第5話

文字数 1,619文字

 そいつから離れれば俺らは自由だ。一旦出てしまえば、口から… 俺らは消える、自由になる、ほら、楽になったろう、「愛してる」「こん畜生」甘言も冷言も、一度お前の口から出れば、もうお前の中にいなくなる… 言語に凝縮され、はじけて、Bon! 霧散する、気化する、何もなかったように!
 あんなに手をこまねいてやきもきして、もてあましていた思いが一気にすっきり、終わってしまう。俺らに体現されたことで! 俺らはその時限りだ、使い捨て! 時間の力を借りて元通り! お前はまたポツンとひとり、途方に暮れる… 恋の終わりも始まりも、はかない情熱さ。

 その繰り返しなのさ、何でもかんでも。時間の前では誰もが無力、アッちゅうまに灰になる。残り香を嗅ぐことしかできないんだ、できることといえば。いつだって終わったことを始めようとするのさ、ひとりぽっちの中で。もう終わっていることを、未練がましく、たらたら不平を言い、満たされよう満たされようとあの時に向かう。俺らを用いて考えるんだお前たちは… 使役動詞を使い、形容詞副詞助動詞名詞、目的語の前に前置詞定冠詞を使い、俺らを形にする、〈あの時〉に向かい、もうその手から零れ落ちてるしずくに向かい…

 意気揚々、向こう見ず、根拠不在の情熱にやられてる時は楽しいもんだ、健康第一! 文字、言葉… 俺らは根拠をつくっちまう、ありもしない根拠を! さも解ったふりをして。何も解っちゃいないのに快刀乱麻! 言刃一閃! 敵はお前! 独り相撲の紙芝居。もやもや、もやもや、またぞろする、懲りもせず… 懲りるため? わざわざと、スキマスイッチ、ぽちっとな!

 そうして言うんだべらべらべらべら… 〈考えていること〉ご立派な頭の中の開陳陳列罪! 唖になれ、唖に。お前を私たちの中に埋めるな! もう墓場もヒトでいっぱいだ、土地代だって安くないよ。無駄なことはやめるんだ、蛇足野郎どもの汚い足で埋立地、ゴミも死体も何でもござれ、夢の島!

 わざわざ島民になるなよ! 移住を夢見てる時が幸せなんだ、形になんかするもんじゃない… 計画倒れ、上等! 不倒不屈の精神ここにあり! ── ところで201号室だ、問題は。ばっしんばっしん響いて来る、床を通じて。何やってんだろう? 行ってみる。何しろこっちは難病持ちだ、俺じゃない、同居人が。国家指定の墨汁付きの、胆汁付きの食わせ者!

 ピンポーン… 鳴る。ガチャリ、開く。三十路の男だ。奥で、女が姿を消すのが見えた。
 うるさいですよ、ばしんばしん響いて来ます、何やってるんですか。真っ直ぐ相手の目を睨めつけて言う、相手は5mm笑って、ああ、サンドバッグを…。
 なるほど柱に黒い革袋がぶら下がってるのが見える。こいつをばんばん殴ってやがったのか、この味噌野郎は。

 それからこっちはどう引き下がったのか覚えていない… すみませんけど、静かにして下さい、とでも言ったろうか? 部屋へ戻ると、もう音は聞こえなくなった。お次は302だ、ホギャアホギャア! くまなく泣く赤ン坊だ、夜中も朝も昼も、窓を開けっぱなしで…。
 赤ン坊は嫌いじゃない。どころか好きだ。俺だってバブバブやってたんだ、とびきり我儘に、天も裂けよと泣いたこった… しかし! うちのやつ、赤んぼが嫌いと来た、その泣き声がイヤなんだと。笑ってる時なら良いと!

 なんという我儘の本物! お前だって泣き叫んでいたんだ、それを棚に置く! 今がすべてなんだ彼女にとっちゃ… そしてストレス… 難病が! うちのミストレスには俺も頭が上がらない… 尻が上がる、モーツァルトは言った、「俺のケツをなめろ」、手紙で! なんとお茶目なウォルフガング… 馬車に乗り、行李と一緒に激しく揺られ! わが子の天才ぶりをひけらかしに、父はこの子の運命を揺すり、鼻高々!
 どうしたもんか? 答は一つ、愛のため! 彼女のためなら俺も死ねる、あとは野となれ糞となれ、管理会社に電話する…
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