空に続く雲梯

文字数 2,269文字

 コンクリートで舗装された不愛想な川沿いを独りで歩いていた。雲が空一面を覆っており、朝だというのに暗い。一時停止の標識や、あるいは川面に生える水草、そういったものをちゃんと見れば、そんなこともないはずなのに、街はモノトーンに沈んでいる。
 私は会社に向かっているはずだった。いつもの駅でいつもの電車に乗り、離れた街の事務所へ向かう。「はずだった」といったように、どうにも確信が持てないでいた。明らかにいつも通る道ではない。一方で、会社に向かっている、という感覚だけは不思議と保持していた。やはりいつものように早歩きで、他の通行人を追い抜かしていく
 ふと、サイドポケットを確認する。左右のポケットを両手でまさぐると、そこにあるべきスマートフォンと定期入れが無いことに気づいた。立ち止まってカバンの中身を確認する。内ポケットの奥まで確認したが、どこにも見当たらない。どうやら家に置いてきてしまったらしい。いったん戻らねば。朝からついてない、とため息をついた。そうして地面に目がいくと、自分の両足が裸足になっていた。靴を履いていなかったのだ。道理で足の裏が痛いわけだ。
 ちくしょう。と悪態を小声でついて、もと来た道を引き返す。すれ違う通行人の目線が気になって仕方がない。スーツ姿で足元だけが裸足。奇異な目で見られても仕方あるまい。恥ずかしさに身が縮む思いだった。遅刻は必至だ。さて、なんて言い訳を言おうか。今日は時差出勤でした、と言うか。それとも何食わぬ顔でデスクにつこうか。いや、やはり正直に忘れものを取りに引き返したというべきか。
 雨が降り出した。まるで日が暮れてしまったかのように空が暗い。いや、実際に夜になっていた。ずぶ濡れになって自転車を押して歩いているうちに、私は思わず噴き出した。そうだ、今日は休日じゃないか、仕事なんてありはしない。白いTシャツは雨に濡れて肌にへばりつく。どういうわけか、どうしようもなく楽しい気分になって、周囲を憚らず大声で笑って歩いた。信号が青になったので、交差点を渡っていく。道路を通る車は皆無だった。
 向かいの道は坂になっている。自転車を押して歩く身には少し辛い。この坂を上がっていった先に自宅がある。妙な寄り道をしてしまったものだ。今日の残りの時間は、家に引きこもって過ごすとしよう。見上げる先の太陽がまぶしくて、目を細める。
 坂を上り切った先では、道は右手に折れてさらにスロープと階段の坂道が続いている。かなり急だ。そして長い。その先で雲一つない晴天につながっている。本当に終わりが見えない。目を凝らしてよく見ると、ずっとまっすぐ続いているような坂道の先に、まるで薄雲のような支えの無い白い階段が、左へ右へと折れて、複雑な経路を描いていて遠い空のさらにその先へと進路を伸ばしていた。
 あの先には一体何があるのだろう。
 その坂道は、自転車を転がして歩くにはあまりにも急すぎるので、私は自転車を頭の上にひょいとかかげた。そして一歩ずつ登っていく。思いのほか自転車は軽かったが、両手がふさがっていて、バランスがとりにくい。少しよろめきながら進んでいた。
 途方もなく長大に見えた坂道は、思いのほか短かった。平地にたどり着いて、私は自転車を地面に下ろす。坂道は終わったものの、今度はまっすぐな道がずっと地平線の彼方まで続いている。その先の方に、最初に見えた白いおぼろな階段が浮かんでいるようだった。私はげんなりした。ちょっとした道草のつもりだった。ここまで骨を折る必要はない。
 もと来た道を引き返そうとした。しかし、踵を返して、自転車をもう一度頭上に持った途端に、気分が変わる。せっかくここまで歩いてきたのだ、あともう少しだけ先を見てみようじゃないか。
 自転車を掲げたまま、再度天空の白い階段のある方を向く。そして、そこにあったものに驚いた。自分のすぐ近くに、白い雲梯が姿を現していたのだ。それはずっと先の白い階段の方まで続いていて、地平線に消えている。どうやら、この雲梯を伝って行かなければならないようだ。私はそう直感した。
 自転車をどうしようか。雲梯渡るためには両手を空けなければならない。かといって、自転車をおいていくわけにもいかない。悩んだ末に、とりあえず、雲梯の上に自転車を乗せることにした。なぜだか、雲梯の上に自転車を乗せれば、あの白い階段のところまで、うまいこと勝手に転がってくれるだろう、という直感があった。しかし、自分の背よりも高い位置に自転車を乗せるのは容易ではない。あれこれ試してみたが、なかなかうまくいかない。じれた私は、ままよと自転車をぽんと真上に放り投げた。すると、自転車はうまい具合に雲梯の上に乗って、ぐらぐらと前へと進みだした。が、やはりそううまくいくはずがなく、数メートルも進むことなく、ぐらりと横に倒れそうになった。
 そこに通りがかりのビキニパンツのマッチョが一人現れる。日焼けに黒光りするその体躯は、目算で2メートルはあった。そいつは特に私に断ることもなく、倒れ掛かった自転車を、雲梯の下から、丸太のように太い腕を伸ばして支えた。かと思うと、そのまま猫のようにくるりと1回転しながら自転車に飛び乗って、その巨大な身体を縮めて、まるで大人が三輪車を漕ぐような窮屈そうな恰好で、雲梯の上を進んでいった。私は、ようやく荷が下りたと一息ついた。聞いているのかいないのかわからないが、男の背中に向かって「ありがとう!」と一声かけて、もと来た道に戻ることにした。朝の散歩はもう終わりだ。
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