§09 10/30 拾ってくれる神様(1)

文字数 5,001文字

 彩香とは、十七時に新宿駅の自由通路の西の端を待ち合わせ場所と決めて(夜をネカフェのシアタールームで過ごすためだ)、わたしは入学以来初めて休日の学校の図書室にやってきた。午前九時半、日浦くんの姿は閲覧席にも昨日床に座り込んでいた書架の周辺にもない。ちょっと早過ぎたかも……。
 スッキリと気持ちよく晴れたグラウンドの眺望を前にして、今日も『蜜蜂と遠雷』を開く。天才の演奏がいかに天才的であるかの描写に、そろそろ飽きてきた。わたしたちはその演奏によって、爽やかな風の吹く草原や、煌びやかな星に覆われた宇宙空間に連れて行かれる。そんなことがあるだろうか? たぶん、あるのだろう。わたしがそんな経験をしていないだけで。天才ピアニストの天才的な演奏に触れたことがないだけで。
 グラウンドに顔を上げる回数が明らかに増えている。気がつけばぼんやりとグラウンドに散る生徒たちを眺めている。陸上部、サッカー部、フェンスの向こうにはテニス部、我が校にラグビー部はない。ここからは野球部は見えない。体育館にはバレー部とバスケ部と卓球部がいるはずだが(バドミントン部もあったかも)、壁の向こう側だ。
 わたしは生来的に運動が得意ではない。体育の授業を憂鬱に感じたことはないし、運動会は愉しみな行事のひとつであったけれど、わたしは誰かの活躍を見るのが嬉しかっただけで、わたしが誰かを愉しませてあげることはなかった。
 窓辺から見下ろす(ここは三階だ)すぐそこが陸上部で、たぶん短距離の選手なのだと思うのだけれど、短いダッシュを繰り返している。一人、素人のわたしが見ても、明らかに周りより異次元に速い、髪の短い男子がいる。記憶にない顔だ。それにしても速い。スタートからの加速が、ちょっと信じられないくらいに速い。彼がスタートポジションに着くと、期待感に胸が騒ぐ。それは決して裏切られない。いつまでも見ていられる。だからわたしは閲覧席に頬杖をつき、やや身を乗り出すようにして、しばらくずっと陸上部の練習を、彼が走る姿を眺めていた。
「お、佐藤由惟じゃん」
 声と同時に、隣りの椅子が引かれた。
「土曜日なのにこんなところでなにしてるの?」
「ちょっと見て。あの男子もの凄く速いんだけど、誰か知ってる?」
「茶山かな? 坊主頭の大男」
「あ、あれが茶山くんなの?」
「そうだよ」
「知らなかったあ」
「まさか、あんな目立つ男なのに?」
「でもそっか、やっぱりそこまで凄いとわかるんだ」
「なんの話?」
「ねえ、こんなふつうの声でしゃべっていいの?」
「誰もいないからいいでしょ」
 そう言いながらも、日浦くんはそこでおしゃべりを唐突に止め、彩香が予言した通り、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(外伝)』のページを開いた。わたしは意味もなく(あるのかな?)満足し、窓辺に身を乗り出したまま日浦くんに向けていた視線を、ふたたび下のグラウンドに戻した。
 隣りから、やはり昨日と同じように、凄いスピードでページがめくられていく音が聴こえる。速いことはそれだけで凄いことだ。グラウンドの陸上部でも、図書室の閲覧席でも。恋をしそうだな…と思った。でもどちらになのか、ちょっとわからない。眼下の茶山くんなのか、隣りの日浦くんなのか。もしかすると、なにかが「速い」という事象を感得すること、に対してかもしれない。
 練習のインターバルに入ったのか、それともストレッチがメニューに組み込まれているのか、陸上部は地面に座ったり寝転がったり、いかにもダラダラした感じで、笑いながらおしゃべりを始めた。わたしは前のめりになっていた身体を椅子に戻し、手元の『蜜蜂と遠雷』の美しいカヴァーを眺めた。自分がもう物語の架空の人物に興味を失っていることを発見した。
 秋の柔らかな陽射しを浴びる休日の図書室の閲覧席で、もしかすると恋をするかもしれない、その候補のひとつである男の子が本のページをめくる音を聴く。その音には、どこか決然とした意志のようなものが感じられ、彼のそんな没我が、少し妬ましい。早く読み終えて欲しくもあり、そのまま読み続けて欲しくもある。
 わたしは席を立ち書架の森に入る。画集にするか写真集にするか迷い、画集を選ぶ。でも、整然とした名画の並びではなく、凸凹と雑然としている棚の前だ。すぐに「東京幻想」という文字が目にとまった。引き抜くと、新宿駅南口の甲州街道の底が抜け、LUMINE2の真下を走る線路が水没し、世界が植物に(それにたぶんきっと鳥や虫に)覆い尽くされている。商店街の上に倒れたスカイツリー、丸の内側の壁だけを残す東京駅、六本木ヒルズに巨大な蜘蛛が網を張っている。やっぱりそうだ。ここに虫はいる。きっと鳥も。
「網を張ってるからな、虫はいるね」
「鳥もいるはずだよね?」
「お、魚はいるじゃんか」
「ほんとだ。イルカ、エイ――イルカは魚じゃないや。あ、牛!」
「あ、ちょっと待て。東口に田んぼつくったの明らかに人だろ?」
「いた! シラサギ! やっぱり鳥もいるんだ」
「いやこれぜったい人いるって。サーフボード見てみ? こらこれ、ピカピカだよ!」
 わたしたちのおしゃべりを咎める人間が現れない。日浦くんも読書を中断させたわたしを責めないばかりか、一緒になって生き物の(厳密には動く生き物の)影を探した。そして時計の針が十二時半を過ぎる頃、わたしたちの前に数冊の画集が積み上がった。『蜜蜂と遠雷』も『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(外伝)』も捨て置かれたままだ。
「お昼どうする?」
「いつもはコンビニ。食べるのはカフェテリア」
「ほんとに毎週来てるんだ?」
「妹と弟が煩わしいもんでね」
「歳が離れてる感じ?」
「小一と年中とか」
「え、そんなに?」
「死別と再婚があってだなあ」
「あ、ああ……」
「あとは想像に任せるよ」
「うん。わかった」
 陸上部のそばを通りたい…と遠慮がちに言ってみると、意図するところを汲んでくれたようで、靴に履き替えるとグラウンドのほうに回ってくれた。校舎から降りる階段や花壇のブロックなんかに腰掛けている陸上部員たちの中に、茶山くんを見つけた。三階の窓から眺めていた印象と違い、茶山くんはがっちりとした体格で、なにより物凄く大きな人だった。わたしはちょっとビックリして、思わず足を止めてしまった。何人かがこちらに顔を向け、その中に茶山くんの顔もあり、身体が動かなくなった。足が竦んだ。このところ何故かこうしたことがよく起こる。どうしよう…と思いながら、慌てて目を逸らし俯くと、日浦くんが前に出た。
「茶山、もう走んないの?」
「今日は走らないが、なに?」
「佐藤由惟のために走ってくんない?」
「なんだ、それ?」
「おまえが走るのを図書室から眺めててさ、むっちゃ速い!てビックリしてたんだよ。目の前で見たらどれくらいスゴイんだろう…とか言うから連れてきたんだぜ。だからちょっと走ってくれよ。七割くらいの感じでいいからさ。この可憐な佐藤由惟にサービスしてくんない?」
 なんてことを言うのだ!?と驚いて顔を上げると、案の定、陸上部のみんながにやにやと笑っている。その中から茶山くんがすっくと立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。
「日浦、そういう話を無下に断るような男に、世界が獲れると思うか?」
「大きく出過ぎじゃね?」
「70%で13秒なら、100%で何秒になる?」
「え~と、9秒1?」
「どういう計算した? 俺いま金メダル下げてるぞ!」
「物理は苦手なんだよなあ」
「よし、見てろ。――あ、佐藤さん、悪いけど今は70%でしか走れない。ほんとごめん。それで勘弁してほしい」
 言葉が出てこない。間近で顔を覗き込まれ、その身体のあまりの大きさに、恐怖感が湧き起こった。学年でいちばん背の高いバレー部の大迫くんなどとは、どこか異質な空気を放っている。階段に座る部員たちを振り返り、手を挙げて歩き出す茶山くんに、わッ!と揶揄とも挑発ともつかぬ歓声が上がった。見知らぬ陸上部員がやってきて、わたしと日浦くんを誘導してくれる。たぶんそのあたりで、茶山くんの今現在の(70%の?)最高速度を体感できるのだろう。
 何十メートルかわからないが、離れて行った先で、茶山くんがストレッチを始めた。やがてその場でいくどかジャンプを繰り返すと、パンッと両手で頬を叩いた。前に出てきた誰かが「オンニョーマークス……」と、だらけた感じで声をかけ、茶山くんが腰を落とし、地面に両指先を着くと、今度は鋭く「セット!」と声が発せられた。茶山くんがゆっくりと腰を上げ切ったところで、数名が一斉に手を叩いた。
 地面が揺れている。振動がどんどん近づいてくる。茶山くんがどんどん大きくなってくる。ずいぶん近いところに立っているような気がした。わたしは思わず日浦くんの腕をつかみ、その場で半歩退いた。目の前を、猛りを抑制した牡牛のように、茶山くんが走り抜ける。プラットフォームの端で、警笛を鳴らされそうなくらい近くで、通過電車を迎えるかのように。茶山くんはわたしたちの前を過ぎると減速し、70%だったせいか、まったく息の上がっていない様子で、満面の笑みを湛えつつ戻ってきた。
「佐藤さん! どうだった? 俺の走り!」
「こ、こわかった……」
「へッ…?」
 クツクツと日浦くんが笑い出し、見るからにガッカリしている様子の茶山くんに申し訳なく思いながら、逃げるようにグラウンドを離れた。日浦くんがいつまでも笑っていて、わたしはなんとなく彼の腕から手を離すことができなくて、俯いたままに校舎を回り込み、正門から通りに出ると、視界のすぐ先にあるコンビニに生徒の姿がいくつか見えたものだから、慌てて日浦くんの腕から手を離した。突然に襲いかかってきたつむじ風のような出来事が、そこでようやく終息した。
「いやあ、怖かった…は、よかったなあ」
「日浦くん、もう笑わないで……」
「茶山デカいからな、俺もちょっとビビった。あんなに近くで見るの初めてだし」
「知り合いだったんだね?」
「あいつとは続けて同じクラス。去年くじ引きで前後の席になってさ、なんかよくしゃべったんだよね」
 コンビニでわたしはオムライスを、日浦くんはカツ丼を買った。電子レンジはカフェテリアに並んでいるし、飲み物は校内のほうが安い。店内に見えた生徒たちは、たぶん学年が違うのだろう、知った顔ではなかった。
 カフェテリアには思いがけずけっこう人がいた。みんな部活でやってきたのだろう。野球部が見える窓際のテーブルは埋まっていて、電子レンジでお弁当を温めたあと、わたしたちはシャッターの降りているカウンターのそばに、向かい合って座った。
「佐藤は何時までいるんだっけ?」
「五時に彩香と新宿で待ち合わせてるから、四時半くらい」
「五時に新宿――大人だねえ」
「二人でネカフェのホームシアター入って、晩ご飯食べながら映画観るんだよ」
「へえ、そんなの初めて聞くわ。でもあれってさ、カップル専用じゃないの?」
「別に縛りはないんじゃない? だってカップルっていろいろでしょ?」
「そういや桃井とは厳密に言うと何系の従姉妹?」
「母親どうしが姉妹なの。うちのほうがお姉さん」
「なるほど。昨日、ほら、ソファーに並んで座ってたろ? 目の前で見てさ、ほんとだ似てるわ、て思ったよ」
「小さな頃はもっと似てたんだけどね。だんだん違ってきた」
「そりゃそうだろう。放散はしても収斂するとは思えない」
「あの、あのさ……」
 自分の耳で、きちんと確かめておきたかった。
「放課後、来週から、本当にいいの?」
「いいよ。――どんな事情か知らないけど、本読んだりおしゃべりしたり、隣りにいれば助かるって言うなら。どうせ俺いつもあそこで時間潰してるわけだし。それにさ、隣りに佐藤みたいな女の子がいるっていうのは、気分がいいもんだよ」
 からからと楽しげに笑ってくれた。――そうか。それでいいのか。確かに、隣りに日浦くんみたいな男の子がいるというのは、わたしもなんとなく気分がいい。日浦くんは不思議なくらいに自然体で接してくれるし。別に、彩香と瀬尾くんに対抗意識を抱いているわけではないと思うけど。捨てる神あれば拾う神あり、という諺を想起させる。日浦くんはわたしを拾ってくれる神様。じゃあ、わたしを捨てた神様は誰? その神様は、神様なのに、どうして捨てたりするの?
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み