いわゆる起業家どうしが集まって、仕事の話をしてる。それが居心地悪くてね。酷いんだよ、ほんと」
「彩ちゃんはどうしてるの?」
「取り敢えずご挨拶して部屋に籠ってる」
「瀬尾くんちに行ったりしないの?」
「一度行ったけど、あそこってすっごい仲良し家族なんだよね。むちゃくちゃ歓迎されたんだけどさ、正直あんまり愉しくなかった。そもそも週末は滅多に会わないし」
「なんで?」
「う~ん……。平日ほんと毎日会ってるから、さすがに飽きちゃうのかも」
「そういうもん?」
「わたしだけかな? とにかく週末どっか逃げ出したいんだよね、そもそもわたしがね」
「そっか。――えっと、彩ちゃんもけっこうお小遣いもらってるよね?」
「もらってるね」
「あのさ、ネカフェのシアタールームみたいなのって、どうかな?」
「あれってデートするとこでしょ?」
「女子ふたりでもいいんじゃない?」
「わたしもしかして由惟ちゃんに口説かれてる?」
「口説いてないよ!」
「あははっ」
 それでも、こんな気配などモノともしない人間が、世の中にはいるものである。
「へえ、なんか珍しい組み合わせだねえ」
「二人って従姉妹だったよね?」
「ちょっと、あっち行ってよ」
「こうして並べて見るとけっこう似てるじゃない」
「そうだね。これまで意識したことなかったけど」
「おい、座るな!」
「そんな邪険にしないでさあ、なになに? 男の話?」
「ほんとどっか行ってくれない?」
「なんかあったの?」
「瑠衣に話すことじゃない」
「一族に騒動でも? あ、遺産分割協議とか?」
「瑠衣、怒るよ」
「わかった、わかった。そんな怖い目しないでよ。落ち着いたら聴かせてちょうだいな」
 平木瑠衣と吹雪茉央の強襲を受けることが、そして、それを邪険に払い除けてしまうことが、これほどまでに世界をどよめかせるものとは、わたしには想像できていなかった。二人がカフェテリアから姿を消し、改まって彩香と顔を見合わせてみると、さっきまでの話をこの場で続けるのは、絶望的に不可能な企てに変じてしまっていた。
 彩香は苛立たしそうに顔を顰め、平木さんと吹雪さんが消えた廊下のほうをしばらく睨みつけてから、続きは夜にしようと言った。彩香も同じように、引っ掻き回されてしまったこの場の惨状を、すぐに修復できるとは思えなかったのだろう。
 昼食を終え、教室に戻ると、すぐに細田と向井に捕まった。あれこれと面倒くさいことを話しかけてくるのを適当にあしらいながら、わたしは彩香と瀬尾くんを注視していた。彩香がなにかを口にするたびに、瀬尾くんがわたしに目を向けるからだ。それを細大漏らさずしっかり受け止めなければいけないようで、緊張する胸が引き締まった。
 それにしても、ここまではちょっと意外なほどに、彩香との間に壁や溝を感じない。言外に険悪さのような要素を含む不仲ではなかったが、決して仲良く接してきたわけではない。ほとんど接触がなかったと言ったほうが正しい。それにしては、まるで本当に小さな頃から途切れることなく交流を続けてきた幼馴染みのように振る舞っている。突然の避難生活を余儀なくされたわたしの心情を慮って、ということなのだろうか?
 彩香自身は、確かにさほど目立たない(多分に自分からそれを選んでいる)タイプではあるけれど、平木さんや吹雪さんのようなハイクラスな女子の仲間に分類されてきたのは間違いなく、瀬尾くんも同じくハイクラスに分類される男子だ。二学期の初め、結城さんと雨野くんがクラスメイトたちを驚かせたほど、彩香と瀬尾くんのペアリングに驚いた人間はいない。承知していたはずの桃井彩香という女子の立ち位置を、瀬尾聡之という男子が隣りに置かれることによって再認識させられた。その程度の出来事だった。
 瀬尾くんがなにか良からぬ冗談を口にしたようで、彩香にパシンと頭を叩かれ笑っている。――どうでもいいことなのでちょっとだけ触れておくけれど、このとき瀬尾くんは、わたしを交えて三人ですれば…みたいなことを言ったらしい。
「そう言えばなんで急に桃井さん?」
「ちょっとこの週末に親戚の集まりがあって」
「ああ、法事みたいなやつ」
「うん、そんなやつ」
「桃井さんてけっこう謎だよね」
「誰ともつるんでるとこ見たことないしね」
「でも瀬尾くん捕まえちゃうんだもんなあ」
「まあビックリはしなかったけどさ」
「桃井さん実は美人だしねえ」
「おんなじ血が流れてるんだよなあ、て思ったよ、さっき食堂で」
「うん、うん。わたしもそんな感じしたあ」
 確かに四分の一は、系統図に線を引くように見れば、同じ血が流れている。そもそも進化生物学的には、我々はみんな遠い親戚だ。けれど、細田と向井がここでなにをほのめかそうとしているのか、わたしにもわからないではない。
 仮にそうだとしても、わたしたちはクラス(階級のほうの意味)が違うはずだと言いたいのだろう。血筋でもなく、家庭環境でもなく、この先にやってくる学歴や能力や収入など、そんな分かり易いモノサシでは測れない、わたしたちの社会は極めて複雑な重層構造をとっていて、わたしと彩香は立っているレイヤーが違い、それはどうしようもないものだと、そう言いたいのだろう。
 きっとまだ根に持っているのだ。カフェテリアで内緒話をするみたいに彩香と親密な関係なのであれば、どうして瀬尾くんの送別会に呼ばれなかったのか?と言いたいのだ。本当に面倒くさい。細田も向井も、少し黙っていてほしい。
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