第10話 502

文字数 1,404文字

 502号室の老夫婦。結婚30周年。男に言わせれば、
 ── いやあ、惚れられてな。あんな惚れられたら、そらあ一緒にならにゃあ!
 すごい自信。
 但し、
 ── 解り合えんことばっかりじゃったな。まあ、情が移ったいうんかな。最初からそうやったからな、こっちはまあ、こいつでもいいかと。でもあっちは、こんなに人を好きになったことはない、とかな。
 で、30年よ…。しょうがないもんな、もう。と綺麗に笑う。

 女といえば、至ってマイペース。私は私、貴方は貴方。誰に対してでも、同じスタンス。だから彼女の心には誰も入り込めない。
 ── みんな違って当たり前でしょ。真っ直ぐな目線で言う。だから人の言うことを聞くことはない、本当には。
 彼女に教科書は存在しない。信じられるのは自分自身。まわりの意見は参考書、PR誌のようなもの。
〈好み〉でのみ動いている。人は皆そういうものだが。

 ── 直情的なんだ。女、だね。男が言う。こいつはちょっとかわいそうなんだ、親が超真面目な小学校教師でね。子どもの頃から反抗してたよ。そりゃ学校から帰って来て、家も学校だったら堪らんわな。にしても根っからの反抗気質、反抗する以外に自分っちゅうものがなかったんだ。
 ずっとそういうふうに来ているから、もうどうしようもないわな。貴方は貴方、私は私だ。解り合えないで当然だとさえ考えているフシがある。まあ、だから30年一緒にやって来れたとも言えるがのう。

 こっちからすりゃあ妥協の連続よ。妥協しかして来なかったな。昔の人はうまいこと言ったもんだよ、結婚は墓場だとか。結婚してもしなくても墓場には行くんだが。── 男は口泡を飛ばしつつ、ローカル誌の取材に答えていた。〈夫婦円満、人生100年〉特集。

 男のエゴが滲み出る… 女は女でもちろんある、ただエゴの種類が、性質が異なっている…
 ── まあ、一緒に仕事はできんわな。こいつときたら物は出しっ放し、片づけるということを知らん。本人は片づけたつもりでも、全然あとのことを考えとらん。人の身になるっちゅうことを知らないんだ。私は私でこうしてます、貴方は貴方でどうぞご勝手に、てなもんだ。
 縮まるよ、寿命が。まあ、ひとりでも縮まってるんだが。── 老人はこう言って微笑み掛ける。一昨年脳卒中で亡くなった、30年連れ添った、妻の遺影に。

 ほれ、イエーイ!って言わんばかりに笑っとるだろう。こっちの気も知らないで。知ってたのかどうなのか、もう確認のしようもないけどさ… 言葉に、あんまし重きを置かないやつだったよ。とにかくマイペースだった、マイペースすぎたんだ…
 彼女の「人間は一人一人みんな違う。みんな違ってみんな良い」ってな強固な意志、鉄柱のような信念は、反抗のための反抗、自分を第一とするための小道具、方便だった気もするよ。

 ── ここでも大した役に立たなかった。言葉は、われわれは、いつだってそうだ。気休め、慰め、励まし、おだて、お世辞、元気づけ… 相手が必要とする言葉以外、何の意味もない。むしろ災厄だ、人を悩ます害悪だ…
 幸福も不幸も、われわれがいなけりゃ… 自分から不幸になって幸せを求める、滑稽な存在だ、人間は。
 われわれがいなけりゃ、幸も不幸も言い表わせなかったくせに。ひどい話だ、表象の世界に浸りきって、自分でつくった観念の湯船に浸かってる。
 調整してるんだ、湯加減を… 不幸・幸福の湯加減を…
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