§06 10/27 避難生活(3日目・夜)

文字数 5,927文字

「でさ、なんで瀬尾が主人面(ホストづら)して座ってる?」
 三人掛けのロングソファーにわたし、吹雪さん、平木さんが座り、向かいの一人掛けソファーふたつには、わたしの前に彩香、平木さんの前に瀬尾くんが座っている。言われてみれば確かに瀬尾くんのポジションは「主人面(ホストづら)」して座る場所だ。
 平木さんの指摘に、吹雪さんが可愛らしく、プッと噴き出した。吹雪さんはタクシーの後部座席からロングソファーに移っても、相変わらずわたしの左腕を抱き、やはり自分の右腕をわたしの脇の下に深く差し込んでいて、僅かに柑橘系を感じさせる甘い香りでわたしを包み込んでいる。向かい側で、彩香が睨みつけているのが気にかかるけれど。
「いや僕、ほら、桃井のカレシだから」
「知ってるよ」
「だよね。じゃあ、なに?」
「具合を悪くした女の子がタクシー使って帰ってくるんだよ。男は遠慮して姿を消すもんでしょうが、ふつう」
「でも由惟ちゃん元気そうだよ?」
「瀬尾は結果をもって行動選択の是非を決めるわけ?」
「いや、ごめん。そういう考えで言ったわけじゃ――」
「それより彩香、佐藤はいつからここにきてる?」
 瀬尾くんへの追及はあっさりと放り投げられた。別に瀬尾くんがいて悪いわけではない。結果としてもそうだけれど、行動選択としても間違ってはいないように思う。男手が必要になる事態だって起こらないとも限らない。たとえば、彩香の顔を見た途端、わたしがまた倒れそうになってしまうとか……。瀬尾くんが抱き起して抱き上げて、わたしのベッドに運んでくれるとか……。自分でもなにを言っているのかわからないけれど……。
「詮索するな、て言ったよね?」
「何故を尋ねなければええやんか?」
「ダメ。中途半端な関西弁も腹立つ」
「それが親族を黄泉の比良坂から連れ帰り、あまつさえリムジンに乗せて送り届けた友人への態度なの? 忘恩もここに極まれり、実に嘆かわしいばかり――」
「そこだけはありがとう。でも瑠衣、もう帰って」
「なッ…!? まさかここで追い払うつもり?」
「茉央もいつまで由惟のおっぱい触ってるの? 二人とも帰って」
「だって由惟さんのおっぱいおっきくてやわらかくて――」
「うわあ、やっぱりそうなのかあ。そうだよねえ。いやでもほんと、今日は二人ともありがとう」
「君も帰るんだよ」
「え、僕も?」
「瀬尾、ざまあ」
 まさか、吹雪さんがずっと腕を絡めてくる狙いが、わたしのこの無駄に(無駄かな…?)大きな胸に向けられていたとは、正直思いも寄らなかった。確かにちょっと腕の差し込まれ具合が深過ぎる感じはしていたものの、それは倒れたわたしへの思いやりの深さの反映なのだろうと思っていた。もしかして吹雪さんはそちらの方面の人なのだろうか?
 三人にお礼を言って頭を下げながら見送ると、彩香に腕を引っ張られるようにして従兄の――今はわたしの――部屋に連れ込まれた。彩香の部屋に連れ込まれなかったのは、平木さんから間の悪いところに電話が来てしまったので、房事の後始末が終わっていないからだろう。わたしがうっかり「変なもの」を見つけたりしいないように、との配慮だ。
 従兄の部屋は、わたしが高校生としての日常生活を恙なく過ごすための、必要最低限の環境を調えたところで力尽きている。ベッドに布団とパジャマ、机の上に教科書とノートとパソコン、クローゼットには制服のほか私服が数着――夜逃げするみたいに家を出てきた(放擲された)から、受験のために上京してきた高校生のシティホテル並みに殺風景だった。
 しかし、これが意味するところを、わたしは理解できなくなってしまったのだ。今の境遇が経過措置に過ぎないから、このような部屋になっているのか。つまり、来週もなおこの状態が続くのか、あるいは力尽きた先が着々と調って行くのか。でも、一週間くらいで事が動くとは思えない。わたしのしていたことは、そんな簡単には片付かない……。
「由惟ちゃん、なにがあったの?」
 誰もいなくなると、二人きりの時の彩香が明らかに気配を変えることに、わたしはこの三日間で気づいていた。二人きりになると、彩香は女の子になり、同い年の従姉妹になり、わたしを安堵させるとともに、わたしを警戒させもする。
「わたし、茉央に余計なこと言っちゃったかな?」
「そんなことないよ。吹雪さんが勝手に深読みして、裏側を探って、わたしを自分たちと同じ境遇に置こうとしたの。わたしはいま避難生活をしていて、帰る家がなくて、だからわたしたちと同じだね…て吹雪さん言ったの。でも、わたしは逃げてきたわけじゃなくて、たぶん放り出されてここにきたんだよ。――彩ちゃん、それで合ってるよね?」
「たぶん、合ってる」
「怖いから聞きたくないけど、聞かないではいられないから、訊くよ。――どこまで知ってるの? どこから知ってるの? お母さんと彩ちゃんは」
「伯母さんが由惟ちゃんのすべてを知っていたかは不明。伯母さんがお母さんに知っているすべてを話したかも不明。お母さんがわたしに伯母さんから聞いたすべてを話したも不明。それを前提にして一口で言えば――由惟ちゃんは誘惑しちゃいけない人たちを誘惑していた。誘惑されるはずだという確信をもって。実際その人たちは誘惑された」
 わたしは溜め息をついた。
「彩ちゃん、それはたぶんわたしが知っているわたしのすべてだと思う」
「そうなのかあ……。由惟ちゃんのイメージが音を立てて崩れ落ちてくるよ。まあ逃げ出したりはしないけどね。でも、そうか。誘惑に失敗したケースもあったってことだよね。ダンちゃんて、あいつ、おっぱい大きいの嫌いなのかな?」
「雨野くんはとにかく結城さんが好きだったんだよ。どうしようもなかった」
「少しはどうにかしようとしたのね?」
「結城さんに唆されて調子に乗って、ちょっとその気になりかけたんだけど、やっぱり見込みがないのはわかってたから、実質なんにもしてない」
「……唆された? 結城さんに?」
「雨野くんに告白されたとき、結城さん速攻その場で断ってるんだよね、実は」
「へ、そうなの? 全然そんなふうに見えないけど」
「今はね。夏休み中に雨野くんがうまいことやって、結城さん陥落したみたい。陥落は言い方よくないね。う~ん、なんて言えばいいか……」
「ほだされた?」
「ほだされた……。それってなんかあれだよね、雨野くんを気の毒に思って…みたいな感じだよね。雨野くんが泣いて縋って結城さんにしがみついた感じ。そういう感じじゃなかったんだよ。雨野くんてすごくマイペースな人で、人の話聞いてないとかじゃなくて、なんとなく惹き込まれちゃうんだよね。だからなんとなく断れ切れずにいるうちに、だんだん本当に雨野くんのこと好きになっちゃったんだと思う。結城さんて実は攻め込まれると弱いタイプみたいで、オロオロしちゃうとこあるんだって。また明日ね、とか言われると、明日もあるんだ…て思っちゃう人みたい」
 じっと瞳の奥を覗き込まれた。余計なことを言ったか、あるいは不適切な言い回しを使ったか――どうやら後者であるらしいことが、彩香の無表情から読み取れた。もちろんすぐにわたしも理解した。明らかな伝聞表現が紛れ込んでいたことを。
「……ごめん。実は雨野くんとはずっとお話ししてきた。今も、ときどき電話くれる。雨野くんは全然まったく気づいてないの、わたしが好きだってこと。なんでも話せる女友達だって思ってるっぽい。男の子どうしでそういう話するの難しいでしょ。よく知らないけど。だからわたしに話すのかな。なんか気がついたときにはそういう関係が確立しちゃってて、だからわたしどうしようもなかったんだよ。わたしもなんとなく雨野くんのペースに惹き込まれてたんだね。……そうか。そういうことか」
「もしかして由惟ちゃん、その頃から始めてない?」
「なにを?」
「なにを?て、だから……」
「ああ……。うん、そうなんだよね。あのときわたし新しい服着てたから。夏の初めに買ったやつ。胸の形がぴったり強調されるやつ。結城さんと一緒に東急プラザで買ったの。それ着て雨野くんに会えば一発で落とせるとか言われて、お店のお姉さんにも太鼓判押されちゃって。でもわたしそれ着て出かけたこと一回もなくて、部屋で一人で着たりして、雨野くんから電話かかってきたら話しながら着替えたりして、窓が開けっ放しなのもわかってたし、部屋にいるときはちょくちょく着るようになって――だから、そうだね、あんなの部屋で着ちゃいけないんだよね。……それは、うん、よくわかってる、今は」
 彩香がわたしを抱きしめていることの意味は、意味と言うかその行為の裏側の思いは、わたしにも理解できた。けれども肩口で、首筋に触れる彩香の頬が泣いている意味は、意味と言うかその行為の裏側の痛みは、わたしにはうまく理解できなかった。だって彩香には瀬尾くんがいて、好きな人が学校でも家でもすぐ隣りにいて、隣りどころか肌を直接合わせるようなことを毎日しているのに、どうして泣くことができるのだろう?
 だから、わたしを慰めてくれようとして抱き締めてくれるのはよくわかるけれど、わたしの痛みを自分も同じように痛んでいる痛みのように泣くのは、うまくどころかまったく理解できなかった。見かけと違って過剰な共感能力を持ち合わせているのかもしれないとか、わたしはこの夏から自分がなにをやってきたのかを完璧に理解して心がすっかり落ち着いてしまったものだから、そんなふうに彩香の心情や性質を探ってみたりした。とにかく問題があの服にあったものとわかったので、さっさと処分しなければいけないと思い、でもあの服は家に置いてきてしまったから、さてどうしたものか…なんて考えながら、この間自分の身の上に起こってきたことが、他人事というのではなく、わたしも登場人物の中に含まれる物語を眺めるかのような、不思議な感覚があった。なにか物事の真理みたいなやつが明らかになると、そうした感覚に陥るのかもしれない。
 平木さんからの連絡を受け取って、彩香はきっと大急ぎでシャワーを浴びたのだろう、夕暮れのこの時間帯にしては強いシャンプーの香りが鼻を衝く。吹雪さんの甘酸っぱい匂いに続いて今度は彩香のシャンプーだ。このシャンプーはわたしがここに放擲されてから三日間、わたしも使わせてもらっている。そして、今の彩香はシャンプーを使ってから間がないので、わたしの鼻腔はほぼシャンプーの匂いしか受け止めることができない。だから、いまわたしの嗅覚が捉えているのは、ほぼ化粧品メーカーの研究所の匂いだと言ってよく、彩香の匂いは僅かしかない。わたしの嗅覚では判別不能なくらい。それは何度も言うようだけれど、彩香がシャンプーを使ったばかりだから、である。
 わたしは彩香の匂いが欲しいと思った。せっかくこうしてわたしのために泣いてくれているのだから、化粧品メーカーの研究所の匂いではなく、彩香が生物として発する匂いが欲しい。それがあれば、わたしのために泣いている彩香の痛みの正体も、もしかすると姿を現してくれるのではないか? ほぼ没交渉だった従姉妹が抱えている痛みを。
「彩ちゃん、どうしてそんなに泣くの?」
 首筋に濡れた頬をくっつける彩香の頭を、離れないよう強く引き寄せた。
「……わかんない。……けど悲しい」
「そっか……」
「……なんか、ただ、悲しい」
 なにが?とは、今度は尋ねなかった。生きていることが…などと返されたら困るからだ。いや、それならさほど困らないかもしれない。女の子であることが…と返されるほうが、ずっと困る。どう言えばいいか、温かく湿った手触りのあるモノへと、わたしの無駄に大きな胸へと、それは繋がってしまう。彩香はたぶんそういうことで泣いているのだと思った。触られるのはもちろんのこと、ジロジロ見られるのだって嫌でしょうがないのに、どうして今度はそれを見せつけることが、幸福感を得るための手段へと変わり得るのか? どうして見られるのも見せつけるのも同じように幸せに感じられないのか?
 いや、違うかもしれない。彩香がそんなことを思って泣いていると考える根拠はどこにもない。これはわたしがずっとそう思っていたことで、結城さんにもそう言われたし、彩香にだってそう言われたのだから、彩香がそんなことを思うはずはないような気もする。考えてもわからない。同じ女の子だから分かり合えるとは言い切れない。
 でも、やっぱりそうなのか。わたしがしていたおかしなことを彩香は知っていたみたいだし、指摘されてみれば確かにそれは結城さんとあの服を買いに行き、だけどそれを着て雨野くんに会いに行くことができず、できなかったのではなく、したくなかったのだけど、それなのに部屋で一人で着てみたり、弟の大きな手が触るのを許したり、窓の向こうの誰かに覗かせたりして、あの服が持つ効果を試し、効果を測り、そうしないではいられなかったわたしの中の愚かな女の子を指して、彩香は悲しいと言っていると考えるべきなのだろう。
 ああ、これこそ変な話だ。こんな取って付けたみたいな議論を、わたしはどこで仕入れたのか。これはどう考えてみてもわたしが考えているのではない。登場人物にわたしを含む物語の作者が考えている。わたしは登場人物にわたしを含む物語の作者が立つところに立っている。さっきもそう考えたばかりだ。物語が書き終わり、あるいは演じ終わり、わたしは舞台の袖から、あるいは客席に降り、わたしの世界を眺めている。これで終わりなのだと、すべて終わったのだと、今日そのことを知ったからだ。わたしはもう渦中にはいない。
 彩香はなかなか泣き止まなかった。彩香に抱き締められ、彩香の頭を抱き寄せながら、わたしはあの服が処分される情景を思い描いた。
 本当は生垣で囲った家の庭で、大きな柿の樹だとか沈丁花なんかが植わっているようなちょっと広い庭で、穴を掘るかドラム缶を用意するかして火をつけたいのだが、生憎なことに我が家に庭なんてないし、彩香の家もマンションである。だからリサイクルごみの日か、燃えるゴミの日かに出すことになるのだけど、頭の中では庭先で火をつけて、火掻き棒でつつきながら、秋の空に上っていく煙を見上げていた。
 できれば風のない晴れた日中がいい。煙がまっすぐに上り、渦が少しずつほどけ、空に溶け込んでいくのがいい。あれはでも化学繊維で織られたものだから、火は一瞬パッと燃え上がるだけで、ゆっくりと煙を空に上げてはくれないだろうか。それではちょっと悲しい。それではあんまり酷い。……もしかして彩香はそれで泣いてくれているの?
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