水を集める

文字数 5,601文字

 自分の部屋でくつろいでいたところに、Kさんから打ち合わせの依頼が来た。今日は休みだ。だから、ほんとうなら参加する必要はない。でも、わたしはなぜか仕事用のPCを立ち上げていて、その通知を目にしてしまった。目にしてしまったからには、出ないといけない。わたしはため息を一つついた。せっかくの休みだったのに。
 階段を降りて1階のダイニングに出た。時間はちょうど夕飯時。打ち合わせの前に腹ごしらえをしようと思ったのだ。ダイニングテーブルの上に、こぎれいな箱がある。中を見ると、2つの大きな塊がある。甘い香りがした。それはチョコレートだった。1つはコーンフレークのようなさくさくとしたかけらに包まれている。もう一つは、カラフルなチョコスプレーがまぶされていた。
 お腹は空いていたし、何かを食べようと思っていたはずだったけど、このどちらも食べる気にはなれなかった。理由は自分でもよくわからない。
 キッチンで夕飯を作っていた両親に、会議があるので少し出かけると伝えた。それからダイニングを出た。引き戸をあけて、外に出る。
 
 会議室に向かっていた。そのはずだった。しかし、いつの間にか知らない場所に来てしまっていた。誰かの家の前にいるようだ。とてもりっぱな家だった。豪邸といっていい。まぶしいくらいに真っ白な外壁、おしゃれな装飾のついた窓、門扉は草木の形が繊細に織り込まれ、垣間見える庭の花壇には、色とりどりの花が咲き誇っていた。
「ここが、かの有名なAさんの邸宅になります。今から中にご案内しますので、一列にならんでくださーい」
 声のする方を向く。そこには、赤い制服を着たバスガイドさんがいた。小さな旗を持って、旅行客を誘導している。わたしには気づいていないようだった。門扉の前まで来ると、懐から出した鍵で錠前を外して、中に入っていった。旅行客もその後に続いていく。10人ほどのグループだった。どうしてなのか、皆押し黙ったまま無表情だった。ちょうどよかった。わたしもこのままご一緒してしまおう。わたしは何食わぬ顔をして、旅行客の列の最後尾についた。
 庭に入る。門扉からは直線に敷石が敷かれていて、そのまままっすぐ進めば玄関だった。しかし、バスガイドさんはその途中で横に逸れた。不思議に思って、バスガイドさんが歩く先を見てみると、そこにはぽっかりと四角い穴が開いていた。どうやら、地下へと続いていく階段があるらしく、バスガイドさんにつづいて1人ずつ、どんどん中に入っていった。わたしはなんとなく不安を感じた。あの階段の先に一体なにがあるのだろう。それはわたしがみていいものなのだろうか。穴の手前で躊躇していると、団体客の最後尾の女の人が私の方を振り返ってきた。目が合って、わたしはどきりとする。女の人は、何も言わずに無表情でじっと見つめてくる。あなたは来ないの?と問いかけられているような気がした。そして、それはまるで皆に続いて穴の中に入ろうとしないわたしを、非難しているかのようなまなざしだった。
 たぶん、よくわからないけれど、これはついていかないとダメなんだ。
 観念したわたしは、階段の一段目に足を乗せた。それを見た女の人は、何事もなかったかのように再び前を向いて、階段を降り始めた。
 20段ほど降りると、階段は直角に右に折れて続いていた。さらに20段ほど降りる。1メートルもない通路があって、その先に明かりが見える。そこが何かの空間になっているようで、さっきの旅行客のグループはそこに集まっているらしい。
 一体そこに何があるのだろう。わたしはどきどきしながらその空間に入った。
 思っていた以上に広い空間が広がっていた。縦横に10メートル四方ぐらい。そして明るい。天井にたくさんの照明ライトがつるされている。
 その中心には、よくわからない巨大な装置と水槽。空間一杯に敷き詰められた8つの枡形の水槽が一か所にまとめられていて、その内部には緑色の半透明の液体がなみなみと注がれている。中央には、たくさんの計器やレバー、ハンドルが取り付けられた黒い装置があり、静かな機械音を立てている。たぶん、この緑色の水に対して何かしらの処理をしているのだろう。
「みなさん、こちらに来てください」
 先ほどのバスガイドさんが、みんなを呼び集めていた。わたしから見て水槽の向こう側で、旗を振っている。なにをするでもなく、水槽と装置をただぼんやりと眺めていた観光客は、やはり無気力に、吸い寄せられていくようにバスガイドさんの方に向かっていた。わたしもその後を追った。
 バスガイドさんの目の前には、中央の大きな装置とはまた別の、小さな装置が備え付けられていた。水槽に隣接したそれは、床に向かって漏斗のように先が細くなっている。その先の床には、10センチ四方ぐらいの台の上に、小さな壺が置かれている。
「よく見ていてください、もうすぐですよ……」
 バスガイドさんの押し殺したような期待を込めた言葉に、わたしはじっと壺を見つめた。一番最後にやってきたはずなのに、わたしは装置の目の前に、つまりは誰よりも最前列に陣取ってしゃがんでいた。というか、みんなはどうも興味が無いのか、一定の距離を保ったまま遠巻きに壺を眺めている。
 3分、いや5分ぐらいは過ぎただろうか。さすがに少しだれてきたところで、ようやくやっと変化が現れる。
 装置の漏斗のようになった先っぽが、わずかに光った。おや、と思って注目するとそれは液体のようだった。漏斗の先から少しずつ透明な液体がしみだしてきている。最初は出口をわずかに湿らせる程度だったが、やがて小さな水滴となった。それは不思議な粘性があるようで、落ちてもおかしくないサイズになってもなかなか滴り落ちなかった。
 見た目は何の変哲もないただの水滴だ。でも、なぜだろう。妙に気になる。
 さらに1分ぐらいがかかって、わたしはあっ、と声を漏らした。ついに水滴がしたたり落ちたのだ。ぎりぎりまで漏斗の先につながっていた水滴は、あっけなくぽとりと落ちた。そして、その先にあった小さな壺に入って、ぽとんと小さな音を立てた。
「これが、Aさんが自宅で製造している、Zという物体になります。水槽の液体は、地下からくみ上げた温泉です。これに特殊な処理を施して生成されます。今ご覧になったように、この量の温泉からこれほどわずかな量しか一度には取れないのです。大変貴重な代物です。では次に参りましょう」
 バスガイドさんの説明が終わるや否や、観光客はすぐに移動を始めたようだった。見るべきものは見た、もう十分ということなのだろうか。一方のわたしは、妙に気になって仕方がない。みんなが立ち去った後も、しばらくその装置を見つめていた。結局その名前は聞き取れなかったけれど、次にその貴重な液体がしたたり落ちるのはいつになるのだろうか。
 液体もそうだけれど、この壺も気になる。茶色の下地に素朴な幾何学的模様が黄色い線で描かれている。思わずその線を指でなぞってみたくなった。どんな手触りがするのだろう。どのくらいの温度なのだろう。
 勝手に触ってはいけない。そうは思いつつ、どうしても自分を抑えることができなかった。ためらいながらも伸ばした指先に、壺の表面が、触れる。
 触れた瞬間に後悔した。
壺は、絶妙なバランスで据え置かれていたようで、わたしの指先が冷たくざらりとした表面に触れた瞬間に、指の触れた方向とは反対側に大きくぐらついて、半回転ほどしながら台を転げ落ち、ぱしゃんと音を立てて、割れてしまった。
 中に満ちていた液体は、途端にしゅわしゅわと発泡して床に広がった。その様子は、床にこぼしたサイダーのようにも見えて、きっと口に含むと甘くて心地よい気持ちがするのだろうと思った。だけれど同時に、それは掃除や洗濯の時に見る塩素系漂白剤の泡立ちのようでもあり、口にしてはならない劇物なのかもしれない。
 わたしはまた少し悩んでしまった。もう少し、この液体を調べてみたい。指に触れて、できることならば、その味を見てみたいと。何が起こるだろうかと。

 入ってきたときの位置から対角線上に別の階段が見つかった。階段を登って地上階に出る。廊下のようだった。中には人の気配がまるでない。一番手近な部屋に入ると、そこはリビングだった。しかし、ひどく殺風景なリビングだった。カーペットとテーブル、それからソファーしか見当たらない。他には、大きな窓があり、クリーム色のカーテンは、レースカーテンと一緒に両脇にまとめられていてた。外の景色がよく見える。
 なんとなく外の景色を眺めていたところ、見覚えのある建物が見えた。あれは、小さいころよく通っていた図書館ではないだろうか。
 なつかしいな。久々に行ってみようかな。
 わたしは、玄関から外にでて、通りに出た。
 図書館が見えた方向に向かって歩いていく。そう遠くないはずだ。
 しばらく歩いていると、急に視界が開けた。通り沿いに並んでいた家屋が途中からなくなって、更地が広がっていた。
 その更地の向こう、そう遠くない場所に、意匠の凝った大小の建造物が目に見えた。ぱっと見た感じは統一感があるように見えるけれど、よく見るとさまざまテーマや雰囲気がごちゃまぜになっているように見える。例えば、宇宙であったり、西部劇であったり、おとぎの国であったり。
 なるほど。とわたしは思った。あれは某人気テーマパークに違いない。わたしが図書館と見違えたのは、あの遊園地だったのだ。ならば、ここはC県なのだろう。そうに違いない。それにしても、いつの間にC県までやってきてしまったのだろう。

 なんとはなしにそちらの方向に向かって歩いていると、コンクリートで打ち立てた殺風景な3階建てぐらいの建物が現われた。おかしい。これくらいの大きさの建物が目に入らないはずがない。
 入口にはこの建物の名前が掲げられていたけれど、なぜか文字がぼやけてしまっていて、よくわからなかった。なにかの公共施設のように見えた。
 入口は自動ドアになっていた。中に入ると、玄関ホールのようになっていて、パッと見た印象は市役所のようだった。ただ、受付には誰もいないし、案内板の文字もやはりぼやけてしまって何も見えない。人気がまるでなく、沈黙の音が聞こえるぐらいにしんと静まり返っていた。
 ホールは電気が点いているにもかかわらず、若干薄暗く感じた。その中で、左手の奥の方が少し明るくなっていた。よくみると、そこにはまたガラス張りの自動ドアの入り口があり、その先の屋内が明るくなっているようだった。
 行く当てもないので、明るい方へ歩いてみることにした。
 すると、これから向かおうとする先の自動ドアが開いた。
 わたしはぎくりとした。そこには知り合いのKがいたからだ。こんな場で遭遇するとは思わなかった。Kが苦手ということではない。こんな場に自分がいることが、なんとなく気恥ずかしい思いがしたのだ。
 咄嗟に視線をずらして、自然な動きでもときた道を戻ろうとする。少し目があってしまった。まだ気づいていないようだったけれど、それも時間の問題だろう。
 そこでわたしはまたしてもぎくりとした。今度は別の知り合いのTが現われたのだ。Tはわたしが入ってきた入り口から現れた。そして、Tはわたしに気づいたらしい。意外そうな顔をした後、はっきりとわたしに向かって歩みを進めてきた。仕方はなしに、片手をあげて手を振った。自分にはわからないけれど、このときわたしは、きっとかなりぎこちない笑みをうかべていただろうと思う。
 次の瞬間、わたしはいきなり強い力で後ろの方に引っ張られた。驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか距離を詰めたKがいた。両腕で私の右腕を渾身の力で捻り上げている。その力はわたしの抵抗を1ミリも許さないほどに強かった。それほどの力を込めているのに、Kはまったくの無表情だった。
 あっけにとられていると、今度はTが私の左腕を抑えにかかる。Tもまた、ふだんの雰囲気からは想像もつかないような剛腕で、わたしの自由を確実に抑えている。
 知り合いの奇行にわたしはどう反応したらよいのかわからなかった。笑うべきか、怒るべきか。それとも、なにか気の利いたことをいうべきか。時間稼ぎにとりあえずじたばたもがいてみたけれど、そうして時間を作ってみても、何一つとして言葉が浮かんでこなかった。頭の中がどうにももったりしている。
 二人はただただ拘束しているだけだった。何か言葉を発することもない。
 わたしはもう抵抗をあきらめて、ただ二人に両腕をゆだねて、不格好なかかしのような姿でぼおっとしていた。
 そんな奇妙な膠着状態がしばらく続いた後、沈黙を破ったのはKだった。
「なんでメガネをかけてないんだよ」
 Kはそう言って、器用にもわたしを拘束しながら、どこからともなくメガネを取り出した。それはわたしが普段から身に着けているメガネだった。そうだ、そういえば、さっきから何となく視界がぼやけていた。理由は単純明快。メガネをしていなかったのだ。
 Kは私の左腕を拘束する腕の力を全くゆるめずに、ていねいにわたしにメガネをかける。途端に視界がクリアになった。と同時に、頭のもやが一気に晴れ上がった。
「こんなことして、いったいどうしちゃったの?」
 ようやく出た言葉は、こんな調子だった。二人はなおも答えない。
 今度は急に両腕がびりびりとしびれてきた。ずっと締め上げられていたからだ。いや、本当に締め上げられているのだろうか。実はそんなポーズをとっているだけで、わたしは全く自由だったりしないだろうか。

 腕の痛みはどんどん強くなる。動かしたくてたまらないほどにむずむずする。……暗い部屋。しびれ、時計。今日の勤め………、喉が渇いた。いまなんじだろう?
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