群青の希望

文字数 4,109文字

「ちょっと寄ってみたいところがある」
 家へと帰る車の中、弟が出し抜けにそういった。弟曰く、綺麗な滝を見られる場所があるらしい。今日は旅行であちこちを観光していて、家族一同疲れもあった。しかし、弟の提案を無碍にするほどではなかった。
 帰途から離れ、車は弟が指示する場所へと向かう。意外にもそれは人里離れた山奥ではない場所にあった。市街地のその中心部にある。車を走らせて10分ほどして到着した。
 何の変哲もない運動公園。休日はサッカーや野球を楽しむ子供たちで賑わうのだろう。しかし今は閑散としている。
 その公園の端に妙な建造物が立っている。お椀を逆さに伏せたような半球の上に、筒上の塔が乗っている。白いコンクリートで打ち立てられていて、高さは10mぐらいに見えた。よく見ると、その半球の側面にはらせん状にのぼる階段が彫り込まれていた。遊具には見えなかった。あまりにも武骨過ぎる。
「あれが、そう」
 弟はそのモニュメントを指さした。
 駐車場から公園内に入り込む。乾いた土の運動場を横切って、そのモニュメントに近づくと、自分達が近づいてきた方向は裏手であることが分かる。反対側に何かがあるらしい。ちょうど手近にあった階段はぐるりと半球の側面に沿って伸びており、そのまま正面へと出るようだった。
 弟はその半球の側面が何か気になるらしい。そのまま興味深く壁面を観察し出した。私はその頂上に興味があったので、階段を上り、半球部分の上に来た。2メートルぐらいの高さに、半径10メートルぐらいの足場が広がっている。縁にはフェンスが風に揺れていた。
 その真ん中に、塔のような構造物が突き刺さっている。遠目には円柱状に見えたが、実際は縦に長い方形だった。まったく真っ白で、窓や入口などは何も見当たらない。何のための構造物なのだろうか。
 私は側面から正面に躍り出た。そしてその柱とも塔ともつかない構造物の正面を検める。
 そこには奇妙な「モノ」があった。
 絵だろうか、彫刻だろうか、それとも、これが、
 滝なのか。
 遠目にはそれほど高くないように見えた白い柱は、間近で見上げると天を高く突いて見える。その正面に取り付けられていたのは、黒い額縁のようなもの。横1メートル、縦2メートルはあるだろうか。その中に絵画が収められているわけではなく、塔の壁面がそのまま曝されている。その壁面には、黒い線で大きく右斜め上の方向に向かって伸びる図形が描かれていた。先端は細くすぼまっている。私は毛根を想像した。毛根の先端には赤茶けた楕円が取り付けられている。中心には白抜きされた丸。右側面には三角が取り付いている。それから、その周囲にはその楕円を強調するかのように、黒い線が放射状に延びている。鳥の頭のようにも見える。改めてみると、翼をデフォルメしたような黒い線が胴体部分から延びているのが伺えた。鳥をモチーフにしたのだろうか。
 改めて胴体部分を観察する。すると、その額縁に囲まれた全体に、青い空間が広がっていることに気づいた。そしてその薄い板状の薄い空間はかすかに上から下へ波打っている。水が流れている、と表現することもできそうだ。とすると、これが弟の言っていた滝だろうか。
 しかし、私がそれを水であると認識すると、その水だったものは様態を変えた。まばたきをするほどの一瞬の内に、ただ上から下へと流れる半透明の無形から、明らかに質量を持った有形へと変化した。
 それは、一つの絵画だった。最初に認識した全体を大きく囲う額縁の中に、さらに先ほどまで水が流れていた箇所にもう一つ額縁が宙に現れて、その中に1枚の絵が飾られていた。
 とにかく青い。不規則な濃淡を持つどこまでも深く重い、奥行きのある群青色。それが背景に広がっている。ところどころに砂か星かを思わせるわずかな金色の光が散りばめられていて、さながら澄み切った夜空のようだった。あるいは深海、もしくは宇宙空間を思わせる。そういえば、このような色合いを持った鉱物があったはずだ。しかし、名前が思い出せない。
 その群青の平面上に、奇妙な図像がいくつか描かれている。まず目を引いたのが、絵の下中央部から右斜め上にかけて伸びる、白い矢印だった。何の変哲もない、グラフの中でよく見るようなありふれた矢印だ。始めは太く、矢じりの部分に至るにしたがって、だんだんと細くなっている。なんとなく、これは人の意志的なものを表しているのだと感じた。が、それと同時に形象としてはあまりにも安直ではないかと訝しんだ。
 その矢印の左中央部付近に、丸くて白いものが浮かんでいた。その丸いものは、細かく規則正しくさいの目に切りだされている。ダイスカットされたマンゴーのようだった。あるいは豆腐だろうか。おそらくこれは惑星か何かを示しているのだろう。それは今まさに爆発する瞬間を捉えているように見える。そしてさらにその付近に、前世紀的なタッチでデフォルメされた幼い宇宙飛行士が浮かんでいた。これも全体的に白っぽかったが、どうやらまだ色が塗られていないらしい。
 率直に言って、どうにも全体的に安直さが否めない。ただ、背景の空間の深みのある青色、それだけはぞっとするほどに美しい。下手な矢印や惑星や宇宙飛行士などは描きこまない方がよっぽどよいのではないか。その点がひどく残念だ。それにしても、濃淡と星屑の構成が素晴らしい。不規則にしか見えないのだが、その不規則な複雑さの向こうに何か明快なロジックがあるようにも思える。それがこの神秘の由来なのだ。その謎を探ろうと、群青色の背景を夢中になって眺めていると、新たに一つ発見があった。不規則な青の宇宙に、規則的に奇妙な小さなモニュメントが、配置されている。四角い箱の中に、三角錐。そんな図像が、散りばめられている。
 これは一体何なのだろう。
「それはカラーコーンです。こんなふうにして、容器に収められているのです」
 後ろからの不意な声。私はぎくっとして振り返る。
 そこには、一人の男が立っていた。日に焼けた丸い顔に、ゆるくウェーブがかかった髪の毛。人懐っこい笑みを浮かべて、作務衣を着ている。その手には、上部分が閉じられていない段ボールがあり、さらにその中には、赤いカラーコーンが入っていた。それは、確かに今見た図像そのままだった。
「はあ、どういうわけで、宇宙にカラーコーンを」
「さて、それは私にも。そうあるべきだと直感したからにすぎません」
 そう言うと、男は、手にしていた段ボールとカラーコーンを、自分の背後に適当に投げ捨てた。それはフェンスを飛び越えて、地上に落下して乾いた音を立てた。
 それにつられてフェンスの先を見ると、いつの間にか、何もなかったはずの乾いたグラウンドに、無数の段ボールとカラーコーンが、先ほどまで目にしていた絵のものと同様に、規則正しく並んでいるのが見えた。そして、せいぜい100メートル四方ぐらいしかなかったはずのグラウンドが、果てしなく地平線のかなたまで広がっていた。
 手が自由になった男は私の隣に立って、笑いかける。
「気に入っていただけたようで何よりです。これは、『エルピス』という作品です」
「それはずいぶんと絶望的な希望ですね。開けてはならない箱にはカラーコーンが?」
「それは段ボールごときには荷が勝ちすぎるでしょう」
「どちらが?」
「どちらも」
 男の返しに、私はふふんと笑った。
「これだけ不幸が満ちる世の中ですから。最後の希望は宇宙に託すしかありません。それがどんなに絶望的な挑戦だったとしても」
「なるほど、意図は理解できました。しかし、それにしても少々安直すぎやしませんかね、これとか、あれとか」
 男は、痛いものを見られたとばかりに、わざとらしく、自らの額をパチンと叩き、天を仰いだ。
「いやはや、手厳しい。しかし、おっしゃる通りだ。私はまだ、この出来には納得していないのです。手前の力量不足です」
 男は明後日の方を向いたまま、いやいやもうまったくとひとり呟いた。少しの間を置いて、男は再び私の方に向き直った。
「どうです?このあと一献。私のアトリエの近くにいい店があるのです。もう少しあなたと話がしてみたい」
 私は面食らった。初対面の男に酒を誘われるとは。しかし、悪い気はしなかった。男と同様、私も面白い話ができるのではという期待があった。こんな酒があってもいいだろう。
 そう思って、承諾の返事を返そうとしたときである。
「そろそろ帰るよー」
 駐車場があった方角、ちょうどこの作品の裏側の方から、母の声が聞こえてくる。少し身体を動かしてそちらの方向を見ると、母がこちらに向かって手を振っていた。弟は既にそちらに向かっている。そして、さっきまで地上いっぱいに広がっていた段ボールとカラーコーンのオブジェクトは、いつの間にかすべて消えていた。
「……申し訳ない。ちょっと難しそうです」
「構いませんよ。まだその時機ではなかったということでしょう」
「よかったら連絡先を。また来ますので」
ポケットからスマホを取りだそうとした私を、男は手で制した。
「いえ、そこまでは。野暮ってものです。その時になれば、あなたは必ずやってくる。私はそれを待つことにします。それまで私は腕を磨いて待っています」
 私は少し残念だった。男はそう止めてくるが、やはり連絡先を聞いておきたい。だが、ここでごねても男の言う通り野暮だ。私は観念してポケットから手を出し、「わかりました。そういうことにしましょう」と答えた。
「それでは、また。お元気で」
「ええ、達者で過ごしてください」
 私は踵を返して階段の方に向かう。ちょうど、階段の一段目を降りようとしたとき、背後から再度男の声が聞こえた。
「だから、あなたも決してあきらめてはなりません。きっと忘れてはいけませんよ。それだけが、私のお願いです」
 私ははっとして、振り返った。しかし、そこには既に誰もいなかった。なぜ、彼はあんなことを言ったのだろう。あきらめてはならない何か。それは……。
 ……やはりそうだったのか。
 私はひとり、にやりと笑って、今度こそ本当に塔を降りた。
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