4/18 由美子は、停学が解けて
文字数 2,965文字
学校全体が、「さあ、みんなで由美子さんを励ましましょう」という雰囲気に包まれていて、由美子には何とも居心地が悪く、どこに行っても、自分の行動を監視されているような気がして、校舎の裏にいても、部室にいても、気持ちが落ち着かない。ひとりでいると、誰かに話し掛けられるような気がしたので、休み時間のあいだ、由美子は、できるだけ達郎と一緒にいるようにする。
校庭のベンチで、ふたりが並んで、何と言うこともない他愛のない会話をしていても、まわりからは、傷心している先輩を、後輩が健気に励ましているように見えるらしく、妙に優しげな視線をこちらに向けてくるので、「何、見てんだよ!」と怒鳴りたくもなるのだが、あれこれ話し掛けてこないだけマシだと思うことで、気持ちを鎮める。
「結局、あいつら、ああやって、わたしをここから追い出そうとしているのよね」由美子が憤懣やる方ない様子で言う。
達郎は、何も言わずに微笑みを浮かべて、由美子の話を聞いている。
「何だって、あんなに他人のことに首を突っ込みたがるのかしら…野次馬根性を隠そうともしないんだから、まったく…恥を知れって感じよね」
まわりの生徒が由美子のことを励まそうとしていることが、何故、由美子を学校から「追い出そう」としていることになるのか、達郎には分からなかったし、それと「野次馬根性」がどう関係するのかも、さっぱり分からなかったが、「まあ、由美子さんがそう言うんだから、そうなんだろう」ぐらいに考えて、達郎はその話に何度か頷いた。
放課後、達郎は当番で、トイレを掃除していたので、由美子は廊下で待っている。窓からは運動場が見える。いくつかの体育会系クラブが、部活の準備を進めている。陸上部の何人かが、体育倉庫からハイジャンプ用のマットを運び出している。由美子は、その様子をぼんやりと眺めて、もう一ヶ月以上、夜の学校に忍び込んでいないことを思い出す。
体育倉庫の暗闇。窓から差し込む月の光。マットの砂まじりの冷たさ。いまとなっては、すべてが懐かしい…
運動場では、このあいだの大会で記録をぬりかえた背の高い男、彼の名は桐生和彦なのだが、彼にひとりの陸上部員の女子、彼女の名は火堂梨奈、が声をかける。
「桐生センパイ。何か手伝うことないですか?」梨奈の声はウキウキとしている。
「ん? そうだな…」桐生はグルリと周りの状況を見回す。周りでは数人のハイジャンプチームが準備を進めていて、人手は足りている。
「これといってないな」
「そうですか」梨奈の顔がすこし曇る。
「長距離走チームの準備は済んだのか?」
「はい」梨奈の手にはストップウォッチと記録用紙。
「長距離走チームは準備が簡単でいいな」
「はい、そうなんです」とニコニコ。
そのとき、「桐生さん、準備終わりました」という、チームメイトの声。
「よし。それじゃ(ウォーミング)アップ、始めるぞ」桐生はそう応えて、「じゃ、そういうことで」と梨奈に言い、ハイジャンプチームのもとへと去っていく。
梨奈は、「頑張ってくださいね」とだけ言って、トボトボと長距離走チームの集合場所である通用門に向かって歩いていくが、そこにはまだ誰も来ていない。
「届かぬ片想い、か…」寂しげに去っていく梨奈のすがたを見送りながら、由美子はつぶやく。
「何がですか?」いつのまにか、達郎が来ていて、由美子の後ろから声を掛ける。
由美子はすこし驚いて振り向き、「ううん、別に」と答える。
由美子と達郎が、病室に入ると、琴子の母親が「あ、由美子ちゃん、達郎くん、こんにちは」と応える。琴子の母親は、一時に比べると大分落ち着きを取り戻していて、由美子に対しても、わだかまりなく接することができるようになり、感情的になって、由美子につらく当たったことに関しても、一週間ほど前になるが、きちんと由美子に謝ってくれたのである。
琴子は、ベッドに寝そべり、窓の外に目を向けている。
「琴子、調子はどう?」由美子は琴子に話しかける。
琴子はゆっくりと首を巡らして、由美子の方に視線を向けるが、その眼は由美子の後ろの空間を見ているようで、焦点が合わない。由美子は必死に、琴子の瞳を覗き込むが、そこに理性の光はない。
「大分、顔色が良くなったみたいですね」由美子は、琴子の母親を振りかえる。
「そうなのよ、食欲は出てきたみたいなの」と琴子の母親。
琴子は、流動食であれば口にするし、呼びかければこちらを向くのだが、それは反射運動に過ぎず、意識があっての行動ではない。
由美子は、琴子の右手を取り、自分の頬に当てる。
「はやく戻っておいでよ」由美子は口の中で小さくつぶやく。
それが琴子の意識に通じているのかどうか、分からない…いや、多分、伝わってない…無駄なことだとは思うのだけど…
帰りの電車に乗り込むころには、あたりは薄暗闇に包まれて、空気は肌寒く感じられる。由美子と達郎は、流れていく景色をただ眺めている。由美子は息をひとつ、ふうと吐き、達郎の肩に頭を乗せ、目を閉じる。
達郎は、肩にかかる重みを快く思いながら、自分は後ろの窓に後頭部を預ける。ふと視線を上げると、吊り革の揺れている向こうに、吊り広告が微かに揺れる。広告のなかでは、有名なアイドルが商品のシャンプーを手に持って、こちらを見ている。達郎は、由美子の頭に鼻を近づけて、匂いを嗅いでみる。シャンプーの匂いに混じって、ほのかに汗の臭いがする。
由美子は夢を見ていた。電車の座席に、達郎とふたりで並んで座っている。ふたりのほかに乗客はなく、車内はガランとしている。夜空には、すこし欠けた月が浮かび上がっているのだが、窓の外は真っ暗闇で、わずかに車内の蛍光灯の明かりを浴びて、通り過ぎる電柱が見えるばかりである。
ガタンゴトンという電車が走る音に混じって、汽笛のような音が聞こえてくる。
「ああ、あれは野良犬が腹を空かせて鳴いているんですね」となりの達郎が言う。
「ふーん」由美子は、向かいの窓に映る達郎の姿を見ながら答える。
「だけど、こんなに真っ暗だと、何も見えないから、エサを探すこともできないんですよ」窓のなかの達郎の口は、妙にゆっくりと動く。
「え? 犬って、夜行性だから、夜目が効くんじゃないの?」由美子はとなりの達郎に視線を移す。
しかし、そこに達郎の姿はなく、そこにいるのは学生服を着込んだ、一匹の野良犬…狼男?
「それが、そうでもないんですよ」というその声は、達郎のもの。