5/18 夜半すぎ、雨雲が月を覆い
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あの日、前日の豪雨の影響で、川の水嵩は増し、土砂を含んで茶色くにごった水がゴウゴウと流れていた。幼なじみの数馬は、川に落ちると、あっというまに流されて、見えなくなってしまった。由美子は怖さのあまりに、その場に座り込み、大声を上げて泣き続けた。まわりに大人の姿はない。由美子は、はやく誰かに見つけてもらいたくて、さらに声を上げた。
そして、約三十分後に、ひとりの男性が通り掛かり、由美子に、「どうしたんだい?」と声をかけた。由美子は、「わたしは悪くないもん…何もしてないもん…」と弱々しくつぶやき、泣き続けた。
由美子はいつのまにか眠ってしまっていたようで、目を覚ますと、時計の針は午前三時を指している。雨は止んだのだろうか、ザアザアという音はすでに聞こえない。どこか遠くで、パトカーのサイレンを回す音が聞こえてくる。パトカーの音が遠ざかると、あたりは静寂に包まれるが、それとともに、ボワンボワンという耳鳴りが、由美子の意識に引っかかるようになる。途端に、時計の針のカチカチという音が、意識の前面に大音量で迫ってくる。
由美子は、両親に気付かれないように部屋を抜け出す。午前三時の住宅街は、静まりかえっている。ところどころにある外灯が、雨上がりのアスファルトに反映している。
由美子は、スウェットの上下のうえに、薄手のコートを羽織っているだけなので、肌寒く、セーターか何かをなかに着てくるべきだったと後悔する。襟元をかきあわせて、ホウと白い息を吐き、いよいよ冬が来るんだ、と実感する。
いつのまにか月が出ていて、校舎は暗闇に白く浮き上がって見える。運動場にはところどころに水溜りができている。由美子は、フェンス越しにそれを右手に見ながら、ずっと歩いていく。
しばらく行くと、東西に伸びていたフェンスは、学校と雑木林を区切るために、北に向かって直角に曲がる。由美子は、雑木林のなかへと、ためらわずに入っていく。
ここの学校は、運動場が敷地の南側半分を占めており、体育倉庫は運動場の北西に位置している。由美子は、雑木林のなかを、そのままフェンス沿いに北上して、体育倉庫に近づき、あたりから死角になるところでフェンスを乗り越える。
「あれ?」右のフトモモの前面あたり、スウェットが破けている。どこかに引っ掛けたのだろうか、破れ目のあいだから血の滲んだ肌が見える。ズキンズキンという、痛みが傷口をうずかせるが、たいして深い傷ではない。由美子は傷口に軽くツバをつけて、応急処置を済ませる。
窓枠に手をかけて力を入れるが、窓には鍵がかかっていてビクともしない。鍵が閉まっていることは今までにも何度かあったことで、そのときはあきらめてしまうのだが、今日は寒いし、フトモモを傷つけて心細かったので、何とかして入れないものかと努力してみるのだが、しばらくの後にやっぱりあきらめてしまう。
校舎の方に向かって歩く。体育館の扉や窓を調べてみるが、戸締りは完璧になされている。「やれやれ」と体育館の入り口にあるすのこに腰をかけて、コートのポケットからタバコとライターを取り出す。火をつけようとしたときに、スウェットのフトモモが血で染まり、黒いシミができているのに気付く。由美子は、ワッと声を出しておどろき、どうりでフトモモがベトベトするはずだ、とひとりごちる。
由美子はスウェットパンツを脱ぎ、体育館のわきにある水道で傷口を洗う。水はとても冷たく感じられて、身体がガタガタと震える。暗くてよく見えないのだが、血は止まりつつあるように思えた。脱いだスウェットパンツを丸めて、傷口に押し当てる。
ふたたび雨雲が月を覆い、ポツリポツリと雨が降り始める。雨のせいで寒さが増したように感じ、由美子は両足を引き寄せ、抱きかかえる。由美子は、自分が何をしているのか、何をしたいのか、よく分からなくなってくる。
手ごろな石を拾い上げ、窓に向かって思い切り投げつける。窓のすりガラスに、パンッという音とともに穴ができる。由美子はどしゃ降りの雨に吹きつけられながら、その穴に手を入れ、窓の鍵を開ける。
そこが自分の居場所でないのは分かっていた。それでも、由美子は窓を開けて、体育倉庫のなかへと入っていく。とにかく寒かったのだ。
翌朝、由美子はシャッターが勢いよく上げられる音で目を覚ます。差し込む朝の光がまぶしい。そこにはひとりの男が立っている。逆光でその顔はよく見えないが、その男は「信じられない」という表情をしているに違いない。
向こうの方から男を呼ぶ声がする。
「どうしたー、桐生ー、はやく持ってこいよー」
「桐生」と呼びかけられたその男は、声の方を振り向き、「ああ、今いく」と応えてから中に入ってくる。
桐生はハイジャンプ用マットの上に横たわっている由美子に近づき、かたわらに脱ぎ捨ててあるコートを由美子の身体にかける。そして、倉庫内に据え付けられた棚から、「陸上部用」というラベルの貼られたブリキ缶の小物入れを手に取り、外に出て、シャッターに手をかける。
「そろそろ他の部の連中も来る頃だから、はやいとこ出ておいた方がいいぞ…」桐生は由美子を見ずに声をかけ、シャッターを勢いよく下ろす。