1/18 何かの拍子にふたりの顔が接近して
文字数 2,492文字
河川敷に秋の風が吹く。由美子は、キスってこんなもんか、とあっけなく感じながら、黙っている。
「あ、由美子さん、怒りましたか?」達郎がいつもの口調で言う。
「ん? 別に怒ってないよ」
そのとき、由美子が思い出したのは、小さいときに拾った黒い子猫のことだった。 何故そんなことを思い出したのか分からなかったが、達郎とその黒い子猫のイメージがダブってくる。 結局、由美子の母親が飼うことを許さず、拾った場所に捨てにいったのだが、あれは何処だったか。 ひょっとしたら、この河川敷ではなかったか。
いや、ちがう…捨てたのは別の空き地だった。何せ小さい頃の話だから、記憶があいまいだ。ああ、そうか…思い出した。黒い子猫を捨てに行ったのは、別の空き地だったのだが、そのとき一緒に捨てに行った男の子(たしか数馬という名だった)がいて、その男の子が、この川で溺れ死んだのだった。だから、由美子の記憶のなかで、黒い子猫と河川敷のイメージは、特別な繋がり方をしているのであり、今、黒い子猫のことを思い出したのも、そのためだった。
「どうかしましたか?」達郎が、ボーッとしている由美子に声をかける。
「ん? いや、別に」由美子は笑いでごまかして、火のついたままになっているタバコを一口吸い込む。
「さ、帰るか」由美子は立ちあがり、軽く伸びをうつ。
「はい、じゃ、自転車とってきますね」達郎が立ちあがり、自転車の方へと駆けていく。
由美子は、その背中を見送ってから、ふと思いついて、川の方へと向き直り、手にしたタバコを線香代わりに地面に立てる。そして、手のひらを合わせて、「数馬ちゃん、やきもち焼かないでね」とつぶやく。
校舎の裏、人目につかない場所で、由美子と琴子がタバコを吸っている。琴子は、由美子の影響で、高校一年のときからタバコを吸い始めたのだが、いまや由美子に負けず劣らずのヘビースモーカーとなっていた。当初はぎこちなかったタバコに火をつける動作も、堂に入ったもので、強い風から火種を守りながら、眉間にシワをよせて、強く吸い込む。
「だめだ、つかないや。由美子、火、貸してよ」
「ん…」由美子はタバコをくわえて、顔を琴子に近づける。
由美子が強く吸い込み、その先が赤くなったところへ、琴子が自分のタバコの先をあてて、同様に強く吸う。
「ありがと…」炎が移り、顔が離れる。
いい加減、涼しい風も吹き始めているというのに、水泳部が屋外プールを使っている音が聞こえてくる。水泳部の顧問は、寒さなど気合い次第で克服できる、と本気で信じている類の教師で、生活指導担当でもあった。精神注入棒と称した、丈のみじかい竹刀をつねに持ち歩き、気に入らないことがあると、すぐにそれを振るった。
由美子は、いつも、その教師にありったけの軽蔑の念をこめた視線を向けていたのだが、ある日、その教師が、由美子の視線に気付いて、近づいてきた。
「どうした、星野、ボーッとして。また何か良からぬことでも考えているんじゃあるまいな?」その教師は、耳障りな猫なで声で、そう言った。
「良からぬこと? たとえば?」由美子の目付きが鋭くなる。
「たとえばって、おまえ…」
「援助交際とか?」由美子の目がスーッと細くなり、その瞳に妖しい光が宿る。
その教師はゴクリと生唾を飲み込んで、態度が落ち着かなくなり、「とにかく、真面目にやれよ」と言い置いて、去っていく。
「そしたら、アイツ、急にオドオドしちゃって、とにかく、真面目にやれよ、だって、笑わせるよね」と由美子。
「フフ、でも、気を付けなよ、由美子。アイツ、絶対、あやしいから。由美子を見る目が変なの」琴子は眉間にシワを寄せて、苦々しげな様子で言う。
「へえ、そう?」
「うん。由美子と話しているときだけ、態度が全然ちがうもん」琴子はさらに眉をしかめる。
「ふーん…」という由美子の声は、どこかなげやりである。
「ちょっと、ちゃんと聞いてる? 真剣に話してんのよ」
「うん、聞いてる、聞いてる」
「…」琴子は疑わしげに、由美子を見ていたが、身体をグッと近づけて、「何かあってからじゃ、遅いんだからね」と由美子の耳元でささやく。
「な、何かって…?」すこしたじろいだ様子で、由美子は答える。
琴子は、おもむろに由美子の乳房をムニッとつかんで、「星野ッ、おまえ、こんなにチチでかくして、いいと思ってんのかッ」とその教師の口調を真似る。
「アハハ、やだあ、やめてよ」由美子はそう言って、その手を払いのけて、ふたりは楽しげに笑う。
しかし、どうも最近、琴子のこの手の冗談が、妙に熱のこもったものになってきているのが、由美子にはすこし気になる。
由美子は夜の学校が好きで、散歩がてら忍び込む。特に運動場の隅にある体育倉庫がお気に入りで、窓の鍵が開け放しになっているので、そこから入る。
しばらくして、雨が降りだす。窓にポツポツと音を立てて、水滴が貼りつく。ジメジメとした空気が、由美子の肌にまとわりつく。どうせ中途半端になぶられるのなら、いっそのことあのどしゃ降りのなかに飛び込んでいきたくなる。強い雨に打たれて、ずぶ濡れになって、運動場を転がりまわる。由美子はその爽快さを想像しながら、ハイジャンプ用のマットのうえに、身をながながと横たえる。
暗闇につつまれて、月の光を思う。達郎を思う。琴子を思う。あの教師を思う。数馬を思う。
自分の身体を抱きしめる。時間はゆっくりと流れている。
ずっと、ここでこうして居たいと思うのだが、両親が心配するので、帰ることにする。由美子はゆっくりと身を起こし、まず、パンティに足を通す。