ペルーの美声

文字数 2,675文字

 私は、ペルーを訪れていた。その目的は、途中で忘れてしまった。おそらくは観光だと思うのだが、何か特別な任務があったような気がする。
 高地にある都市は気温が低い。私は羊毛のセーターとジャンパーを着こんでいたが、それでもなお寒く感じた。空気も薄いはずだ。しかし、今のところは特に身体に変調は感じなかった。
ラマが闊歩する石畳の街を行く。住人は、旅人が珍しいのか、ちらちらと私の方を見てくる。が、逆に私の方が視線を向けると、まるで知らん顔である。各々の仕事に戻って、見向きもしない。
 しばらく、そぞろ歩きをしていると、古びた街並にそぐわない建物が見えてきた。それはコンビニエンスストアだった。日本でよく見る有名なロゴが、高く掲げられている。ここは観光地ではないへき地である。特に景観を保全する法律などは適用されないのだろう。
 ちょうどよかった。水が欲しかったのだ。
 私はそのコンビニに入った。聞きなれた来店のチャイムが鳴る。
 店内にも見慣れた光景が広がっていた。日本の店舗と比較すると、幾分か広いようだったが、並んでいる商品は、日本のものと変わらない。おにぎりが普通に売られている。
 棚からペットボトルの水を取り、おにぎりを二つとった。そして、お菓子の棚でチョコレートを探す。甘いものも欲しかったところだ。
「バナナ味がおすすめです」
 急に背後から話しかけられて、どきりとしながら振り返ると、そこには中学時代の同級生のAがいた。どうやら、このコンビニの店員をやっているらしく、コンビニのユニフォームに身を包んでいる。私には気づいていないようだった。特段親しい間柄でもなかったので、ああ、ではそうしますと、素っ気なく応じてバナナチョコレートの箱を手に取った。これも日本製のよく見る商品だった。
 そのほか何か買い漏れがないか、ぐるっと店内を回った。
 なんとなくアイスの棚を眺めていると、小学生ぐらいの男の子の声が聞こえてくる。
「えへへ、だれもぼくたちには気づいていないみたいだね」
「そうだね、みんなきっとお馬鹿さんなんだよ」
 声の方向を見ると、二人のみすぼらしいなりをした少年がいるのが見えた。服はぼろぼろで泥だらけ、裸足でぺたぺたとはしゃいでいる。
 どういうわけで、彼らは誰にも気づかれていないのだと主張するのか。
 私は彼らの方をじっと見つめた。彼らは逆に、私の方には気づかないらしい。
 彼らの真正面から、コンビニの買い物客がやってくる。お互いに気づいていないようで、今にもぶつかりそうだった。しかし、ぶつかる直前で、買い物客のほうがちょうど少年たちをよけて通った。少年をよけた、というよりは、少年たちがいる空間をよけて通った、というのが正確かもしれない。そんな違和感のあるよけ方だった。
「ほらね、まったくぼくたちはむしされてるんだ」
「こんなにゆかいなことはないね!」
 私には判断がつかなかった。買い物客は少年たちに気づいていながら、さも誰もいないかのように振舞ったのか。それとも、本当に少年たちに気づいてはおらず、何か不思議な力で強制的によけさせられることになったのか。ただ、なんとなく前者なのではという気がしていた。多分、少年たちはこの土地における不可触民なのだろう。関わってはいけないタブーがきっとあるのだ。
「だれにもきづかれてないから、歌だって歌えるよ!」
 少年の内、年長に見えるほうが、そう言い放った。
 すると、いままでのおしゃべりをすっとやめて、気持ち足を広げて立ち、目を閉じた。
 年少の方の少年も横に立ってそれに倣う。息をすうっと呑む音が聞こえて、ぼろきれの奥の小さな胸がわずかに膨らむのを見た。
 少年の声が、歌声が、空間に、満ちる。
 まるで天から降ってくるかのような歌声。天上の響き。真摯で透明に美しく響くボーイソプラノ。年長の少年が主旋律を歌い、年少の少年がそれに音を足してハーモニーを作りだす。無邪気で切実な祈りの歌、歌詞は聞き取れないが、きっとそうだと直感した。こんなにも喜びに満ちた歌声なのに、光こぼれる旋律なのに、どこか何かを達観した絶望がある。それは、いままさに消えようとする命の今際の息のようにも思える。天に祝福されて、その最後のかすかな息で感謝の祈りを捧げているのだ。
 私は、ただ茫然と立ち尽くしていた。まったく魅了されてしまった。その時間はとても長く、短く感じた。時計の針のように規則正しく進んでいく時間が、その一瞬だけふわりと浮かんで、永遠に近接したのだ。
 少年の声が、止む。
 歌い終えた少年は、目を閉じたまま微動だにしない。その口もとは、天上の幸せを体現したかのような微笑みを湛えている。侵すべからざる神聖と無垢とを周囲に発していた。私はいかに自分がつまらなく、汚らわしい存在であるかを思い知らされた。あのふたりは、私には、あまりにもまぶしい。
 しびれるような余韻に浸っていると、突然年長の方の少年がぷっと噴き出した。そしてそのままこらえきれないといった体で腹を抱えて笑い出す。年少の少年もそれに続いた。
「ほらね、けっきょくだれもきいていやしないんだ!」
「だれもきいていないから、はずかしくもなんともないね!」
 そう二人で言い合って、ケラケラ笑いながら、まだじゃれ合い始めた。先ほどまでの神々しさはもはや微塵もない。汚い服ばかりが目についた。
「あら、何をみているのかしら」
 不意に背後から話しかけられて、私はぎょっとする。
 振り向くと、そこには赤いショートカクテルを手にした美女が立っていた。優雅に手すりに身体を持たれかけて、私の方にいたずらっぽい笑顔を向けている。
 なんでコンビニでカクテルを?と疑問に思ったその瞬間、先ほどまでおにぎりや飲み物を入れた買い物かごを持っていたはずの私の右手が、何か飲み物を持っていることに気づく。丸いロックグラスに少し赤茶けた白い飲み物で満たされている。なにやら甘い香りがする。何か甘いリキュールをミルクで割ったもののように見える。
「なにか、あったのかしら」
 何も答えずにいる私に、美女は重ねて問いかける。
 その笑みが、私には少し恐ろしく感じた。
「いえ、なにも、とくには」
 私はカウンターにグラスを置いて、勘定を済ませて、そのままそそくさ逃げるようにその場から立ち去った。
 いつの間にバーに来てしまったのだろう。何をしにきたのだっただろうか。何かを忘れているような気がする。とても大切な何かを。そんなことを考えながらも、暗い夜道、私はアルコールでのぼせた身体をえっちらおっちら家へと運んだ。
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