白と赤の仮面の魔人

文字数 2,459文字

「はぁ…、はぁ…、はぁ…」
 廊下の先にヤツの姿が見えた。まだ気づいていないようだった。
 咄嗟に駆け出して逃げ込んだ曲がり角に身を隠して、ぼくはなんとか息を整えようとした。それほどの距離を走ったわけではないのに、心臓が痛いぐらいに鼓動している。
 黒いマント、黒いフード。全身黒ずくめの存在が、ぼくを追いかけている。そいつが、いったい何者なのか。それはぼくにもわからない。ただ、一つ確実に言えることは、そいつを真正面から直視することはできない、ということだった。直視した場合、ぼくの身体はたちまちに硬直してしまい、逃げることもできずに、あいつらの餌食になってしまうのだ。ぼくはまだあいつらを直視したことがないので、確証はない。ぼく自身経験して知りえたことではないし、かといって何か客観的な情報に触れて判断したことでもない。でもなぜか、ぼくはあいつらを直視できないことを知っていた。
 息を整えて、あいつらの存在が近くにないことを確認してから、ぼくは手近な階段を駆け下った。ほとんど飛び落ちるように、数段を一気に駆け下る。そして、音はなるべく立てないように、気を付ける。
 2階へと降りてすぐに、降りてきた方向から見て死角となっている部屋を見つけた。ここに隠れよう。ぼくは戸を開けてその部屋の中に入った。
 戸をあけると、四段ほどの下り階段がある。6畳ほどの狭い部屋だったが、天井は高い。天窓もついていて、吹き抜けになっているようだ。しかし、それ以外に窓はなく、さらには外の天気が悪いせいか、光は差し込まず薄暗い。部屋の片隅に白い簡素なパイプベッドがあり、そのほかには何もなかった。
 ぼくは、そのベッドに横たわった。さきほどから絶えず逃げ回っていて、疲れていたのだ。ここならばそう簡単に見つかるまい。少しは休めるはずだ。
 横になって、ぼくはいろいろなことを考えた。あいつらはいったい何者なんだろう。そして、なぜぼくは追いかけられているのか。そもそもここはどこなのだろう。そういった問いの一つ一つに対して、なんとか答えを出してみようとしたのだが、手掛かりがなさ過ぎて、根拠のない空想の域を出ることはなかった。
 そうしているうちに、だんだんと眠くなってきた。ここで寝るわけにはいかない。やつらはまだ、近くをうろついているかもしれないのだ。ふつふつとイメージや言葉になる前のぼんやりとした想念がわきおこってきて、まぶたが閉じそうになる。そのたびに、決して閉じまいと目に力を込めて抗った。
 眠ってはだめだ……。目を閉じてはだめだ……。警戒しなければ……。
 睡魔との決死の綱引き。勝ち抜ける見込みはほとんどない勝負。ぼくは必死に耐えたが、しかしもうそれも限界だった。もうこれ以上は、目を開けていられない。
 ……もう寝てしまおう。
 そう思った次の瞬間、部屋が暗転した。もとから薄暗かった部屋が、まったくの暗闇になる。急な異変に、眠気は一気に吹き飛んだ。何事かと身体を起こして前を向く。心臓が強く速く脈打つ。胸が痛い。
 わずかに光はあるらしい。徐々に目が慣れてきて部屋の様子がぼんやりと見えるようになってきた。
 そこで発見したものに、心臓は再び跳ねてきりと痛んだ。さっと顔が赤くなり、全身が急に熱をもって紅潮する。手足はじりじりとしびれ始めた。
 黒いマントの男だ。……二人いる。ゆっくりと、闇に溶け込んで、輪郭もおぼろな二体の黒法師が、ゆらゆらと、ぼくに近づいてくる。黒いフードの中を見た。一体は白の、もう一体は赤の、なにか陶製のつるりとしたものが、黒い布の奥に見えた。仮面、だろうか。
 見てしまった。ぼくは見てしまったのだ。
 動かない。手も足も。熱をもってしびれて、力が抜けてしまう。ただ心臓ばかりがバカみたいに命を空焚きしている。
 ぼくは観念した。わずかな力で、起こしていた身体をどさりとベッドにあずけた。仰向けになり、目を閉じる。視界を絶って初めて感じるわずかな衣擦れの音。仮面の男たちの歩みは遅い。ぼくは焦れた。やるならひと思いにやってほしい。
 ゆっくりと時間をかけて、二人の仮面の男は、ぼくの横たわるベッドまでやってきた。ぼくはずっと目を閉じたままだったが、気配で分かった。ぼくの両脇で歩みを止めると、右手の男は身をかがめたようだった。
 そしてぼくに耳打ちする。その声は不自然に低く、一言一句を重苦しく意識に沈めてくる。
「……自分に都合よく生きていて、恥ずかしくないのか」
 次の瞬間、胸に激痛が走った。鋭い何かでぐりぐりと肉がえぐられるような痛みに、堪らず息が漏れる。ぼくの内側から、何かを探すような動きだった。断続的に力が込められて、僕を食い破っていく。その痛みとおぞましさに、ただぼくは耐えるしかなかった。身体は、まったく脱力してしまっていて、身をよじることすらできない。
 すると、閉じられたまぶたの裏に何かが映った。小さな赤い点のように見えたそれは、胸から広がる痛みとタイミングをあわせて、徐々に徐々に大きくなっていった。それは牙の揃った顎だった。恐ろしく犬歯のとがった、ぬらぬらと鈍く赤く輝く、上下一組の牙だった。それを牙だと認識すると、大きく口を開いて、ぼくに噛みかかってきた。
 ぼくは抵抗した。両手でその牙を掴んで、それ以上の侵攻を防ごうとした。肉体の方の腕は依然として動かない。現に、まぶたのうらには牙しかなく、それを捕まえているはずの両腕は見えなかった。しかし、それでも両手を動かしているような感覚があり、牙の冷たく硬質な形状を感じ取っていた。どうやら意識的な領域で、ぼくは歯向かっているらしい。
 しかし、その異形の力はすさまじく。ぼくでは到底太刀打ちできなかった。ぼくの不可視の両腕は、抵抗むなしく無残に噛み千切られた。その勢いでさらに大口を開ける牙。人一人は呑み込めそうそうなほどど大きく開かれた。……蛇は顎を外して自分より大きな得物を丸呑みにするという。場違いにもそんなことを最期に考えた。そして意識も暗転した。
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