17/18 救急車が病院につき
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由美子の意識が戻ると、窓の外はすでに暗闇で、まず思ったことは、冬休みに入ってからはそれが日課となっているので、達郎に電話をしなくてはならない、ということなのだが、携帯電話を川尻たちに没収されたままになっていることを思い出す。
意識は割合にはっきりとしていて、記憶もしっかりとしている。加藤に髪の毛をつかまれ引き倒されたときに頭を強く打ち、気を失ったのであり、誰が通報したのかは分からないが、救急車に乗せられて、病院まで連れてこられたのである。
検査を受けたことも何となく覚えていて、これは一時的な脳震盪か何かだろう、と由美子は思うのだが、やはり専門家の判断を待つべきであって、ひょっとすると琴子のように一生ベッドから出られないようなこともあるかも知れないのだから、そのことを告げられるときになってショックを受けないように心の準備をしておく。
看護婦が現われたので、由美子は、電話をしたいのだけど、どうすればいいのか、と訊ねる。
「検査の結果が出るまでは絶対安静だから、直接電話することはできないのよね。でも、さっきお母さんが来られたみたいだから、用事ならお母さんに頼めばいいんじゃないかしら。今、先生の説明を聞いているみたいだから、もうちょっとすれば来ると思うわよ」
「そうですか、ありがとうございます」お母さんが来ているのか、また怒られちゃうな。
それからしばらくして、母親が姿を見せ、ニコリと微笑む。
「思ったより元気そうね。さっき先生に話を聞いてきたんだけど、大したことないそうよ。すぐにでも家に帰って良いらしいけど、時間も時間だから、一泊させてもらうことにしたわ。だから安心して休ませてもらいなさい」
妙な違和感。由美子は母親を見つめる。別にウソはついていないように思う。だけど、何かがおかしい。
「お父さんには連絡したの?」由美子は探りを入れるために質問する。
「うん。会社に電話したら、おどろいていたけど、大したことないって伝えたら、安心していたわ」
「ふーん…」やはりおかしい。ならば核心を突いてみるか。
「加藤は?」
「ん? さっきまでいたんだけどね。帰っちゃったわよ。由美子さんにどうぞよろしく、だって」母親はそう言って含み笑いを見せる。
「背が高くて、なかなかカッコ良い子じゃない。達郎くんというものがありながら、あなたも隅に置けないわね」
ウフフと声を出して笑う母親を尻目に、由美子は、なるほどね、とつぶやく。
なるほどね。結局、加藤も負け犬に過ぎなかったってことか。
「何があっても引き下がらない」と言ったとき、加藤は真剣にそう思っていたのだろうが、いざナイフを突きつけられ、実際に生命の危険を感じた瞬間、その言葉はウソとなった。それは、加藤が負け犬と化した瞬間でもあった。「動けば、刺す」という由美子の決意を目の前にして、加藤はビビったのである。
一度、負けることを覚えた野良犬は、そのエネルギーを一気に失い、保身を第一に考えるようになる。特に、加藤のように群れに依存していない場合、その傾向は顕著にあらわれる。
意識を失って無防備な状態だった、獲物=由美子を目の前にしても、負け犬と化した加藤は、その肉に食らいつくことが出来ず、ただ由美子が自分の家で死ぬことを恐れ、保身のために救急車を呼んだ。
そして、由美子の母親に対しては、ケガの原因について、ウソの証言をしたのである。多分、由美子が自主的に参加したカラオケパーティーのなかで、予期せぬ事故があったことにでもなっているのだろう。
母親の態度が呑気なのはそのためである。ケガの原因を知らなければ、真っ先に由美子に訊ねるはずである。原因を知っているのなら、もっと憤然としているはずだ。しかし、母親はニコリと笑いながら病室に入ってきたまま、何も訊ねない。由美子はそこに違和感を感じたのだった。もし自分の娘が犯されそうになる過程で、その傷を負ったと知ったなら、母親の呑気さは消え去るであろう。
しかし、由美子は母親にそのウソを指摘しなかった。
負け犬には負け犬の運命が待っている。止めを刺すのはわたしじゃない。
結局、達郎に電話をしたのは、翌日、家に帰ってからで、自分の身に起こったことを思い浮かべて、さぞ心配しているだろうと、由美子は思ったのだが、達郎にそんな風はなく、今日は電話はないのかな(いつも電話をかけるのは由美子からだった)、まあ、そんな日もあるかな、ぐらいに考えていたらしい。
由美子は、昨日の出来事を達郎に話そうかどうか、迷った。話せば、達郎は責任感に燃えて、わたしのことを守ろうとして、これまでにも増して、わたしと行動を共にしようとするだろう。その気持ちは嬉しいが、そうなると何だか窮屈な感じがする。かと言って、こういう重大なことを話さないというのは、達郎に悪いような気もする。
母親がそう信じているように、予期せぬ事故だったことにして、ウソをついても良いが、それだと自分が達郎に隠れて、加藤たちのカラオケパーティーに参加していたことになってしまう。やはり、正直に話すしかないか。
「あの…話があるんだけど」
「はい? 何ですか?」
「あのね…」
そこで、由美子はひらめいて、方針を変える。
「ずっと昔から、そうなんだけど、わたしのなかに黒猫が住んでいるのね」
「え? 黒猫ですか?」
「うん。達郎と出会うずっと前から、そうなの」
「はあ…」
「それで、わたしが夜の体育倉庫に忍び込んでいたのも、その黒猫と会えるような気がしていたからなの」
「…」
「聞いてる?」
「はい、聞いてます」
「でも、ほら、桐生に見つかって、火堂の奴にもそれを見られてたみたいで、学校にそのことが広まっちゃって、それ以来、忍び込めなくなっちゃったでしょ?」
「そうでしたね」
「そう。それで、わたし、その黒猫と会うことができなくなったような気がして、なんていうか、自分のなかで黒猫が閉じ込められて、暴れているような気がして、精神的に不安定になっちゃったの」
「そうなんですか。それは気がつかなったです」
「まあ、微妙にバランスを崩したぐらいのことだったから、傍から見ても、分からなかったとは思うけど、結構、変な夢とか見たりもしたの」
「悪夢にうなされたということですね」
「うん。それでね。なんとかして、自分のなかから黒猫を追い出そうって思ったの。来年は進路のこととか、いろいろ考えなくちゃいけないからね。いつまでも、構っていられないでしょ」
「確かにそうですね」
「それでね。黒猫を追い出すために、自分のなかに野良犬を入れようとしたの。凶暴なやつをね。その野良犬というのが、あの三年の不良グループの加藤っていう背の高い奴なんだけど、あいつを受け入れようとしたわけ。でもね、自分のなかにいるものを黒猫から野良犬に変えたところで、何の解決にもならないんじゃないかと思って、黒猫とともに生きていくことを決心して、ギリギリのところで、加藤を拒絶したの。そうすると、その途端に、何だか黒猫の存在がスーッと薄れていくような気がして、その黒猫っていうのは、わたしの幼なじみのことで、名前は数馬ちゃんって言って、小さい頃に川で溺れて死んじゃったんだけど、数馬ちゃん、成仏したのかなって思うんだけど、やっぱりわたしのなかには数馬ちゃんが生きていて、これからも、わたしは数馬ちゃんと一緒に生きていくんだと思うと、なんだかとってもうれしいの」
由美子は、話しているうちに鼻がグズグズとなりだして、必死にこらえていたのだが、最後あたりは、自分でも何を言っているのか良く分からなくなってきて、涙がこぼれる。
達郎は、最初のうちは別れ話でも切り出されているのかと思って、身を固くしていたのだが、どうも様子が違うことに気付き、何だか良く分からないが、由美子の調子につられて、最後あたりはもらい泣きしてしまう。
「何だか良く分かりませんけど、要は、いろいろあったけど頑張っていこうと思うってことですか?」達郎は涙を拭って、訊ねる。
「うん。まあ、そういうことだね」由美子の声も、いつもの調子に戻る。
「えーと…黒猫っていうのが、由美子さんの幼なじみの数馬さんのことで、野良犬ってのは、加藤さんのことなんですね?」
「うん、そう。」
「じゃあ、ぼくは何なんですか?」
「え? あ、達郎ね。えーと…うーん…」
「何ですか?」達郎の声の調子は、何故か、ウキウキとしている。
「都合の良い番犬…かな」
電話の向こうで達郎が絶句する。
やべ、本当のこと、言い過ぎたか!?