§08 10/29 避難生活(5日目・夜)

文字数 5,723文字

「でさ、なんで日浦が客人面(ゲストづら)して座ってる?」
 三人掛けのロングソファーにわたし、彩香、日浦くんが座り、向かいの一人掛けソファーふたつに、わたしの前に吹雪さん、日浦くんの前に平木さんが座っている。言われてみれば確かに日浦くんのポジションは「客人面(ゲストづら)」して座る場所かもしれない。
「俺はただの運び屋だけど」
「ただの運び屋は部屋ん中に上がり込まない」
「引き摺り込まれたんだから、しょうがない」
「断れよ」
「精いっぱい抵抗したんだけどね」
 平木さんは大袈裟に肩を竦め、前のめりになっていた体を、呆れて脱力したようにソファーに深く沈め、目を閉じなにごとか考え始めたらしく、天上を仰向いた。美しいおとがいの稜線が、明らかにわたしたちとは違っていることが、そうするとよくわかる。
 そしていつものように、あとをすぐに吹雪さんが引き受ける。それも、なんだか見当違いと思える方面から。この二人はいつもセットだ。表裏ではなく、今もそうしているように隣り合い、トランプタワーを組み立てるように、互いに支え合っている。
「彩ちゃん、由惟さんの隣り代わって」
「ダメ。茉央はおっぱい触りたいだけでしょ」
「わたしがしたほうがヒーリング効果高いよ。彩ちゃんそういうの持ってないじゃん」
「あんたのほうが癒されたいだけじゃない」
「彩ちゃん相変わらずケチだなあ」
 確かに、ヒーリング効果の高さは認めざるを得ない。彩香の腕と、吹雪さんの腕と、両方を知っているわたしが言うのだから、間違いない。吹雪さんはなんらか不思議な化合物を、その小さな体から分泌している。触覚と嗅覚ばかりでなく、むしろ、そのような特定の器官に限定するのが難しい。そして、わたしたちに生理的な変化(否応のない反応)を引き起こす。そんな物質。いや物質なのか? たぶん科学的に説明可能な現象ではないだろう。
 彩香と吹雪さんが、この際どうでもいい問題でいつまでも押したり引いたりをしているあいだ、平木さんはじっと目をつむったまま天井を仰ぎ、日浦くんはその斜め下から見る美しい顔に見惚れ、ときどきハッとしたようにわたしたちの顔を見比べる。この場がどこにどのように落着するのか、日浦くんに見通すのは難しいだろう。わたしにもわからない。平木さんがなにごとか考えているのは間違いなく、考えているのは平木さん一人だ。
「日浦くんてさあ、部活入ってないの?」
「部活は、いちおう漫研に籍だけはある。たぶん、まだ」
「漫研て漫画描くの? それとも読むだけ?」
「うちのは読んでべしゃるだけ。昔は同人誌とか作ってたみたいだけど」
「同人誌ってエッチなやつでしょ? そんなの学校で――」
「彩香、あんた瀬尾と別れなよ。ちょうどいい機会じゃない。どうせ別れる予定なんだからさ」
 平木さんがそんなことを考えているとは、思ってもみなかった。もちろんわたしのために瀬尾くんと別れろという意味に違いない。わたしがどこかで時間を潰さざるを得ない状況を解消し、わたしがどこだかおかしなところに嵌まり込んでしまうリスクを減らすために。
 どうしよう……と迷っている隣りで、彩香の動き出しそうな気配を察し、なぜだかそれが平木さんの言葉を受け入れる方向に働きそうな気がしたものだから、わたしはその前に、彩香の機先を制し、それを言わせないように、言葉を被せなければいけないと思った。
「ダメだよ! そんなことしないで」
「二度も潰れた人間に口を挟む権利はない」
「来週から大丈夫だから。明日から大丈夫だから」
「なにを根拠にそれを言うわけ?」
「日浦くんがいる。日浦くんといる。図書室で本読んだりおしゃべりしたり。明日から日浦くんが隣りにいるから、彩ちゃんはこれまで通りでいい」
 そう訴えるわたしの顔を誰も見ていないのは、たぶん、わたしが勝手にそう言っていることが明白だから、なのだろう。代わりに、平木さんも吹雪さんも彩香も、日浦くんを注視する。いきなりボールを投げられた日浦くんが、それをどのように扱うか、三人とも無表情に見つめている。わたしは思わず下を向いた。本当はきちんと受け取ってもらえるよう、わたしも日浦くんを見つめるべきところなのかもしれない。でもそんな勇気はなく、口にしてしまった言葉が室内に響き、そのまま落ち着き場所を探して漂う気配を、下を向き、ぎゅっと目をつむり、すべての感覚を研ぎ澄ませて待った。
「日浦、いまの真に受けていいの?」
「まあ、実現可能な未来予想図ではあるね。でもそうであれば事情を聴きたい。背景を知りたい。いま俺の上にその権利が生じた」
「それは日浦には話せないよ」
「知らずに俺になにをしろと?」
「由惟の隣りに座っていてくれればいい。時々おしゃべりに付き合ってくれればいい。いま由惟がそう言ったでしょ?」
「それだけで佐藤の問題が解決するって、本当に桃井は請け合えるの? それなら自分が瀬尾を失わずに済むって、いま大急ぎで計算したんじゃない?」
 一瞬の間があって、なにかを呑み込み溜めるようにしてから、彩香が吐き出した。
「計算したよ。わたしまだ瀬尾くんを放したくない。だから日浦が由惟を引き受けてくれるならラッキーだって思った。それは否定しない。わたしは由惟を日浦に押しつけようとしてる。それは否定しない。だから日浦も考えて欲しい。わたしが由惟の前で言っちゃいけないことを言ったんだから、日浦にも由惟の言葉を真剣に受け止める義務が生じた。そうだよね?」
 平木さんがなにか言うかと思った。が、なにも聴こえなかった。わたしの聴覚がうまく機能しなくなっていたせいだ。平木さんはやはりなにか言ったかもしれない。でもわたしの聴覚は本当におかしくなっていたので、なにも聴き取れなかった。

 三人をエントランスホールで見送ったあと、玄関のドアを閉め、廊下に立ってちょっと考えてから、彩香は彼女の部屋を選んだ。いつものようにベッドの上で壁を背に並んで座り、足下を掛布団で覆った。夜八時を過ぎていたが、彩香の両親ともまだ帰宅していない。わたしたちは晩御飯をとることを忘れていた。忘れていることも思い出さなかった。
「由惟ちゃん、ごめん。わたし酷いこと言った」
 黙り込む時間は短いほどいいと、彩香もきっとそう考えたのだろう。
「でも半分はウソ、でも半分はホント。瀬尾くんをまだ手放したくないのは本当、日浦に由惟ちゃんを預けたいのは嘘。日浦なんてよく知らないし、図書室で隣に座って少しおしゃべりできればいいなんて、そんなので充分なはずない。それが日浦でいいって本当に由惟ちゃんが思ってるとも信じられない。違うかな?」
「……あ、あのさ。日浦くんさ、わかった、て言ってくれたんだっけ?」
「は…?」
「いや、あの、なんかわたし、途中から頭ん中真っ白になっちゃって、だから、あの、日浦くんて、いいって言ってくれたんだっけ?」
 ちょっと眉を顰めたあと、まるで小さな女の子を見るような顔つきになったのは、当然と言うか、恥ずかしくて、体中が赤くなるのをどうしようもできない。
「日浦ってどんなやつ?」
「どんな、て言われても……」
「じゃあ、今日の日浦、なにしてた?」
「えっと、書架のあいだの床に座り込んで、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の(下)を読んでた。わたし気づかなくて日浦くんのこと蹴飛ばしちゃって、いやちょっと足の先が当たっただけだと思うんだけど、なんか日浦くん脇腹押さえて苦しそうにするから、わたしほんと慌てちゃって、そんなとこに座ってるほうが悪いのに、なんかわたしが悪いみたいな感じに――」
「そのあとどうしたの? 隣りで本読んでたみたいな言い方してたけど」
「あ、うん。書架の奥に少しだけ閲覧席あるの知ってる? グラウンドに向かって横に並んで座れるとこ。そこで並んで本読んでた。それで六時ちょっと前にちょうどキリのいいところになったから、あ、彩ちゃんに借りた『蜜蜂と遠雷』読んでたんだけど、帰ろうと思ったら日浦くんも帰るって言うから待ってたら、日浦くんなかなか読み終わらなくて、わたしたぶん十分くらい待たされて、それならわたしだってもう少し――」
「結局は一緒に学校出たんでしょ?」
「そう。日浦くん同じ電車使ってるんだよ。使ってたんだよ。だから一緒に帰ろうって言ったんだと思うけど、でもわたしいま彩ちゃんちだからそう言ったらすごく驚いて、凄い話だな…とか、えっと、あ、壮絶な話だな…とか言われちゃって、でも事情は聞きたくないとか言うから、そんなのわたしだって言えないし、そんなの言えないよって――」
「日浦、明日はどうするって言ってた?」
「明日も図書室にいるって。たぶん『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の(外伝)の続きを読みたいんだと思う。あ、もしかしたら(エバー・アフター)かもしれない。日浦くんビックリするくらい読むの速かったから、今晩で(外伝)読み終わっちゃうかも。でも、今夜は金ロー見るって言ってたから読み終わらないかな? あ、でも――」
「金ロー見なくても、たぶん読み終わらないと思うよ」
「……なんで?」
「明日、由惟ちゃんと図書室で会えるから」
「別に読み終わっても会えるよ?」
「ううん、今夜は読めない。明日会えるから、もう今夜は読まない」
 一昨日の晩と同じように、彩香に抱き締められた。だけど今度は彩香の頬は泣かなかった。わたしはいま、たぶん十五歳の、いや十二歳の女の子みたいなことを、一生懸命口にしていたのだろうと思った。そう思うとものすごく恥ずかしくて、話し始めたときも恥ずかしさに体中真っ赤になったのだけれど、さらに赤みが増して必死に放熱を始めたから、きっと彩香は暑かったろうと思う。それでもずいぶん長いあいだ、わたしの発熱と放熱のバランスが整うくらいまで抱き締めていてくれたので、わたしはようやく彩香の言ったことの意味が、日浦くんがどうして今夜『外伝』を読み終えることができないのか、それをしないのか、その理由を理解した。明日から、そして来週の放課後はずっと、わたしは図書室の閲覧席で過ごす。隣りにはいつも日浦くんがいる。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を四冊読み終えたら次になにを読むのか想像できないけれど、またビックリするくらいの速さでページを繰る。日浦くんが隣りでページを繰る音を聴くのは、視界の端にその様子を見るのは、きっとわたしを愉しい気分にさせる。彩香はそういうことを言ったのだ。
「……彩ちゃん、お腹空いた」
「そうだ!」
 ガバッと跳ねるように、わたしから離れた。
「まだなんにも食べてなかった!」
「まいばす閉まっちゃった?」
「あそこ零時までやってるから大丈夫」
「なんか温かいもの食べたいね」
「だねえ。二人用の鍋セットとか売ってないかな?」
「お鍋いいね。わたしチゲ鍋好き」
「え、わたし辛いのダメ」
「え、そうなの?」
 冷静に、落ち着いて考えてみれば、彩香の言葉に不誠実なところは一点もなく、わたしにとって予想外の内容も含まれておらず、だから、聴覚がおかしくなってしまった要因を、直接的に彩香が口にした内容に求めるべきではない。理屈としてはそうなる。けれども、率直な言葉で想定内のことを聞いたとしても、むしろ、その言葉が率直で想定内であったからこそ、聴覚は機能不全に陥ったのだと考えるべきだろう。
 彩香はわたしを嫌ってはいない。それはこの一週間の言動からも疑う必要はない。他方で、或る側面においてはわたしが邪魔な存在であることは事実であり、或る側面においてはわたしが慰めになっているのも事実であり、たぶん、他人とは本来的にそのような多面的な存在として、わたしたちと関係してくるものなのだ。当たり前のことだけれど。
 食事をして(白湯鍋になった)、順番にシャワーを浴びて、その間に彩香の両親も帰宅して、日付が変わる前におやすみなさいを口にした頃には、わたしは落ち着いて現状を考えられるようになった。結論から先に言えば、わたしはやはり吹雪さんと同じではない。彩香が率直に思いを口にしてくれたことで、彩香の家は(仮)の状態から抜け出したようにすら思える。今のわたしが帰る場所はここで、この母方の叔母の従兄の部屋で、同居する親族に配慮すべき点があるとは言うものの、居心地は決して悪くない。忌み嫌うべき人たちでも、闘うべき人たちでも、逃走を企てるべき人たちでもない。
 でも、吹雪さんが言っているのは、そういう意味ではないのかもしれない。わたしが目を逸らしているだけだと考えられなくもない。弟ではなくわたしのほうが家を出ることになった事情の、いや事情は兎も角そのような現象への思いの姿は、もしかすると吹雪さんが抱えているそれと似通っているのかもしれない。
 事情を拾ってみれば、家を出るのが弟ではなくわたしのほうであることは、合理的な選択だ。弟は中学三年の受験生であり、だから、いつも彩香ひとりしかいない、食事も適当に済ませているような家に預けるわけにはいかず、ほかに預け先も思い浮かばないし、まさか中学生にホテル暮らしを続けさせるなんて論外だから、わたしのほうが彩香の家にくるのは当然の成り行きなのだ。
 しかし、合理的であれば正しいという話ではないというところに、きっと吹雪さんは立っているのだろう。あるいは従兄がそうしたように、彩香もまた同じような場所にいるのだろう。平木さんのことはまったく知らないけれど、彼女たちが互いにとても似通った景色を見ている可能性はある。あの三人はそのようにして繋がっているのだ、と言えるような景色だ。でも、やはり、わたしが見ている景色は、ちょっと違う。
 家を出たのがわたしのほうであることは、深く考えるべき問題でも、誰かと議論すべき問題でもない。わたしはただ、十七歳くらいの女の子がふつうに直面する、自身の女性性と言うか、それも過度に強調されてしまう問題について、周りから強調されていると受け止められてしまう問題について、ふつうに困っている。ただそれだけだなんて言うつもりはない。でもわたしはこれまで一度として、そのことに悦びを感じる経験をしていないのは事実だ。
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