§02-1 10/23 わたしはどうかしていた……(1)

文字数 2,533文字

 朝から雲ひとつなく晴れ渡った一日が、これといってなにをするということもなく、ただぼんやりと家の中で過ぎて行く。大通りから短い商店街に入った奥の、小さな雑居ビルや暖簾の古いお店やらがひしめく一角で、一階が父の税理士事務所、三階にわたしの部屋。――眺望なんてものはなく、向かいの古い賃貸マンションから丸見えになってしまうから、窓はほんの少ししか開けない。レースも引いている。五年ほど前にリフォームをしたから綺麗に見えるけれど、ここは父が育った家であり、祖父が税理士事務所を開いた場所だ。
 わたしの部屋が西の端、弟の部屋が東の端、真ん中に両親の部屋――階段を下りるとリビング・ダイニング・キッチン・バス――さらに階段を下りると祖父の部屋があって、事務所の裏に通じている。
 今年は受験生の弟なのだが、なかなか勉強に身が入らないタイプのようで、九月末の模試では、わたしの高校の安全圏には届いていない。十月の模試でも変わらなければ、ランクをひとつ落とすことになるだろう。さして勉強してもいないくせに、母によれば、それはどうやら悔しいらしい。だからこのところ少しばかり集中しているように見えなくもない。
 それでも一時間半ばかりが経つと、テキストを手にふらりとわたしの部屋に入ってきて、わたしをベッドの端に座らせると、ものも言わずに数分ばかり、後ろから両手でわたしの胸を揉む。背中やお尻に体を擦りつけてくるようなことはしない。ただ、両脇の下から手を差し入れて、シャツとブラの上から、中学生としてはずいぶん大きな手で包み込むように、ゆっくりとわたしの胸を揉む。乳首を狙って刺激してくるような真似もしない。ただ、重さと柔らかさと温かさとを、エネルギーを充填するように吸い上げて、部屋を出る前にぺこりと頭を下げる。そしてふたたび(たぶん)勉強に取り掛かる。
 この夏の集中講習が始まったばかりのことだ。わたしはこの夏の初めに買った新しい服を、結局それを着て表に出たことのない服を、一人の部屋で身につけて、鏡の前に立っていた。いきなり後ろから胸に手を置いてきた弟は、これ以上のことはしないから…と苦しげな声で訴えて、ゆっくりとわたしの胸を揉み始めた。これ以上のことはしない…と繰り返し言うものだから、それにその声の必死さに驚きつつ虚を衝かれた感じで、弟を跳ね退けることを忘れた。実際その後も弟は、それ以上のことをしていない。
 当然とは言い切れないけれど、両親は気づいていないと思う。弟がわたしの部屋を尋ねるのは、勉強していてわからなくなったところを教えてもらうためだ、と間違いなくそう思っている。実際それも少なくはない。わたしの胸から手を離したあと、ベッドの端に並んで座り、膝の上にテキストを開くことも少なくはない。そして弟は、わたしが説明してあげているあいだは、決してその手をわたしの身体に伸ばしてはこない。並んで座る肩や腕や腰をくっつけてくるようなこともしない。そのフェーズはひとつ前に終わっているのであり、今は勉強を教えてもらっているのであり、そこには明確なスイッチがある。鉄道が分岐するポイントに、昔あった(映画などで見る)大きな切り替え装置があるけれど、あれを倒すみたいにして、簡単には元に戻せない感じで、フェーズがしっかりと切り替わる。
 最初は、わたしはいつものように、酷くガッカリした。弟がわたしの胸を見ていることは少し前から承知していたし、それは弟に限らず学校の生徒や教師、電車に乗り合わせた客、道を歩いていてすれ違う見知らぬ人も皆そうだからだ。中でも同じ家に住んでいる弟が、その特権的な立場を利用し、見るだけで飽きたらず手を伸ばしてもくるのは自然な成り行きであるという考えに、そう考えてしまう自分に、酷くガッカリした。そんな大きな胸を突き出しているわたしのほうが悪いのだという、セクシャルハラスメントの常套的な開き直りの言説を、わたしがなんとなく受け入れてしまっていることに、酷くガッカリした。弟はきっとそのうち身体を押しつけてくるだろうし、手も下のほうに降りてくるだろうし、どこでそれを断ち切るかを慎重に見極めて、弟を傷つけることなくやめさせる方法を、あれこれと考え始めところで、ガッカリは頂点に達した。――ところが、弟の振る舞いは、いまも最初となにひとつ変わっていない。ただわたしの胸を着衣の上から手の中に納め、数分間、ゆっくりと揉む。それだけだ。
 しばらくのあいだは、いつそこを踏み越えてくるだろう…と緊張した。しかし、いつまで経っても変わらないので、そのうち緊張はどこかに消えた。弟の手は、そのようにプログラムされている産業用ロボットの手のように、同じ動作を繰り返すばかりだ。
「勉強はいいの?」
 すっと立ち上がった弟の顔を見上げて尋ねた。
「今日はいい」
「最近わからないとこなくなってきた感じ?」
「まあ、うん」
「じゃあ、今月の模試では届くかな?」
「わからない」
 弟はすぐにでもここを立ち去りたい様子だ。
「お姉ちゃん今日は出かけないから」
「うん」
「ずっと部屋にいるから」
「うん」
「勉強頑張ってね」
 弟がドアを閉めたあと、ちらりと窓に目をやった。十センチほど空いた隙間から風が流れ込み、レースが泳いでいる。向かいに立つ賃貸マンションの四階のベランダを、首を捻れば斜め上に見えるように塩梅して、ベッドに横になった。間取りは1DKと1LDKだと聞いている。ほとんどが独身の社会人であることは、それも大半が男性であることは、干してある洗濯物を見ればわかる。机に座った正面に見える三階の住人も、ベッドに仰向いて斜め上に見る四階の住人も。

 ……わたしはどうかしている。……誰も止めてくれない。……知らないのだから止めようがない。……少し強い風にレースが舞い上がる。……四階のベランダに人の姿はない。……しかし窓が開いているからたぶん留守ではない。……週末だから洗濯物が風に揺れている。……同じ風がさっきからレースを踊らせている。……揺れる洗濯物の向こう側はよく見えない。……わたしはどうかしている。……誰も止めてくれない。……わたしが誰にも言わないから、誰にも止めようがないのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み