第3章 第7話

文字数 1,938文字

 あれから2時間は経ったのだろうか… 

 未だに双方の怒鳴り声が診察室から聞こえてくる。待合室は診察待ちの患者でいっぱいだ。
 夏の茹だるような暑さの中、俺たちは院の外で段々畑を眺めながらそれぞれの想いに耽る。

「ゆうこちゃん、純子さんって、すごーく大人しいって言ってたよね?」
 ゆうこは惚けた表情で俺を眺めながら、
「私も初めて見ました… あんな純子を… で、せんぱい。あの子達一体何の話をしているのですか?」
「それな。あれは日本語、だったのか…?」
 俺は二人を交互に見ながら深く溜め息をつく。

「二人とも我が子の事を… 一体どんな育て方したんだよ…?」
「え… フツーに本与えて放置」
「え… フツーに図書館に放置」

 放置プレーかよっ! 育児放棄じゃねえかよ二人とも… いや、それは俺の方か。俺は葵に本を与えたり図書館に連れて行くことすらしなかった。

「で、どうするよ。そろそろ修善寺に行かなきゃだけど」
 本当はもうちょっと放っておいてもいいのかも知れないと思いつつ。するとゆうこが縋るような表情で、
「せんぱい、ちょっと見てきてくださいよー」
「お、俺が? な、何で?」
 クイーンもウンウンと頷きながら、
「オマエしかねえだろ。アイツらの会話、すこーしでも理解できんの」
 正直、早口すぎて彼らの会話が脳に留まらないのだが…
「よ、よし。では一緒に行こう」
「はーい…」
「へーい…」

 意外にも待合室の患者、というか飼い主の皆さんは苦情の一つも言わず大人しくしている。
「あのドリトル先生がよ、人と喋ってるずら」
「しかも、可愛げなお嬢さんとだら」
 苦情どころか優しく見守っている感だ。
「あの先生には本当にお世話になっててな、人には無愛想だけどこの子たちには優しくって」
「私らより、ペットの事を一番に考えてくれて」
「その先生が、なあ、女の子とあんなに… ちょっと嬉しいよ」
 皆さんにこんな風に言ってもらって。あれ? 怒鳴り合いなのになんで皆さんは……?

「キミみたいな都会的な美しい女性には僕の生き様なんて到底理解出来まい!」

「何を言っているのかしら。貴方みたいな動物にも地域にも慕われている方に私の苦悩なんてどう認識し得るのかしら?」

「だから僕の何を鑑みてそのような認識に至ったというのかい?」

「ですから、相互理解を深めていく事が更なる相互認識に至るのではなくって?」

「うむ、そこに関しては全く異存はない。然し乍らその為の手法論として…」

 うん。いつの間にか互いに興味を持ち相互理解に努めようとしているようだ。簡単に言えばだ、お互い気になる相手となっています、もっとあなたのことを教えてくださいませんか、と言うことらしい。
 そうかいつまんでクイーンとゆうこに伝えると、頭にはてなマークを浮かべつつも笑顔で頷く二人の母親であった。

「ちょっと、いいかな… 次の患者さん達、待っているよ…」
 ぐっすり眠っているパドスちゃんを優しく抱きながら、龍二くんがハッとしてこちらを振り返る。何か言おうと口をパクパクさせるのだが後が続かない。俺らに話しかけるのを諦めると、純子さんに、
「成る程、ではこの議論は後日再検討するべきと思量するのだが」
「問題の先送りは良くないわ。後日と言わず、今宵では何か貴方に不都合があるのかしら?」
「全くもって吝かでない。あと2時間38分後に、そうだな、ここに」
「あいわかったわ。では2時間37分後に。この約定はしっかりと守っていただきたいものね」

 純子さんは踵を返し、待合室の患者さん達に目礼した後、スタスタと待合室を抜けて表に出ていく。俺たちは笑いを堪えながら、その後を追っていく。

「ちょっと、純子、あなた…」
 目をキラキラ輝かせながらゆうこが純子さんの肩に手をかける。彼女は立ち止まり、俯きながら、そして声を震わせながら、
「ママ。ゴメンね、私って今夜、用事が出来たらしいの…」

 俺ら三人は互いの顔を覗きあいながら、一斉に吹き出した。
「ああ、いいんじゃねえの。後は若い者同士でってヤツなっ」
 クイーンが満面の笑顔で言い放つと、ゆうこが心配そうな顔で
「龍二さんに迷惑かけないのよ」

 これさ… 実は龍二くんと純子さんの『お見合い』だったのか? いやどう考えても、お見合いじゃん。まさか、それを知らずにパドスちゃんの心配してたのは、俺だけ?

 恐るべし、母親。愛犬をダシに、行き遅れの息子と娘をくっ付けてしまう展開に持ち込むとは… しかしながら、考えれば考えるほど、お似合いの二人だ。側からは口論としか思えないのだが、その実は好意を剥き出しにしているのだ。
 知能の高いコミュ障同士のお見合い。とても凡人には理解出来ません。そしてそれを成立させてしまう母親。偉大すぎて、思わず首を垂れてしまいます。
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