10/18 風が強くなり、枯れ葉が宙を舞う
文字数 3,174文字
由美子が金魚屋に着くと、達郎は子供たちとプロ野球談義に花を咲かせている。達郎は由美子に気付いて振りかえるのだが、不思議そうな顔で「何かあったんですか?」と聞く。
由美子は一瞬迷ってから「うん、ちょっとね…」と言葉をにごす。
今は気が動転していて、何と説明すれば良いのか分からない。気を落ち着けてからゆっくり話そう、由美子はそう思い、「後で話すよ」と先の言葉に付け加える。
しかし、何と話したものか。事実だけを述べるとすれば、「桐生に告白された」と言えばいいのだが、それでいいのだろうか。いや、それだけでは何か片手落ちのような気がする。やはり、「桐生に告白されたが、ことわった」とまで言うべきだろう。
「あれ?」そこで、由美子は桐生の告白に対してはっきりとことわっていないことに気付く。まだことわっていないのに「ことわった」とは言いにくいので、「桐生に告白されたのだが、ことわるつもりだ」と言うことにする。
「いや、だからと言って、付き合おうかどうしようか悩んだうえでことわるわけではなくて、すぐにことわらなかったのは、あまりにも突然のことだったので、不意を突かれて、気が動転してしまい、すぐにことわりの言葉が出てこなかったからだ」と、それに続ける言い訳も考えつつ、こんなことに気を揉まなければならないのは、そもそも桐生のヤツがバカなことを言い出すからだ、と恨めしく思う。
「桐生、おまえ、火堂に何か言ったのか?」長距離走チームのリーダーが桐生に尋ねる。
「ん…ああ」桐生は、肩にかついでいたバーベルを地面に置いて、流れる汗をタオルで拭う。
「火堂のやつ…泣いてたぞ…」
「そうか…」
「そうかって、おまえ…どうする気なんだ?」
「どうするって、何を?」
「何をって…女の子、泣かしたんだからよ…それに…」
「それに?」
「おまえたち、付き合ってんだろ?」
「付き合ってる? 俺と火堂が?…フーン、長距離走チームでは、そういうことになってるのか」桐生は、ふたたびバーベルを肩にかつぎ上げる。
「違うのかよ」
「いいよ、そういうことで…それなら、それで…」桐生はそう言って、スクワットジャンプを始める。ガチャガチャとバーベルを鳴らし、二十回のセットを終え、ふたたびバーベルを地面に下ろす。長距離走チームのリーダーは、無言で桐生の傍らに立ち、その様子を眺めている。桐生は汗を拭い、長距離走チームのリーダーに向き直り、口を開く。
「いいよ、そういうことで…俺と火堂が付き合っていることになっているんなら、別れるだけのことだから」
次の瞬間、拳が飛んできて、それはかわしたのだが、取っ組み合いになり、ほかの部員が、部のエースにケガをさせては一大事、と、急いで止めに入る。
「ふざけんな! てめえ! ちょっと才能があるからって、いい気になってんじゃねえぞ!」と長距離走チームのリーダー。
「うるせえ! そんなに火堂のことが気になるんだったら、てめえでしっかり飼いならせよ! こっちだって迷惑してんだよ!」と桐生。
あの朝、マットの上に由美子の姿をみとめて以来、桐生は練習をしていても集中できず、イライラをつのらせていた。ジャンプの後、背中からマットに落ちるたびに、由美子の姿が頭をよぎった。由美子が全裸で横たわっていたのは、今、自分が身を預けている、このマットなのだと思うと、ますますその姿がくっきりと現われて、桐生を悩ませた。
もう二度とあの姿を見ることができないのかと思うと、余計に見たい気持ちが強くなっていった。由美子を見かけると、その姿を目で追った。髪がサラサラと風になびき、白い肌がまぶしかった。その横にはいつも達郎がいた。あんなヤツがタイプなのか、あんな男のどこがいいんだ…
桐生は、嫉妬している自分に気付き、そんな自分がイヤになった。
秋の終わりの日が暮れて、あたりは薄暗闇につつまれていた。その日の練習を終えて、部員たちが帰っていく。桐生は、体育倉庫の鍵を閉じようと、最後のチェックをしていた。
「センパイ」という誰かの声が、体育倉庫の片隅から聞こえる。
桐生は、思わぬ声におどろき、目をこらした。そこにいたのは、梨奈だった。
「ああ、火堂か。どうしたんだ、こんなところで…おどろかすなよ」
体育倉庫の片隅でしゃがみ込んでいた梨奈が立ち上がり、ひとつニコリとほほえみ、一歩、二歩と近付いてくる。
梨奈が自分に思いを寄せていることは、桐生も気付いていた。ただ、その意思表示があまりにもあからさまなので、受け入れがたく感じていたのだった。しかし、暗闇のなかをゆっくりと近付いてくる梨奈は、まるで別人のように思えた。何故かは分からなかったが、そのときの梨奈はとても魅力的に見えた。ふたりは抱き合い、口付けを交わした。
その翌朝、「センパーイ」と呼びかけながら、駆けてくる梨奈の姿を見たとき、桐生はその姿に何の魅力も感じず、むしろ鈍重な印象を受けた。桐生はうんざりして、昨日の俺はどうかしていた、と後悔したが、それを口に出すことはできなかった。
それから一週間が経ち、そのあいだに何度か桐生は梨奈と抱き合った。しかし、あの日の魅力は二度と感じられなかった。桐生は、心底うんざりしながらも、惰性で梨奈との関係をつづけていた。
そんなある日の放課後、体育倉庫の裏でふたりが抱き合っているところに、由美子が現われた。すぐにその身体を引きはがしたが、何も言うこともできず、女みたいに真っ赤になって下を向いた。由美子と梨奈は何かを言い合っていたが、桐生の耳には入ってこなかった。
ドサッという音がしたので、そちらを向くと、由美子がフェンスの向こうで倒れていた。次の瞬間には身体が動いていた。フェンスを越えて、由美子を抱き起こした。あのときに見た、あの肉体に触れているのだと思うと、血が沸き立った。それは、梨奈のものよりずっと細く、ずっと柔らかいと思った。すでに梨奈のことは頭のなかから消えていた。どうとでもなれ、という気になり、桐生は由美子に思いの丈をぶちまけた。
「それは許しがたいですね」由美子の話を黙って聞いていた達郎は、うめくように言って、みかん水をぐっとあおる。
「許しがたい?」由美子は、裂きイカをかじり、聞き返す。
「ええ…いくらなんでも、その子の目の前で告白するなんて、ひどいじゃないですか」
「うん、たしかにね…何かあてつけてるみたいだもんね」
「そうですよ。きちんと別れてから、次の告白をするべきですよ。一度に両方しようというのは、恋愛に対するサボタージュですよ」
「ふんふん…なるほどね」
「それに、さらに問題なのは…火堂さん、でしたっけ? その女の子…その火堂さんから、不必要な恨みを買ったんじゃないか、ってことですね」
「ああ、そうか…わたしが体育倉庫に忍び込んでいたこと、チクられるかも知れないか…それは、ちょっとマズいな」
「そうですよ…退学なんてことにはならないとおもいますけどね」達郎はそう言って、カレーせんべをかじり、すこし考え込む。
何か名案があれば良いんだけどね、由美子はそう思い、二本目の裂きイカにかじりつく。