§10 11/01 拾ってくれる神様(2)

文字数 5,097文字

 午前一時過ぎに、自民党が単独で安定多数を得たところまで、彩香の部屋でNHKのネット配信を見てから寝た。「みんな現政権にNo!を突きつける」と息巻いていた祖父と父はどんな思いで見ているのだろう…などと考えてしまった。が、それで寝つけなくなるようなことはなかった。もう、すぐ来年には選挙権が与えられるのだと言われても、当落の報道は確かにおもしろい見世物だが、わたしには現実感がまったくない。
 高校二年生の教室でも、前日の選挙――立法府を構成する代表を決める選挙であると同時に、その結果で行政府の長・国家元首が決まる選挙でもある――が話題に上ることはなかった。……と思っていたら、放課後の図書室の閲覧席は、いきなりその話題から始まった。
「俺昨夜さ、安定多数とか絶対安定多数とか、初めて意味知ったわ」
「あ、わたしも」
「要するに自民が提案して自民が賛成すれば、ほぼ決まるって話だよ。小中高の十代だけで投票したらああはならなかったよなあ。感染爆発ガン無視してオリンピック強行して修学旅行とか吹き飛ばしたんだからさあ。――あ、こういう話、嫌い?」
「大丈夫だよ。うちって個人で税理士事務所やってて、商店街とか中小企業とかお客さんだから、そういう話よく聞くの。お父さんもお祖父ちゃんも今頃いきり立ってると思う」
「ああ、コロナの直撃喰らった人たちね。じゃああれだ、補助金の申請とかで、お父さんクソ忙しかったろ?」
「もうちょっと声落としなさいよ」
 天から降ってきた声に、わたしも日浦くんも椅子から跳び上がるほどに驚いた。振り返ると、胸に数冊の本を抱える紀平さんが、わたしたちの真後ろに立っていた。
「奎ちゃんヌシみたいな顔してるけどさ、誰からも免罪符もらってないよね?」
「勉強は自習棟のほうでやれよ」
「わたし、本を読みに来たんだけど」
「そんなの家で読めばいい」
「バカねえ、天に唾してどうすんの」
「俺にはここに居座る正当な理由があるんだ」
「そんなの奎ちゃんが勝手に決めただけじゃない」
 日浦くんの隣り――わたしの反対側――に腰掛けた紀平さんが持ってきたのは、日焼けなのか汚れなのか、色褪せた箱入りのヴァージニア・ウルフ著作集、三冊だった。タイトルを上にして、それも日浦くんに向けて、ドサッと音を立てて並べた。
「おまえまた面倒くさいの持ってきたなあ」
「どれがいちばんウルフっぽいか教えて」
「ウルフっぽいやつはね、第一に灯台、次にダロウェイかな。いやこのふたつは甲乙つけがたい。でも波はやめとけ、むちゃくちゃハードル高いぞ」
「じゃ、これはやめる。で、どっち?」
「灯台のほうが読み易い。話がすんなり入ってくる。――と、俺は感じたね」
「わかった。こっち読む。ありがとう」
「毎度どうも」
「それと、政治の話は友達なくすからやめなよ」
「佐藤由惟は友達ではない」
「え、恋人?」
「里美らしからぬ短絡的発想」
「赤の他人じゃないとしたら、ほかになにがあるの?」
「類例のない、ここだけに発現した、固有の関係」
「言えない話なら最初にそう断りなよ」
「……だよなあ」
 本を読みに来たのだと言ったのに、紀平さんはヴァージニア・ウルフの本を三冊とも手に立ち上がった。見上げるわたしの顔をじっと覗き込み、なにやら意味深な――と思ってしまうのはわたしのほうの事情に決まっているのだが――小さな笑みを浮かべた。顔は知っていたけれど、声も入学式でしゃべったのを聴いたけれど、新入生総代として登壇して以降、二年の一学期の期末で三位になるまでずっと成績首位だった紀平さんのふだんのおしゃべりに、このとき初めて触れた。もちろん、日浦くんとの親し気な様子がとても気になった。
「どういう関係?て訊きたそうな顔してる」
「訊きたい!」
「世の中で腐れ縁とか呼ばれてるやつ。ピカピカの一年生の時から、もう十年」
「紀平んさんて中学受験してるよね?」
「本番に弱いのよ、あいつ。お腹痛くなっちゃうタイプである上に、当日風邪ひいて熱出して朦朧としてたんだと。高校でもそれ繰り返して、受ける気もなかったここにいるの。内心忸怩たるものがあるわけよ、里美は里美なりに。――誰にも言うなよ? 殺されるから。俺が殺されたら悲しいよね? 悲しくない?」
「それは悲しい。というか、今は困る」
「今じゃなければいいの?」
「わかんない」
「純粋に悲しんでよ。里美に嫉妬心燃やしてよ」
「わたしは闘う前に諦めちゃうタイプだからなあ……。それより、いつもあんなふうなことしてる感じしたんだけど、そうなの?」
「言ってみればね、あれが里美の悪い癖なんだよ。時間を最大限効率的に使おうとする。代表する三冊を持ってきたんだから、三冊とも読みゃいいのに。波だって最初に読むのは避けろってだけの話だよ。マルケスなら百年の孤独、ナボコフならロリータ、ドストエフスキーならカラマーゾフ、それ読んだらおしまい。俺としてはコレラの時代もアーダも白痴もお薦めしたいんだけど、読んでくれないんだよなあ。取り敢えずウルフは読んだ、マルケスは読んだ、ナボコフは読んだ、だいたいわかった。オーケー。次、行こうか。――そんなのってある?」
「日浦くんて、けっこうおしゃべりなんだね」
「そうかもなあ。ちょっと控えよう」
「ええ~、もっとおしゃべりしようよ」
「だから、声が大きいって言ったよね?」
 さっきの初登場より、この再登場のほうが、言うまでもなく驚きの針は大きく振れた。
「あれ、まだいたの?」
「奎ちゃんがふだんどんな悪口言ってるのか聞いとこうと思って」
「よかった。むしろ里美に聴かせたいこと言っといて」
「座っていい? お邪魔じゃない?」
「全然。――いいよね?」
 もちろん、わたしはぶんぶんと唸るように、首を縦に振った。日浦くんを中央に挟む並びだから、紀平さんの顔が正面に見える。むろん先入観があってのことだが、見るからに頭の良さそうな顔つきをしている。線がシャープで、描いた人に迷いがない。マンガで言えばそんな感じ。名高い才女の立ち居振る舞いに、わたしは興味津々だ。
「いつからふたりでここ座ってるの?」
「え~と、十時過ぎくらい?」
「いつの基準点が違うんだけど」
「あ、それなら金曜からだな」
「先週の? たったそれだけで、ずいぶん親し気に見えるね」
「そりゃ男の子と女の子が二人きりで邪魔されずにいれば親し気に見えるだろうさ」
「やっぱりわたし邪魔なのか」
「そんなことありません!」
「佐藤さん、敬語はよそう。わたしら同級生だよ」
「あ、ごめんなさい……」
「で、奎ちゃんは下心あって座ってる感じ?」
「これが驚いたことに下心あるのは佐藤由惟のほうなんだよねえ」
「わたしはお薦めしたほうがいいのかな? それとも思いとどまらせるべき?」
「どっちもしなくていい。佐藤由惟の下心はかなり錯綜しているっぽい」
「ぽい?」
「遥かに見上げる堅牢な壁の前に屈強な門番が三人も立っていてだなあ」
「だれ?」
「桃井、平木、吹雪――富と美貌をこじらせた娘たち」
「映画というより海外ドラマにありそうなタイトル。でも佐藤さんがどう関係するの?」
「あれ、知らない? 佐藤由惟は桃井の従姉妹なんだよ」
「ねえ、奎ちゃんさっきからなんでフルネーム?」
 そこで日浦くんが躓いてしまい、紀平さんの視線がわたしに向けられる。わたしは情けなくも固まってしまった。日浦くんは、しまった…とでも思ったのか、両腕で顔を覆い、身を隠すように机に突っ伏す。そのために、紀平さんの曇りのない眼差しが、日浦くんを回り込むことなく、まっすぐにわたしを射すくめた。本当に紀平さんの眼差しは、曇りや濁りの類いを感じさせない。曇りや濁りとは、葛藤や値踏みなんかのこと。ここに一人の少年がいて、心身の異変を訴えており、どうやらその原因はあなたにあるようなのだけれど、それについての率直な見解をお尋ねしたい――そんな感じだ。
「日浦くんて、どんな人?」
 口にしてしまってから、自分はバカなのではないか…?と思った。
「そうだなあ、わたしには奎ちゃんの評価を引き下げようとする偏向があるからなあ、なにしろおしっこ漏らしちゃった現場とかを間近に見てきたわけで――」
「そんな歴史的事実はない!」
「それでも敢えてその人となりを描いてみるとすれば――浅はかなお人よし?」
「里美の目は節穴だ!」
「そうかもね」
「邪まなる者は去れ!」
「はい、はい。言われなくてもそうしますよ。――でも奎ちゃん、慰めてもらいたくなったら、いつでもおいでね」
「誰がおまえなんかに……」
 顔を上げ、ガバッと振り返ったときにはもう、紀平さんの姿は書架の向こう側にあった。憤怒に紅潮するようだった額が、頬が、見る間に蒼褪めていく。日浦くんは力なく笑い出し、惚けたように笑い継ぎ、嘯くように笑い収めた。
「里美が言ったことはぜんぶ忘れてくれ」
「あ、うん」
「俺は俺自身の確固たる意志でここにいる。魔女たちに唆されたからじゃない。佐藤由惟への憐憫も下心もない。確かに浅はかでお人よしなバカかもしれないが、これでも俺なりの矜持の上に立ってるんだよ。いつもいつも逃げ出してきたわけじゃないんだ。里美はわかってないんだ。あいつはなんにもわかってない。あんなやつの言うことはぜんぶ忘れてくれていい」
「うん。……でも日浦くん、そう言えばわたしも思ってたの、なんでフルネーム?て」
「そらだって、佐藤って女の子、三人いるよ?」
「じゃあ由惟ちゃんとか呼べばよくない?」
「由惟ちゃんとか、いいの?」
「わたしはいいけど。――あ、でも日浦くんを奎ちゃんて呼ぶのは、ちょっと難しそう」
「里美がそう呼んでるから?」
「きっとお母さんと紀平さんだけだよね?」
「まったくもってその通りだなあ……」
 最後は諦めたように苦笑してくれたので、わたしはずいぶんホッとしたのだ。紀平さんの挑発のせいで――どう考えてみてもやっぱりあれは挑発だ――日浦くんを失うのは、今は本当に困るから。日浦くんはきっと、これまでずっと紀平さんの手のひらの上で転がされてきて、紀平さんはきっと、これまでずっと日浦くんを手のひらの上で転がしてきて、日浦くんはそれを残念なことだと考え、紀平さんはそれを当然のことだと考え、そうした関係値が垣間見えてしまったとは言うものの、今もそれではわたしが困る。日浦くんにはしっかりしてもらわないと、紀平さんにはそっとしておいてもらわないと、わたしが困る。
 この日は六時ちょうどに二人そろって本を閉じた。わたしは『蜜蜂と遠雷』を最終章の手前でやめ(主人公たちが予定通りコンクールの最終選考に残った)、日浦くんに大袈裟な表現のない穏やかで淡々としたお話しをリクエストしたところ(わたしも紀平さんに対抗してみた)、『舟を編む』をお薦めされた。週末に『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の最終巻を読み終えていた日浦くんは、今日はなぜか『実力も運のうち』なんて本を読んでいる。それ(実力と運の関係)って逆じゃなかった?
 図書室を出ようとカウンターの前を通り過ぎた瞬間、ハッと思い出した。読む本を切り替えたときに、『蜜蜂と遠雷』を書架に入れてしまった。あれは彩香の部屋にあった本なのに。まったくどうかしている。無事見つかって胸を撫で下ろし、待っていてくれた出入り口に戻ってみると、日浦くんがカウンター内に座る図書委員の男子と、なにやら険悪な雰囲気で睨み合っていた。いつもわたしのことを不躾にじろじろと見てくる男子だ。挑みかかるようにカウンターに身を乗り出していた日浦くんは、わたしを振り返ると、さっと歩き出して廊下に出た。わたしは慌てて追いかけた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 険しい横顔に、ちょっと戸惑った。
「あの男、知ってる?」
「知らない。でもよくあそこ座ってるよね」
「明日からどこかで待ち合わせよう。先に一人で入らないほうがいい」
 心臓が揺れた。心臓が揺れるのは、急いで全身に血液を送り出そうとするからだ。急いで全身に血液を送り出そうとするのは、危険を知らせる信号を受け取ったからだ。…と思っていたのだけれど、わたしは自分の顔が真っ白に冷えていくのを感じた。
「ごめん。過剰反応だな。でも用心に越したことはないと思う」
「なにか言われたの?」
「それ訊かれても答えられない。クソ野郎の戯言だ」
 十一月の日はあっという間に暮れる。地下鉄の階段を下りるまで日浦くんは口を開かなかった。わたしはいつもより少しだけ近くを、少しだけ後ろを歩いた。そうすると首を捻らなくても日浦くんの横顔を見ることができる。斜め後ろからではあるけれど。
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