6/18 放課後、梨奈がパタパタと駆けてきて
文字数 2,697文字
「センパイ、こんにちは」
「おう、火堂か」桐生はとつぜん声をかけられてビクッとなる。
「あ、すみません、ビックリさせちゃいましたね」
「いや、気にしなくていい」桐生はそう言って、黙々とストレッチを続ける。
「今日は、ハイジャンプチームは筋トレですか?」
「ああ、グラウンドコンディションがいまいち良くないからな…それに、また降り出してきそうな感じだろ?」
梨奈は空を見上げる。灰色の雨雲が低くたれこめている。
「長距離走チームはどうするんだ?」と桐生。
「外周道路を走る予定です。マラソンの場合、濡れた路面での練習も重要ですからね」
「ふーん…なるほどな」
それでふたりとも黙り込んでしまうが、しばらくの後、梨奈が口を開く。
「わたし…見てたんです…」
桐生のストレッチ運動が止まる。「何を?」
「昨日の朝…」そこで梨奈は口をつぐむ。
桐生はハッとして、梨奈を見上げる。
「ハイジャンプチームの人たちからは死角になっていて見えなかったみたいですけど、あのとき、わたし、たまたま校舎の方にいて、誰かがマットの上に寝そべっているのが見えたんです」
桐生は黙っている。
「あれ…誰なんですか?」
桐生は視線を戻して、再びストレッチ運動を始める。
「さあな…よく見なかったから、誰だか分からない。小物入れを取りに体育倉庫に行ったら、そこにいたんだ」
「体育倉庫の窓が割れていたの、その人がやったんじゃないんですか?」梨奈は詰問口調になってくる。
「そんなことは知らない。シャッターを開けると、そこに裸の女が寝そべっていた。だから、見ないようにして棚から小物入れを持ち出しただけだ。窓ガラスが割れていたことなんて、そのときは気付かなかった」桐生は平静に答える。
「じゃあ、女の人がいたことは先生に言ったんですか?」
「いや」
「なぜ言わないんですか? その人、何か盗もうとしていたのかも知れないじゃないですか」梨奈の声は涙まじりになってくる。
桐生はそれには答えずに、ストレッチ運動を終えて立ちあがり、トレーニング室に入ろうとする。梨奈はその腕をつかんで引き止める。
「桐生センパイ、その人のこと知っているんじゃないですか? それで、その人をかばっているんじゃないんですか?」
「知らないって言ってるだろ」と、その手を振りほどいて、振り返ったそのとき、桐生は、たまたま通りかかった由美子の姿をみとめて、思わず「あッ」と声を上げてしまう。
由美子にしてもそれは同じで、不意に視線が合ってしまったので、とっさに「あッ、どうも」と応えつつ、頬が上気するのを感じる。由美子がふと視線を感じて、そちらを見ると、梨奈がすごい形相でこちらをにらんでいる。
「センパイにちょっかい出すの、やめてもらえませんか?」
達郎とともに通用門を通りかかったときに、由美子はとつぜん後ろから声をかけられる。
「はあ?」由美子が振り返ると、そこには梨奈が立っている。
「センパイは星野さんとは全然別の世界に生きている人なんです。このあいだの大会でも新記録を出したんです。すごい人なんです」
達郎は自転車を支えたままキョトンとしている。
「あんた、いきなり何言うのよ」由美子はムッとして言う。
「しらばっくれてもダメですよ。わたし見てたんですから。今度センパイをたぶらかすようなマネをしたら、生活指導の先生にあのことを話しますからね」
下校していく他の生徒が、何事かといった感じで遠巻きにジロジロと見ていく。
「てめえ…」由美子は怒りにうめく。
「星野さん、今度問題を起こしたら、かなりマズイですよね? だったら、わたしの言うこと聞いてくれますよね?」
由美子は怒りをおさえて、「行こう」と達郎に声をかけて、背中を見せる。
しかし、その背中に追い討ちをかけるように、「言っておきますけど、わたし、本気ですから」という言葉が浴びせかけられると、由美子のなかで何かが切れる。
「上等だ、てめえ、コラ! その本気ってのを見せてもらおうじゃねえか!」
梨奈に襲いかかろうとする由美子を達郎が必死に止めて、その場は事なきを得る。
どうして由美子が怒っているのか、達郎には分からないが、大して気にはならない。達郎は黙ったままペダルを踏み込む。
由美子さん、まだ怒っているのかな? 由美子さんは本当に気が短くて、ちょっとしたことですぐに怒るよな。だけど、この人が怒っていると、それが自分に向けられているときでさえ、胸がワクワクしてくるのは何故だろう。
実際、達郎は怒っているときの由美子が一番キュートだと思う。
ふたりの乗る自転車が橋の上を通りかかるところで、由美子が自転車を止めるように言う。由美子は自転車を降り、欄干にひじを乗せて、川の流れに視線を落とす。川はこの二日間の断続的な降雨で増水し、ゴウゴウと音を立てて流れている。
由美子はしばらくのあいだそれを眺めているが、おもむろに吸っていたタバコを飛ばす。タバコはあっという間に濁った流れのなかに消える。達郎は自転車にまたがったまま、由美子の首筋のあたりを見ている。
「由美子さん、どうかしましたか?」
「ん、別に」由美子は小さくつぶやくが、川の音にかき消され、達郎の耳には届かない。そのままふたりは黙り込んでしまう。
達郎はどうしたら良いのか分からなかったので、とりあえず自転車を降りて由美子のとなりに並ぶことにする。
しばらくの後、由美子が口を開く。
「昨日、体育倉庫の窓が割れてるって、先公たちが騒いでいたでしょ…あれ、わたしがやったんだ、体育倉庫のなかに忍び込むためにね…それまでにも時々忍び込んでいたんだけど、昨日の朝はあまりに寒かったから、そのまま朝までいたんだ。もう、いいやって思って…で、朝に、陸上部の桐生ってのに見つかっちゃったんだ。さっきのヤツにも見られてたみたいだけど…あいつが先公にチクるって言っていたのはそのことね。何を勘違いしているのか分からないけど」
「はあ、そうだったんですか」
「夜の学校に行くと落ち着くんだ…わたしって、変でしょ?」
「いや、別に変じゃないですよ」
「そう?」
「ええ」
「んじゃ、今度、誘うよ」
「ええ、是非」
そして、ふたりはキスをして、自転車にふたり乗りで走り去る。