第4章 第9話

文字数 1,994文字

 翌月のとある夜。

『居酒屋 しまだ』は異様なテンションに包まれている。句集を対象としたこの国で最高峰の賞である『日本俳句協会賞』に間宮由子が選出されたのだ。

 今迄、新人賞や特別賞などに選出されたことはあるが、世間での彼女のイメージは才能は感じさせるがただの天然キャラ美人俳人タレント、に過ぎなかった。
 だが、この賞を取ったことで、彼女の俳人としての実力が本物であり、今後の日本俳壇を牽引していく存在として世間に周知されたのだ。

 今後は更に忙しくなり、そうそうこの街に来る事は少なくなるだろう。その夜は内輪だけのささやかな祝勝会ということで、珍しく貸し切りで盛り上がっている。

 親友のオタフクさんもツリ目さんも我が事のように喜んでいる。大学時代の友人、出版社時代の同僚も駆けつけ、この快事を心から祝福しているようだ。

 俺のお袋はゆうこからサイン入りの句集を謹呈され、完全に舞い上がっている。

 いつものメンバーも有名人のさらなる飛躍に己を重ね、いつか俺も、いつか私も、などと夢を膨らませては周りに針で突かれ萎ませている。

 店の奥で若い男女が言い合っている、と言うか議論をしている。
 ちょっと耳を傾けていると、俳句と川柳の現代社会での位置付けがどうだとか、俳句の世界的な普及の為のストラテジーは、とか、何を言っているのか相変わらず分からない。

 ゆうこによると、純子ちゃんは本当に先月会社を辞め、神保町で大量に獣医学の書を買い求め、嬉々として三津浜に向かったらしい。
 クイーンによると、龍二くんは人間との会話の可能性に気付き始め、来院する飼い主連中を閉口させているらしい。

 一人カウンターでそんな景色を楽しんでいると、ゆうこがワイングラスを片手に隣に腰を下ろす。
「もう取材だ出演だ、で忙しくて忙しくて。全然ここに来れませんよ〜」
 俺は然もありなんと微笑みながら、
「これからはもっと忙しくなると思うよ」
 泣き出しそうな、切なそうな瞳で
「ハー。全然せんぱいに逢えないじゃないですか。受賞しなければ良かったな…」
「何言ってんの。これからの日本の俳壇を背負って立つ人が。そうそう、秋の『あおば』での句会、よろしく頼むね。なんか会社で、ものすごく盛り上がっちゃってんだ。それに事前告知したらさ、反響が凄まじいことになってて」

 ゆうこは満面の笑みで
「勿論ですよ。それを楽しみに今何とかやっています」
「ははは… ウチの社長なんて俳句の勉強始めたよ」
「ふふふ。せんぱいも勉強してくださいね。私が教えます」
 いや俺は… なんか変なことを教えられそうで…
「お手柔らかに… あ、俺のお袋へのサイン入り句集、ありがとな」
「いいえー 何ならあと100冊くらい…」
 その句集は素人の俺が読んでも、ああ流石一流俳人、と思える出来であった。のだが。

「いやいやいや。そう、あの句集の一句にさ、ちょっと気になる句があって。確か、

 迸る 金の光の 青葉の夜

だったっけ?」

 ゆうこは悪戯っ子の目で、
「あら。よく気がつきましたね」
 俺は周囲を見渡し、そしてゴクリと唾を飲み込みながら、
「あれって、『あおば』に何か関係あるの?」
「ふふ。さあ」

 さあって… やっぱり、俺とのあのことの句じゃねえだろうな?
「何だよ、教えてよ!」
 ゆうこは目を潤ませ妖艶に言う。
「覚えているくせに」
「え…」
 やはり。まさかとは思ったが、あの時のアレを謳った句なのか…

 額に脂汗が浮かぶのを感じる。同時に、下半身が制御不能状態になっていく…
 無意識にクイーンを目が探す。

 ゆうこは少し膨れっ面で、
「すぐ先輩に目がいくんだから。せんぱい、本当に先輩が好きなんですね」
 丁度いい。ここでハッキリと俺のスタンスを表明しよう。

「うん。そうだよ」

 ゆうこは項垂れて、深い溜め息をつく。
「まあ… お似合いといえばお似合いですかね」
「あ、ありがとう」
「分かってはいましたけど。これだけハッキリ言うの、初めてですね」

 ゆうこは寂しげな刹那げな表情でボソッと呟く。一瞬、俺は何かとんでもない過ちを犯してしまったか、と不安感に苛まされるも、遠くの席でジョッキを片手にギャハハと笑っているクイーンを視認し、俺は間違っていない、これが正解なのだと自分を鼓舞する。

 ゆうこの美魔女マジックは俺から徐々に抜けていき、ようやく自分自身の確かな感情を自覚すると、ゆうこは仕方ないですね、と呟きながら大きく息を吐き出した。

 これでいい。これが最適解なのだ。俺にはこの女性はとても手の届く人ではないのだ。
 俺がこれから手と手を取り合う相手は。
 ビールジョッキを一気飲みしてやんやの喝采を受けている、あの女なんだ。

 ゆうこはクイーンを一瞥し、そっとワイングラスを口にする。

「でも…」

 上目遣いで俺の目を容易く吸い寄せる。

「あの時みたいに…」

 そして濡れた唇が俺にそっと囁く

「また、盗んじゃおうかな…」
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