§12 11/03 拾ってくれる神様(4)

文字数 5,455文字

 この日はグラウンドを回ることはせず、校舎を出るとまっすぐに校門からコンビニに向かった。さっき茶山くんが図書室を見上げたような気がする…と話すと、そう言えば週明けの一昨日も昨日も茶山くんが度々やってきて、俺ってそんなに怖い?としつこく尋ねたそうだ。そのたびに日浦くんは、佐藤さん(わたしのことだ)はあれ以来どうも眠りが浅くなって困っているらしいとか、ホームに通過電車がくると大袈裟に距離をとるようだとか、いい加減なことを言って茶山くんを凹ませて楽しんでいるのだとか。図書室を見上げたのは間違いなくそのせいだろう。わたしはじっとりと恨めし気な眼差しを日浦くんに向けてやった。
 カフェテリアはこの日も土曜日と同じ程度の混み具合で、窓際のテーブルはすべて埋まっていた。図書室を出る際、受け付けのカウンターに栗林くんの姿は見えなかった。代わりに、と言ったらおかしいけれど、カフェテリアでなんと瀬尾くんに出会った。
「あれ? バレー部辞めたんじゃないの?」
「手伝いで呼ばれた。駄賃は昼飯のみ。まったく酷い話だよ」
 ぶつぶつ言いながらやってきた瀬尾くんが、日浦くんの隣りに座った。
「日浦は休日のタスク遂行中? 由惟ちゃんエッチなことされてない?」
「されてないよ。日浦くんやさしいし、頼りがいもあるよ」
「うまいこと籠絡されてるなあ」
「ほんとは違うの?」
「よくわからんのよ、こいつ。付き合い悪いくせに、やたら顔広いだろう? いったいなんなの、おまえ?」
「そう言えばわたし、茶山くんとも紀平さんともお近付きになった。瀬尾くん二人と話したことある? わたしちょっと茶山くんに悪いことしちゃって……」
「あ、もしかして茶山に怖いって言ったの、由惟ちゃん?」
「えっと、それは……」
「笑えるくらい凹んでるから笑っちゃったよ。あいつ見かけによらずメンタル弱いからさ、女子にもむっちゃ弱いからさ、由惟ちゃんやさしくしてやってよ。由惟ちゃんみたいな女の子にやさしくされたらさ、茶山バカだから舞い上がって、来年のインハイ勝っちゃうかもしれないよ」
「わたしなんかじゃダメでしょ。また平木さんと吹雪さんにお願いしたら? あ、バレー部の送別会って盛り上がった?」
「盛り上がるわけないだろ? 平木と吹雪じゃみんな緊張して、チンコしぼんじゃうって。――あ、ごめん」
「……いや、まあ、いいけど」
 日浦くんは穏やかに微笑みつつ黙っている。瀬尾くんが言うように、日浦くんはよくわからない人だ。先週の金曜日は平木さんも吹雪さんも日浦くんを知っている様子だった。土曜日には茶山くんを目の前で走らせてしまった。月曜日には紀平さんと幼馴染みであることが判明し、水曜日の今日は瀬尾くんから親し気に近寄ってきた。こんな言い方が正しいとは思わないが、日浦くん自身は今のところ何者でもない。わたしと同じように、学内に於いてさえ埋もれてしまう存在に思える。にもかかわらず……まさに瀬尾くんが言うように、日浦くんはよくわからない人だ。
 カフェテリアには、祝日に丸一日練習するようなことのない、文化部や同好会の女の子たちが、いつまでもだらだらと居残っている。瀬尾くんの手伝いも午前中だけだそうで、今日は彩香と会う約束がないらしい。わたしも日浦くんも時間潰しのために図書室にきているわけで、だからわたしたち三人も、やはりいつまでもだらだらと居残っている。運動部がいなくなったあと、気がつけば男子は瀬尾くんと日浦くん二人きりだ。思いがけずおしゃべりな瀬尾くんと、ここでは何故か口数の少ない日浦くんは、だから嫌でも目立つ。それは裏返してみれば、この二人と一緒にいる(=男子二人と一緒にいる)唯一の女子であるわたしが目立っている、という状況でもある。なんとなく、居心地の悪さを感じ始めた。
 悪い予感は概ね当たる。どうしてそうなのかなんて知らない。だけど説明はできる。起きてしまったことは大概説明できてしまう。カフェテリアで食事をしていたのか、通路に並ぶ自販機に飲み物を買いに来たのか、陸上部の誰かが午後の練習の中で、ここに日浦くんと瀬尾くんとわたしがいることを、茶山くんに伝えたのだろう。
「そうか。瀬尾も佐藤さんと知り合いだったか」
 長方形のテーブルの向かい側に三人の男子が並んでしまい、それも、シャッターの閉まっているカウンターを背に三人が並ぶと、だらだらと居残っている女の子たちの目には、まるでアリーナ席をわたしが独り占めしているかのように映るはずだ。
「由惟ちゃんは桃井の従姉妹なんだよ」
「うむ、そうだってな。道理で佐藤さん綺麗なわけだよ」
「そう言えば由惟ちゃんに言われたんだって?」
「瀬尾、それを蒸し返さないでくれ」
「じゃあなんでここにきた? なんらか名誉挽回を図りたいんじゃねえの?」
「まあ、それもないではないが……」
 うっかり、怖かった…と言ってしまったわたしに配慮してか、茶山くんは日浦くんの隣りではなく、わたしから遠い瀬尾くんの隣りに座った。わたしの前に日浦くん、その隣に瀬尾くん、そのまた隣りに茶山くんと並び、体格差が音階のように右上がりになっている。
「日浦は、あれか、佐藤さんと、その、付き合ってるわけか?」
「そんなふうに見える?」
「見える」
「ところが事情はもっとずっと錯綜してるんだな」
「そうなのか。よくわからないが、日浦はそれに手を貸しているような話か?」
「お、なかなか鋭いね」
「いや、ちょっとそんな噂を耳にした。俺に、なにか手伝えることはあるか?」
「……う~む、ない」
「そうか。それは残念だ」
「茶山おまえほんとなにしに来たの?」
「瀬尾、聞いてくれ!」
「な、なんだよ、急に……」
「日浦も、よければ佐藤さんも、聞いて欲しい」
 恐らく、わたしの背中のほうに居残っている女の子たちが、このテーブルに注目しているせいだろう、茶山くんの切迫した様子が、カフェテリアの空気を緊張させ、わたしたちばかりか、ここにいるすべての生徒たちに、耳を傾けるよう促してしまう。
「俺も部活を辞める」
「ふぇっ…!?
「実は、親父の会計事務所を継がなければならん」
「あ、そういう話?」
「どう思う? こういう考えは間違っていると思うか? 人生の選択はゼロ地点から始めるべきだと思うか? 事務所を継ぐのが嫌なわけではない。勉強するのだって嫌だとは思ってない。しかし俺はそれを自ら選んではいない。それはやはり間違ったことか? それとも奢った考えか?――瀬尾、おまえどう思う?」
「なぜそれを僕に訊く?」
「日浦、おまえは?」
「間違ってないと思うよ」
「何故そう思う?」
「文明以降の現生人類は歴史の先端に生まれてくる。アインシュタインですら、もし千年前の北米に生まれていたら物理学者にはなれない。俺たちは生まれた時に否応なく歴史的な条件を与えられ、その下で物事を選ぶほかにない存在だ。それは謙虚に感謝すべき事柄だと、俺は思う」
 ガタンッと音を立てて、茶山くんが立ちあがった。
「立つなよ、鬱陶しい!」
 瀬尾くんが、立ち上がった茶山くんの腕を引っ張り、椅子に戻した。
「今の日浦の考えだが、瀬尾はどう思う?」
「冷静であり且つ世界に対して節度ある態度だと思うね」
「そうか。じゃあ佐藤さん、君はどう思う?」
「……わたしは、その、日浦くんて、素敵だな、て思った」
「ん…?」
 ちらりと目を向けると、日浦くんは澄ました顔をしている。ちらりと目を移すと、瀬尾くんがニヤリとしている。ちらりとさらに目を移すと、茶山くんがぽかんと口を開けている。わたしは斜め上の答えを返してしまったらしい。が、茶山くんはすぐに破顔した。
「佐藤さんに素敵だと思ってもらえるなら、間違いないな」
「あ、いや、わたしなんかのこと、そんなふうに……」
「綺麗な女の子に素敵だと言ってもらえる選択は正しい。瀬尾、そうだろう?」
「その通りだ。しかしおまえ、ほんとに辞めるの? もう一年あとでもよくない?」
「俺は頭抜けた秀才じゃない。地道に積み上げて行くほかない人間だ。そうと決まれば早いほうがいい。どうせファイナリストにはなれない。今年のインハイで痛感した。瀬尾だってそういう話だったろう?」
「俺はあくまでも弱小チーム内での話だぜ。インハイ出てるやつとは土俵が違い過ぎる」
「そんなことはない。勝てないという事実を受け入れるのは厳しいが必要なことだ。上を見ているからこそ勝てないという事実が見える。それを見ないやつはどこであろうとダメだ。俺たちが苦しんできた根っこは同じだよ」
 こうしていつの間にか、どうしようもないバカだと思っていた男の子たちのほうが、遠くまで見える場所に立っていることに気づかされる。今のわたしの頭の中は、さっきの日浦くんとの抱擁の記憶ばかりが波打って、今にも溢れそうだというのに。
 瀬尾くんはまだ茶山くんに、あと一年やっても間に合うはずだと説得を続ける。しかし茶山くんは巨大な岩のように、びくともしない。わたしはもちろんなんにも知らなかったのだけれど、瀬尾くんが抜けた男子バレー部は、この秋の予選会で、屈辱的な大敗を喫したらしい。屈辱的であったとは、どうやら点差の話ではなく、力の差があると承知の上で、敢えて挑んでいく姿勢のようなものを、その欠落を、茶山くんは「屈辱的」と言うのだった。あのチームが失ったものは、まさに瀬尾くんが背負っていたのだ、と。
 今度は瀬尾くんこそがチームに復帰すべきであると、茶山くんのほうから説き始める。二人はそのあいだを何度も往来する。当たり前だと言われそうだけれど、瀬尾くんも茶山くんも、今でも悔しくて仕方ないのだということが、痛いほどに伝わってくる。これもまた当たり前だと言われそうだけれど、トップチームであることやトッププレイヤーであることばかりが、価値を持つわけではない。そんな平凡な真実を、わたしはここで初めて知る。届かない現実があり、それに向き合うことの意味を、初めて考える。
 やがて瀬尾くんと茶山くんが黙り込むと、日浦くんがあらぬ方を向いて呟いた。
「惨敗することのない人生なんてクソおもしろくもない、て話だよね」
 そのまま椅子から立ち、テーブルを離れる日浦くんを、わたしは慌てて追いかけた。
 カフェテリアを出たわたしたちは、並んで階段を上る。祝日の階段は、並んで上っても、誰かの邪魔になることがない。
 図書室のカウンターには教師が座っている。栗林くんはきっと、二度と戻れない追放の旅に自ら出立したのだろう。
 書架の奥の閲覧席は、午後になると直接には陽が当たらなくなる。けれども窓は大きく、日が暮れるまで明るい。いつものように右端の席にわたしが、左隣りに日浦くんが座る。わたしは『舟を編む』を開き(まだ読み終えていない)、日浦くんは『チューリングの大聖堂』を開く(今日からだ)。
 一時間半ほどが経過する。その間、いつもなら消えてしまう日浦くんの気配を、わたしは空気を伝わる熱として物理的に感じ続ける。恒温動物の放熱として、生きている命そのものとして。それでも物語は頭に入ってくる。愉しんでいる。
 日浦くんが分厚い本をパタンと閉じる音に、わたしも追いかけて、薄い文庫本をぱさりと置く。二人して窓の外を眺める。秋の午後の、夕暮れの前。やっと日浦くんが立ち上がり、閲覧席から離れる。わたしも立ち上がり、書架のあいだに消えた背中を追う。海外文学、世界史、日本史の先で折れ曲がり、古典、哲学、心理学の先で立ち止まる。
 書架に背中をつけて、日浦くんが立つ。わたしはそっと両腕を差し入れる。途端に胸と胸が合い、深い息を吐く。書架は回る遠心分離機の外壁であるかのように、わたしの胸が圧しつけられる。少し顔を持ち上げれば、頬と頬が触れるくらいの密着。わたしはどうしても尋ねないではいられない。避けて通ることができない。
「もう後悔してる感じ?」
「なにしろ女帝と提督は恐ろしいよ」
「それでもこうしてるのはどうして?」
「どうしようもなく惹きつけられてしまったからなあ」
「うん、そこなの。――そこって、栗林くんだってそうだったはずなのに、栗林くんとはなにが違うの?」
「ああ、それね。う~ん、そうだなあ、カッコよく言えばね、あいつは佐藤を傷つけるようなアプローチをして、俺はそれだけはしちゃいけないと自制してきた。たぶん違いはそこ。そこだけ。些細なことだけど、残念なことに栗林の前には女帝も提督も現れてくれなかったんだよ。実際あいつらが登場しなかったら、俺もうまくできていたか、正直自信がない」
「そもそもわたし、純粋な被害者じゃないのよ」
「栗林に対しても?」
「あれは、違うと思いたい……」
「なるほど、そうか。不純な被害者ね。――いやあ、やっぱり佐藤は難しいなあ」
「やっぱり後悔してる?」
「大いに後悔してるねえ。女帝と提督の顔を思い浮かべると、ほんと縮こまるよ」
 そう言いながら、片方の手で胸を、片方の手で腰を、いきなり強く引き寄せるのだ。わたしもそれに応えてしまうのだから、応えたくなってしまうのだから、本当にどうしようもない。これが、母の望んでいたことだとは思えない。償いをしろと、きっと母はそう考えたのだろう。不純な被害者が、純粋な加害者をつくったのだ、と。だから、母はきっと納得しないだろう。わたしがこうして今、図書室の書架の隅っこで、男の子とぴったり身体をくっつけているなんて。わたしがこの胸を、またそんなふうに使っているだなんて。
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