第3章 第2話

文字数 2,459文字

 週間予報の通りに海の日の翌日、関東地方は久しぶりの快晴である。夜半まで降っていた雨もすっかり上がり、その痕跡を朝の路面に薄っすらと残すだけである。

 朝の天気予報によると、梅雨前線が北上し暖気が南から入り込むので、ジメジメとした夏の暑さの始まりとなるらしい。

 それに合わせて俺はポロシャツにチノパン、素足にローファーを履き家を出る。一応ジャケットも後部座席に放り込んであるが、まあ使うことはないだろう。
 母に間宮由子先生のサイン、出来れば一句を添えてと色紙を渡される。ああいいよと言うと、耳元であんたフラフラしちゃ駄目よ、なんてこっそり言われる。ああやはりこの母には見透かされているな、大丈夫だよ、と答えて車に乗り込んだ。

 車の運転はいつ以来だろう、ひょっとしたら梅雨前の箱根旅行以来かもしれない。元々それ程ドライブが好きな訳でもなく、ましてや車にこだわりがある訳でもないので、乗っている車は4、5年前の銀行員時代に伝手で買った国産車だ。杉並の高級住宅地では普通だが、この下町ではデカすぎて運転が面倒だ。次の車検の時にでももっとコンパクトな車に変えてやろう、そう決心しながら『居酒屋 しまだ』目指してノロノロと車を走らせる。

 ようやく狭い道々を切り抜けて店の前に車を着けると、クイーンが店の前で所謂ウンコ座りをして待っていた。五十過ぎたいい大人がみっともないだろう、と言うとオマエの娘といい勝負だろうが、なんて言い返されて激しく凹んでしまう。
 それでも、薄手の白のサマーセーターが金色のポニーテールによく似合っている。ナチュラルな化粧もしており、少し照れながら今日は一体どうしたんだよと揶揄うと、
「オマエが… 白が似合うっつうから…」
 なんて下を向いて呟くものだから、俺も耳まで充血するのを感じてしまう。

 クイーンがiQOSを取り出して、美味そうに吸い始める。白いフィルターに淡い口紅が付着するのを眺め、彼女が口紅を施しているのは今日が二回目だな、微笑んでしまう。
 水天宮の脇を過ぎてずっと直進し靖国通りに出てから左折すると、スポーツ店街と古本街が道の両側に広がっている。朝も早いので人も(まばら)だ。

 チラリと隣を眺める。いつもと全く違うクイーンが目を細めて外の景色を眺めている。何か話しかけようとするが、声にする前に喉の辺りで詰まってしまい、結局話しかけることができない。正直、こんなに緊張するのは久しぶりだ。まるで十代の少年の頃のようである。
 そんな訳で会話のないまま靖国通りを走り続け、ゆうこのマンションまであと10分とカーナビが言ったので、ようやく彼女にゆうこに電話するよう話しかけた。

「そう言えば、オマエ、未だにガラケーなのな」
「お、おお… あんま新しいもん追っかけんの、好きじゃねーんだわ」
 年寄りかよ。おばあちゃんかよ。あ、そうか、リアルに祖母だったわ。
「でもラインとか出来ないし。不便だろう?」
「は? 昭和にラインなんて無かったろーが。それでもそんなに不便だったかあの頃?」
 テレビなんていらない、ラジオで十分とか、レコードさえあればC Dなんて不要でしょ、と言われてる気がする。
 でもこのブレない信念は俺を優しく癒してくれる。目には見えない炭火のような暖かさに心をかざしているうちに、千鳥ヶ淵のゆうこのマンションに到着する。

「…スッゲー ここかよ…」
「ははは… まあ落ち着け…」

 内堀通り沿いの石垣を模した重厚な外壁が、来るものを拒む壮絶な威圧感を醸し出している。そのエントランスを出たところに白のサマーセーターに白のストローハット、紺のパンツ姿のゆうこ、面影がゆうこによく似ているショートヘアの若い女子、そして犬用のキャリーバッグからチョロリと顔を覗かせている小型犬、パドスちゃんが俺たちを出迎えている。
 … 白のサマーセーター、思いっ切り被ってるし…

 娘の純子さんとは初対面だ。母親似の物凄い美形なのだが、目の下にクッキリと隈を残し、げっそり感が半端無い。
 ゆうこからはあまり話を聞いていなかったので、車中ではもっぱら純子さんの話題となる。
 と言うか、純子さんの一人舞台である…

「昨日なんて家帰ったの、二時ですよ。と言うか昨日祝日でしたよね、それ知ったの出社してからでしたから。明日から有給取るならその分働いてから帰れって。と言うか、え? 労働基準法? 何ですかそれ。と言うか私、入社して四年ですかね、初めてですよ有給取らせてくれたの。と言うか…」

 彼女は神保町にある中堅出版社に勤めていると言う。
 
 大塚にある国立大学を卒業した後、元々本が好きだった彼女は希望通り出版社に就職するも、自身の夢と仕事の現実とのギャップに慣れるまで三年、四年目の最近ふと気がつくと俗に言う『社畜』に成り果てた己の顔を鏡の中で呆然と見つめる今日この頃なのだそうだ。

 そんな彼女の唯一の慰みがこの犬だとか。

 犬のことは全くわからない俺なので、その犬が豆柴という種類の犬だと言われてもああそうですか、としか言えない。パドスちゃんは調子が悪いせいか、思ったよりも大人しくしているのだが、それは助手席のクイーンに怯えているに違いないと俺は思っている。

 連休後の平日の下り線、東名高速は横浜青葉I C付近で5キロ程の渋滞があったが、それ以外は渋滞がなく、俺たちはほぼほぼ順調に走っている。
 のだが、純子さんの愚痴も更に凄みを増してきて、少々ウンザリしてきたので中井サービスエリアで休憩を取ることにする。

 クイーンが一服するというので、買ったばかりの冷たい缶コーヒーを持って喫煙スペースに向かう。iQOSの薄い煙を青空に吹きかけて彼女は呟く。
「あれじゃ、犬じゃ無くても調子悪くなるわな…」
 俺は頷きながら缶コーヒーを一口啜り、
「毎日あんな愚痴聞かされたらな… 転職とか考えればいいのに」
 クイーンは首を振りつつ。
「ありゃオマエ、中毒だろ」
「え… 中毒って… 仕事中毒?」
「おお。やめたくてもやめられねえ。クスリとかと一緒だろ」
「……」
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